「カナノヒカリ」 660ゴウ (1977ネン 8ガツ)

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漢字に 造語力が あるか

                                             モモセ チヒロ 


   
 「漢字は造語力に富み」と 新漢字表試案の 前文に かかれて いる。これは ただしいので あろうか.
 わたしは つねづね,漢字には“増語力”は あると しても,造語力は ないと かんがえて いた.たとい 造語力あり と しても,漢字は 増誤力にも とんで いるから,それは きわめて シツの わるい 力で しか ない.わたしは,そう おもって いる.
 いま,「造語力,増誤力,増語力」などと ヘタな シャレを かいたが,この ような 漢語らしき モノが カンタンに できる ことを さして 「漢字は造語力に富み」と いう ので あろうが,わたしは,これ この とおり,やたらに コトバらしい モノを ふやす ことは カンタンに できても,ただしい 「コトバ−づくり」には なって いない と いいたい ので ある.
 そこで,コトバ と いう ものに ついて,もう すこし かんがえて みよう.

 いう までも ない ことで あるが,コトバは クチで 発音できる オンの 組みあわせで なりたって いる.新造語も おなじで あるが その オンは,五十音図がら 無作為に ぬきだした だけでは コトバに ならない.かならず 意味の ある コトバの オン との つながりが なければ ならない.その ことは オンが あらわす 意味内容との つながりを もつ という こと でも ある.
 漢字に よる 造語 という のは,訓読みに よって 漢字を えらびだす.われわれは 訓よみで 漢字の 意味を 理解できる からで ある.したがって 漢字に よる 造語は,意味の つながりは 十分に できる.いまの 増誤力でも,フエル,マス,アヤマリ,マチガイの 意味は 通じるで あろう.しかし ゾーゴ という オンからは なんの つながりも かんじられない.わずかに 増加,正誤などの 漢語から テガガリが つかめると いえば つかめる だけで ある.これは,新造語の 発音を 五十音図から 無作意に 抽出した のと おなじ 結果に なる.言いかえれば,通用しない コトバに なる ので,意味を 強調する ための 漢字を しめして おく 必要が おきる.あたかも 必要な 部品を とりそろえて 箱に ならべた プラモデル で,製品 として 完成 しては いない.
 漢字の 造語力は きわめて シツの わるい 力だ と いった のは この 意味で ある.

 コトバは たとい 意味の ない オンの つながり でも,つかいなれる うちに その オンに 意味が のりうつる.アクセク,アイマイ,ケンカ,ゲンコツ などの 漢語が,カナで かいても 理解される のは その ためで あるが,そう なる のと 反対に,漢字で しめした はずの 意味は だんだん うすれて いく.そこに 漢字の “増誤力”が カオを だして くる.
 いま わたしは 20行ほど まえに 「無作意に」と かいた.たぶん,気に とめずに よんで くれる 読者が いるで あろう と ひそかに 期待して かいた のだが,もし わたしの 期待した ように,文字の マチガイに 気づかない ひとが いる なら,そして 意味が わかった なら,もはや 意味を 説明する ために しめした 漢字は 不用に なった という ことで ある.そういう コトバを ムリに 漢字で かこうと する ところに 漢字の 「増誤力」が カツヤク しはじめる.ちかごろ,誤字が おおいと いわれる のは そういう 自然現象では なかろうか.

 このように,漢字に よった 造語は,コトバ として もっとも たいせつな 語音が 日本語の 語音とは つながりを もたない ものに なり,それを おぎなう ための 漢字表記が やがて 誤字を うみ,表記の 混乱を おこす ことに なって いる.こういう ことは,漢字が まともな 造語力を もって いない 証拠 だと いえる では なかろうか.
 もともと,中国語を あらわす 漢字を つかって 日本語を つくろう という ところに ムリが ある.日本語は 日本語を もとに して つくる のが ホンスジで ある.「オチコボレ」「アシキリ」などが,だれ にも スッキリ 理解が できる コトバに なって いる ことが それを しめして いる.

 漢字で 日本語を つくろう という ことに ムリが あるが,いま すぐに 漢字からの 造語を うちきる ことも ムリで あろう.しかし,ショゥライの ニッポンゴを そだてる ための チエを もちよる はずの コクゴ−シンギカイが,カンジは ゾウゴリョクに とんで いる,などと まじめに いいだした ことに,わたしは シツボゥも し,ハラが たつ.
 すくなくも,ニッポンゴを ただしく まもって いく ために,これからの コトバ−づくりは ニッポンゴを もとに すべきだ,という くらいの ことは いって ほしかった.


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