「カナノヒカリ」 942ゴウ (2009ネン フユ)

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「新常用漢字表」試案を批判する

                                             フジワラ タダシ 


   
 1.文化審議会 国語分科会に よって 「常用漢字表」の 「見直し」が すすめられて きたが、その マトメと なる 「試案」が まもなく 文化審議会総会に はかられ 承認 されようと して いる。 その 内容に ついては、すでに 報道されて きた ところで あるが、率直に いって 「常用漢字表」の 目的と される 「わかりやすく、通じやすい文章を書き表すための漢字使用の目安」に なる とは トウテイ いいがたい もので ある。 問題点を ここに すべて あげる ことは できないが、その いくつかを 批判して いく。

 2.まず、字種の カズで あるが、200字 ちかくも ふえる ことに なる。 1981年に 「常用漢字表」が さだめられた ときに 当用漢字から ふやされた 字種 95字の 2倍にも なる。 現在の 常用漢字 1945字で さえ 一般の ヒトビトが 一体 どれだけ ただしく ヨミカキを する ことが できるのか? その ような ことは かんがえて いないに ちがいない。 ふやされた 字種には、当然の ことながら、字画の 複雑な むずかしい ものが おおい。 したがって、ふえた 字数は 10%で あっても、それらを おぼえる 負担は それ 以上の ものに なる ことは いうまでも ない。 字数を ふやせば ふやすだけ よめない ヒトが ふえる。 「わかりにくく、通じにくい文章」に なることは マチガイ ない。 日常的に つかわれて いる 字が もれて いるから いれかえる と いうので あれば、ふやした 分だけ、いや、それ 以上 へらす べきで ある。

 3.パソコンなどの 情報機器を 利用すれば、テガキは できない ような むずかしい 字でも 比較的 たやすく つかう ことが できる。 それは タシカで ある。 だが、その ことを 字数を ふやす 理由に するので あれば、それらの むずかしい 字は テガキを する バアイには つかう 必要の ない ことと すべきで あろう。 ヨミカキに 関する 各種の 調査結果を 直視し、教育現場などの 意見を スナオに うけとめる ならば、テガキが できる ことを めざすのは、1000字以下とし、そのほかの 字は よめるだけで よい ものと すべきで あろう。

 4.「常用漢字表」は、「効率的で共通性の高い漢字を収め」る ことと されて いる ので あるが、ふやされた 字を みれば、それに 反する ものが おおいのに おどろく。 「俺」と いう 字は、オオヤケの バで つかう コトバでは ない、などと いう レベルの 問題で 論争が あったと いう ことだが、そんな ことよりも、この 字が ほかに どんな ツカイミチが あるのか。 それこそが 問題で ある。 「おれ」と ひらがなで かいて まずい 理由が あるの だろうか。 文頭には、漢字が きた ほうが よみやすい、などと いうのは ヘリクツと いう もの。 「あいさつ」と いう コトバは 日常 おおく つかうには ちがいないが、だからと いって 漢字で かかなければ ならない 理由は ない。 「挨」も「拶」も ほかに どんな コトバに つかえると いうのか。 なんと まあ ミゴトに 「非効率的で共通性の低い漢字」が 「収め」られて いる ことか!

 5.音訓も 改悪されて いる。 「私」の 訓には、いままでの 「わたくし」の ほか、「わたし」も くわえられた。 現実に 「わたし」を あらわす 字と して つかわれて いる ことは 事実で あるが、それを みとめたら、「わたくし」と よむのか 「わたし」と よむ のか わからない、という 不都合を 固定化する ことに なる。 のぞましい 音訓は、音ヨミの 「シ」だけを のこし、訓ヨミは なくす ことで あろう。

 6. 異字同訓が ふえて いる ことも 問題で ある。 「臭う」と「匂う」、「張る」と「貼る」。 これは、「かく/よむ」だけで なく、どの 字を つかうべきか 判断する ことが もとめられる。 判断するには 時間を 必要と する。 パソコンで かく バアイでも 能率が おちる こと ウケアイで ある。

 7. 批判すべき 点は まだまだ あるので あるが、ここまで みて きた だけでも この 「試案」の 本質が ご理解 いただけるで あろう。 当用漢字から はるかに 後退した 「常用漢字表」の 目的さえ とても 達成できない 「漢字表」。 こんな ものを なぜ つくる 必要が あるのか。 理念なき 単なる 現状の 追認か、あるいは、そう みせかけた 漢字ノバナシへの ミチを はききよめる 策動か。 いずれにせよ、「わかりやすく、通じやすい文章」を ねがう すべての ヒトビトは これに 反対しなければ ならない。

                                  (2009/01/12)


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