「カナノヒカリ」 919ゴウ (2003ネン ハル)

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コトバの化石

                                           ヤマサキ セイコー 


   
 いまのコドモは,朝 学校に出かけるとき「いってきます」という.むかしは「いってまいります」といって、「いってきます」などというコドモは ひとりもいなかった.いったい いつ変わったのか.
 おもうに,「まいります」という謙譲語はコドモにはむずかしすぎるという考え、なんでも やさしく,と いういくさのアトの教育の原則でそうなったのだろう.コトバには connotation というものがある.文芸なんぞといういものは それで できている ような ものである.「いってまいります」が なくなって,またひとつ connotation が消えて denotation だけのいいまわしが ふえた。
 むかしのいいかたが日常語に化石のように残っていることがある.「いわば」は未然形に「ば」がついている.これは口語から消えていたものである.日本語だけではない.英語で from time immemorial という熟語がある.英語でも形容詞は名詞の前につく.このばあいにはアトについている.そしてなにか なつかしい かげ,nuance を あたえている.ひとは とっさに Longfellow の Evangeline の,This is the forest primeval... を 思い浮かべるだろう.いまのドイツの標準語は高地ドイツ語とよばれるもので,マルチン ルッテルが聖書の翻訳に つかった中部ドイツ語方言をもとにしている.これは一種の人工語であって,各地の方言は なお残っている.オランダ語はそのような方言,低地ドイツ語のひとつが国の標準語になった例である.方言では共通語の古い,複雑な動詞や名詞の活用が消えかけている.しかしひとびとはその複雑な文法を守っている.「まいります」は むずかしいから やめようなどとは だれもいわない.そのくせ,漢字の伝統は とうといものだから,文字改革は まちがっていた などと いうのである.コトバは文字ではない.オトである.
 ところでオランダ語は日常方言であるから,共通ドイツ語のような複雑な活用は なくなって英語に近くなっている.が,ときどき熟語の中に古い活用が残っている.これをやめようなどとは だれもいわない.
 わたしの中学は旧制高等学校の尋常科というもので,七年制の,いま はやりの中高一貫教育のハシリのような学校だった.先生は東大の助手のような人が来る,家がビンボウで大学に行けなくて高等師範学校に行った気鋭の先生が来る,授業は刺激的だった.なかでも国語の石垣謙二先生はいちばん人気があった.学界の最先端を教えてくれる.12-3の少年たちが橋本進吉の『古代国語の音韻について』や石塚龍麿のことを知っている.ほかの国語の先生があるコトバの語原を説明したとき,少年の一人が休み時間に「あれは上代カナヅカイとちがうからマチガイだ」とカゲグチをいった.その石垣先生が新年早々の教室で「おめでとう」といってから,こくばんに「おめでう」と書いていった.「このコトバはいつできたかというと,まずウ音便が はじまったのは平安朝の初期だから,それよりあと,つぎに用言に接頭語の『オ』がつくのは室町以降だから,さらに あとなことが わかります」という調子である.石垣先生は助詞の研究が専門の知る人ぞ知る碩学で,結核気味でよくセキをしていたが,30ちょっとで なくなったあと,押入れにカードのつまった柳行李がいくつかあったそうである.
 その「おめでとう」と「おはよう」はおなじカテゴリーのコトバである.共通語の属する東部方言では形容詞の連用形ではウ音便をしない(「ございます」の前に残っているほかは)が,おめでとうには 残っている.標準語にはウ音便はないから朝のアイサツは「おはやく」にしましょうという人がいるか.
 むかしは「春の小川はサラサラながる... 咲けよ咲けよとささやくごとく」と歌った.これが,小学生に文語体はいけないというので,「さらさらゆくよ... ささやきながら」とかえられた.コドモはうたっているうちに,文語体というものがあることを知り,古典を読む準備ができる.それがなくなった.言語学者は「コトバはかわるもので,おしとどめることはできない」という.本居宣長のコトバを借りれば,さかしらの,いみじき ひがごとである.そしてラ抜きコトバはまもなく標準になる,などという.
 よく日本語は世界でいちばんうつくしいコトバという.ロシヤ人はロシヤ語は...,ポーランド人はポーランド語は...,とまけずにいう.言語小国の人ほどそういう.その理由はなんですか,と聞くと答えられない.すべてのコトバはうつくしい.あるいはどのコトバでも醜くしゃべる人がいるのである.コトダマのさきわう国は日本の専売ではない.コトダマ思想は世界中にある原始人の思惟形態である。
 ただある言語が洗練された文化でつかわれるとコトバ自身が洗練される.ギリシャ語,ラテン語,フランス語などがそうである.しかしそれは言語としての性質が「うつくしい」のではない.文化の美しさの反映にすぎない.
 コトバにとって望ましい状態は変化が少ないことである.たとえばダンテのイタリア語はいまのイタリア語とあまり変わらない.新聞が方丈記のコトバで書かれるようなものだ.だからわたしはコトバについては保守主義者である.それとカナモジ論者であることとはまったくムジュンしない.


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