「カナノヒカリ」 916、917ゴウ (2002ネン ナツ、アキ)

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コンピューターは漢字を征服できるか

                                             キクチ カズヤ 


   

1.漢字世界の救世主?

  いまや、ほとんど スベテの オフィス、そして おおくの 家庭に パソコンが はいりこみ、シゴトや 生活に なくては ならない ものと なりました。 その パソコンに つかわれる OS(基本ソフト)としては 「Windows」が 圧倒的な シェアを しめて いますが、一部の ユーザーの アイダでは、「超漢字」と いう OSが 評価されて いるようです。
  この 「超漢字」は、「多文字」が つかえる と いう 機能が おおきな 特徴の ヒトツに なって います。 おおくの コンピューターでは 7,000字 程度の 文字 しか つかえないのに 対し、この OSは 無限の 文字を 搭載する ことが できるように つくられて います。 最新バージョンで ある 「超漢字4」では、174,024字を 利用する ことが できます。 「トンパ文字」などの めずらしい 文字にも 対応して います。
  しかし、この 日本ウマレの OS 「超漢字」が 最大の セールス・ポイントと している ものは、その ナが ハッキリ しめして いる とおり、おおくの 漢字を コンピューターで あつかう ことが できる、と いう ことです。
  「Windows」では あつかえない 漢字が あって こまった と いう 経験の ある ヒトは すくなく ないかも しれません。 ワタシにも そのような 経験が あります。 (ただし、その 字が ワタシの カンガエを あらわすのに 必要だからでは なく、こんな 字も ある、と 紹介する ために ですが。) ですから この OSを 歓迎する ヒトが いる ことは 理解できます。
  この OSの 開発者には 「漢字文化を まもる」と いう つよい 意識が あった ことは、マチガイ ありません。 また これを 支持する ヒトビトも その 理念の ために 賛辞を おしまないの でしょう。
  しかし、一般に、「過去の 文化遺産としての 漢字文化を まもる」 ことと 「現在の 日本語表記としての 漢字文化を まもる」 こと との チガイが あまり 意識されて いないように おもわれます。 とにかく どんな 漢字でも つかえる ことは いい ことだ、と 単純に かんがえられて いるように、感じられるの です。 ワタシは、この フタツの チガイは アキラカだと おもいます。 前者に ついては、過去に つかわれた 漢字が 必要に 応じ コンピューターで あつかえるように なる ことは、よろこばしい ことと かんがえます。 しかし、後者に ついて いえば、現在の 日本語表記として、無制限の 漢字を つかう ことが のぞましい ことで あるとは おもえません。 おおくの 漢字を つかう と いう ことは、表記が 一層 煩雑に なる と いう ことです。 そうまで して おおくの 漢字を つかう (たとえば、「館」と 「舘」を つかいわける など) ことが 本当に 必要で 価値の ある ことなのか 検討すべき でしょう。

2.漢字は 増殖する もの

   それは さておき、だれもが 疑問に おもうで あろう ことは、何万字とも しれない スベテの 漢字を 網羅する ことが できるのか、と いう ことでしょう。 実際 この OSの 開発者は、1字も のこさず あつめつくした、とは いって いません。 この グループでは、まだ 搭載されて いない 字も ある ことを 想定して、その ような 字に ついての 情報を もとめて います。
  古文書などには、フツウと ちがった 漢字が タクサン つかわれて います。 しかし、それが 異体字なのか、それとも 誤字なのか、単なる カキグセで ちがう 字の ように みえるだけなのか、判然と しない バアイも おおいのでは ない でしょうか。 でも 誤字や カキグセも ハッキリ チガイの わかる ものは スベテ 別の 字と みなす、と わりきって ひろいあつめて いけば、いつかは スベテの 漢字を コンピューターで あつかえるように なるだろう、と  単純に かんがえる ヒトは、漢字は ふえる ものだ と いう ことを おもいだして ください。
  漢字の 特徴の ヒトツは その カズが 膨大で ある と いう ことですが、その スベテが 一度に そろって うまれた ワケでは ありません。 トキと ともに あたらしい 字が ツギツギと うまれて きたのです。 また、漢字は 字形が 複雑で ある ウエ、ながい アイダ テで かかれて きた ワケですから、本来は おなじ 字で あっても イロイロな バリエーションが できやすかったのです。 くわえて、漢字が つかわれた 地域は 広大ですから、地域に よって ことなった 発達を して きました。 たとえば、「榊」、「辻」、「峠」などは 日本で つくられた 和製漢字(いわゆる 「国字」)で あって、漢字の 本家の 中国では もちいられません。 また、さらに、活字の 時代に なってからも、中国や 日本で ソレゾレ 独自に やさしい 字体に あらためる と いう ことも おこなわれました。
  現在は どうでしょうか。 そして 将来は どう なるのでしょうか。 政府の 政策としては、イマの ところ 中国でも 日本でも これ 以上 漢字の 字体を あらためる(結果として 字を  ふやす)ような ウゴキは みられません。
  民衆の アイダでは どうでしょうか。
  日本では かつては 漢字を 気ママに つくる (あるいは 字体を かえる) ことが できたようです。 たとえば、コドモに ナマエを つけるのに、「達」と いう 字の ツクリの ヨコボウを 一本 へらして 「幸」に して しまう と いうような ことが おこなわれました。 コドモの 「幸せ」を のぞむ オヤゴコロが 字を かえて しまった ワケです。 この ような 字でも 役所では そのまま 戸籍に のせて しまったのです。
  モチロン イマでは 役所は こんな ことは ゆるしませんが、非公式の バでは 自分で カッテに つくった 字を つかって いる ヒトが います。 たとえば、姓名判断で 自分の ナマエの 画数が わるいと いわれた ため、本来 点の ない 字なのに 点を つけて 画数を 調整して いるような バアイです。 この ような 字は、本人は つかっても、ホカの ヒトは つかって くれないのが 普通でしょう。 でも もし、その ヒトが 自分の つとめて いる 会社の 社長だったり、トクイサキだったり したら……。 その ヒトの ために ワザワザ 外字を  つくって つかう などと いう ことも ありえるとは おもいませんか? そのような ケースは 実際に あるのです。 また、スモウトリの シコナを つける トキに、本来は 点が ある 字なのに 点を つけないで おいて、出世して セキトリに なった トキに 点を つけて 本来の 字に なおす、などと いう ことも おこなわれて いるようです。
  人名以外でも、ヤ号や ビルの ナマエ などに 自分で つくった 字を つかって いる ヒトが います。 カギガタ(Lを サカサに した カタチ)と 「八」と いう 字を くみあわせて 「カギハチ」と よませたり、クニガマエの ナカに 「三」を いれて 「カクサン」と よませたり して いるのです。 それだけを 独立して つかうのなら トレードマークと みなす ことが できますが、外字として つくって 文章の ナカで つかったり、住民票に アパート名として 登録している ケースも あります。 こう なると、もはや トレードマークでは なく 「文字」と みなされるべき でしょうし、このような 「文字」を 漢字と かんがえても サシツカエない でしょう。 漢字を 素材として いるのですから。
  イマでも つかわれて いるか どうかは しりませんが、以前 学生が 「广」に 「K」、「O」を くみあわせて、ソレゾレ 「慶」、「応」の カワリに つかって いるのを みた ことが あります。 このような 小集団の ナカだけで 通用して いる 字も 結構 あるかも しれません。
  また、_〔○の ナカに 優〕や _〔○の ナカに 福〕などと いうのも 文字と みなせない ことは ないように おもいます。
  漢字は イマも ふえつづけて いるのです。 もっとも、ここで 紹介したような かわった 字が ひろまる ことは ないでしょう。 しかし、せまい 範囲で あれ、実際に つかわれた と いう 事実は 永遠に きえません。 ですから、漢字を 網羅しようと しても、イタチゴッコと  なり、いつまで たっても 完璧な ものには なりえない と いう ことが いえそうです。

3.漢字擁護論者も 実は 漢字制限論者

  2で みてきたように、漢字は 増殖する ものです。 このことは、漢字の 大きな 特徴の ヒトツです。 漢字の 「生命力」の 一部なのです。 とは いっても、現実には 個人が あたらしい 字を つくる と いうことは、しにくく なって います。 印刷機器や パソコンなどで つかえない と いう ことも ありますが、一番の 理由は 社会が それを うけいれない と いう ことです。
  一般の ヒトビトは、アソビで あたらしい 漢字を つくったり することは あっても、それを 本当に つかおう などとは 決して かんがえない でしょう。 漢字に 特別の 関心や 愛着を もつ ヒトビトは どうでしょうか。 かれらも 同様でしょう。
  漢字擁護論者は 漢字を 便利な ものだと 主張して います。 ならば その 便利な 漢字が うつりかわる 時代の 要請に こたえて ふえて いくのは のぞましい ことの はずです。 また、かれらが 漢字制限に 反対する 論拠の ヒトツは 「表現の 自由」で あった はずです。 あたらしい 字を 各自の コノミに よって すきなだけ つくる。 これこそ 「表現の 自由」の 極致では ありませんか! で あれば、かれらは あたらしい 漢字ヅクリを 奨励しても よさそうな ものです。 ところが、実際には、かれらは、あたらしい 漢字を 無制限に ドンドン つくれ、などとは いいません。 そんな ことを したら 日本語の 表記が コントンと した ものに なって しまう ことが わかって いるからです。
  かれら、国語改革に 反対する 「抵抗勢力」は、漢字廃止論に 対しては モチロン、漢字制限の 主張に 対してすら 「漢字を殺そうとしている。」と いって はげしく 攻撃します。 しかし、かれらが 擁護して いるのは、「すでに 存在している(過去に つくられた) 漢字を つかう 自由」で あって、「これから あたらしく 字を つくって つかう 自由」では ありません。 つまり かれらも リッパな 漢字制限論者なのです。 かれらも 漢字の 生命力の 一部で ある 増殖能力を 「殺す」 ことを 容認して いるのですから。

4.人間の つかえる 文字は 有限

  現在では 漢字の 増殖能力が いかされて いない と いう ことに ついて、具体的に 例を とって かんがえて みましょう。
  「犬」や 「馬」が 「常用漢字表」に はいって いて、「猫」や 「虎」が はいって いないのは、不当である、と 非難し、常用漢字を ふやすべきで ある。(もしくは、「常用漢字表」を  廃止すべきで ある)と 主張する ヒトビトが います。 しかし、「パンダ」や 「コアラ」が  漢字で かけないのは 不当で ある と いう 主張は ききません。 本当に 漢字が 日本語に とって (とりわけ 「実体」を 表記する ものとして) 必要不可欠な もので あるならば、「パンダ」や 「コアラ」に ついても それらを あらわす 漢字が なければ ならない でしょう。
  中国語に ならえば 「パンダ」は 「熊猫」と なります。 が、「ネコ」、「トラ」は ともに ネコ科に 属するにも かかわらず それぞれ 別の 字が あてられて いるのですから、クマ科にも ネコ科にも 属さない 「パンダ」を 「熊猫」と いうのは リクツに あいません。 感覚から いっても、日本人には 「パンダ」と 「猫」の イメージは むすびつきません。 ホカにも 2字以上の 漢字を くみあわせて 造語する シカタは かんがえられる でしょうが、この 個性的な 動物の ためには あたらしい 字を つくって あたえるのが、漢字を 便利な ものと かんがえる ヒトに とっては、もっとも 合理的な はずです。 しかし、それが 不可能で ある ことは、だれにでも わかります。
  生物の 種の カズは 億を こえるとも いわれて います。 それら ヒトツヒトツに 字を あたえて、かつ 実際に つかって いく ことなど 人間の 能力では できる ことでは ありません。 「パンダ」だけに 特権を あたえる 理由も ない でしょう。
  一方、「コアラ」は 中国語では 「考拉」と 表記します。 これは 音訳ですから 漢字で あっても 表音文字として つかわれて いるので あって、日本語の 「カタカナ語」に 相当します。 つまり 「コアラ」という 表記と おなじ ことです。 オトを そのまま あらわす。 これで いいのです。 カナと いう 便利な 表音文字を もつ 日本語では、漢字など つかわずに オト そのものを かきあらわすのが、実際的で あり、かつ 合理的なのです。 実際、「パンダ」、「コアラ」と いった 表記で なんら 問題は 生じて いません。
  「パンダ」や 「コアラ」を あらわす 漢字が なくても すんで いるのですから、「猫」、「虎」が 常用漢字で なくても 問題は ないのです。 「ネコ」、「トラ」と かけば いいのです。 さらに いえば、常用漢字に なっている 「犬」、「馬」も 「イヌ」、「ウマ」で なんら サシツカエは ありません。
  この 地球に 億もの 種の 生物が 存在するのに、実際に 生物の ために つかわれて いる 漢字は 数百程度にしか すぎず、それで すんでいる と いう ことは、漢字が ゼロでも すむ と いう ことに ひとしいのです。
  このことは、生物だけでなく あらゆる 事物について あてはまる ことは いうまでも ありません。 無限とも いえる 事物を かきあらわすのに、わずか 数十字の 表音文字で まにあうのです。

5.コンピューターを つかうのは 人間

  ハナシを モトに もどしましょう。
  この 文章の タイトルで ある 「コンピューターは 漢字を 征服できるか」と いう 問題に ついては、2で イタチゴッコに なるだろう と のべました。 しかし、「その 時点」で、と いう 限定を つけるならば、ツギの ように いう ことが できるかも しれません。 あたらしい 字を みつけたら ただちに 登録が でき、かつ、同時に つかう ことが できる、と いうような システムさえ できれば、コタエは 「しかり」で ある、と。
  オオギョウな タイトルを つけた ワリには アッサリした 結論だと おもわれる でしょう。 しかし、コンピューターは 人間が つかって はじめて 意味が あるもの です。 コンピューターが 漢字を 征服した、すなわち、コンピューターが 「スベテの」 漢字の 使用を 可能に した、と しても、スベテの 漢字を 必要と する ヒトは いないし、つかえる ヒトも いません。
  現在の 日常生活での 日本語表記に ついて いえば、文字は 社会の 共有財産で あると いえます。 だれもが、つかえる もので なければ なりません。 もちいる ことの できる 漢字の カズに 限度が あることは アキラカです。
  このことは、コンピューターを つかう つかわないに かかわらず、すでに のべて きた ように、本来 増殖能力を もつ 漢字を 去勢する ことに よって 現在の 「漢字文化」が なりたって いる と いう 事実が しめしている ことでも あります。 あたらしい 事物に 対して あたらしい 漢字を あたえる、と いう 過去には おこなわれていた 手法を イマは もちいる ことは できないの です。
  そして、あたらしく 字を つくることが ゆるされない、それでも 支障が ない と いう ことが 示唆する ことは、すでに 存在している (過去に つくられた) 漢字の 必要性に ついても ウタガイを いだく 余地が ある と いう ことです。
  コンピューターが どんなに おおくの 漢字を つかえる 能力を もったとしても、それを つかうのは 人間なのです。 どんな 漢字でも つかえる、と よろこぶ マエに ワタシタチは  「漢字文化を まもる」 ことが、本当に 価値の ある ことなのか、本当に 必要な ことなのか と いう トイに こたえなければ なりません。

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