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日本語(にほんご)中国語(ちゅうごくご)から独立(どくりつ)させる」とは、どういうことか
漢字(かんじ)」は「Chinese character」である
キクチ カズヤ 
 (街を歩きながら)
  I 漢字の字形、字義、字音
 ナミエ:このあたりには外国人が開いているお店が多いけど、どのお店の人も日本語がじょうずね。
 カナオ:今では日本語を流チョウに話す外国人など珍しくないけれど、読み書きまで自由にこなす人はそう多くないようだよ。
 N:外国人が漢字を覚えるのはやはり大変なんでしょうね。
 K:外国人のための日本語の教科書や独習書がずいぶん出ている。英語で書かれたのを何冊か見て気がついたんだけど、「漢字」を「Kanji」と表記しているものが多い。「漢字」は英語では「Chinese character」または「Chinese ideograph」というものだと思っていたので意外だった。
 N:「Chinese character」なんて長ったらしいし、日本語を習い始めれば「カンジ」というコトバ(語)はすぐ覚えるんだから「Kanji」でいいんじゃないの? それに「Japanese」の学習書に「Chinese character」などというコトバが出てきたら読者をとまどわせるんじゃないかしら。
 K:和英辞典で「漢字」の訳語を調べてみたら、「Chinese character(ideograph)」とならんで「Kanji」が載っているものが多かった。だだし、「Kanji」はイタリックになっている。
 N:イタリックになっているのは、説明を加えないとそのままでは外国人には通じない、ということね。
 K:「Kanji」ではまるっきり通用しないかというと、そういうわけでもないようで、『Concise Oxford Dictionary』には「Kanji」が載っている。説明は、「Japanese writing using Chinese characters」とある。
 N:文字そのものは「Chinese character」で、それを用いた表記法を「Kanji」という、ということかしら。実際にそのような使い分けがされているのかは疑問ね。
 K:「Kanji」が「Chinese character」より好まれて使われている理由なんだけど、さっき君が挙げたことのほかに、日本人には漢字が China 伝来のものである、という意識が薄い、ということがあると思う。「漢字」の「漢」とは「漢民族」であることが今ではあまり意識されていなくて、「漢字」そのものを表わすものと思われている。
 N:たしかに漢字が生まれたのは中国だけど、日本語で使われている文字だから「Chinese character」なんて言わなくてもいいと思う。漢字は「Japanese character」でもあるんだから。
 K:漢字が「日本語の文字」であるというのは、日本語の通常の表記法が漢字カナ交じりである、という意味ではそのとおりなんだけれども、はたしてそう呼ばれるのにふさわしいものなのかどうか。僕は大いに疑問を持っている。
 N:おかしなことをいう人ね。漢字は日本文化の発展に大いに貢献してきたし、日本人の精神活動の支柱とさえ言えると思うわ。それに漢字には意味があるから味わいが深い。「奈美恵」という名前は「美しさ」に「恵まれて」いるわたしにふさわしいと思わない?
 K:君の言うとおり、漢字1字1字には意味がある。でも「美」という字がどうして「うつくしい」という意味を持つか知っているかい?
 N:…………。
 K:この字は「羊」と「大」を組み合わせたもので、「大きな羊」を表わす。そこで考えてほしい。いったい「大きな羊」を表わす文字に「うつくしい」という意味を与えることが日本人の感覚に沿うだろうか。「美」という字に「羊」が含まれているのは、ヒツジがもっとも大切な家畜であった中国の社会を反映しているんだ。
 この字に「うつくしい」という意味が与えられたのは、「大きな羊」は形が良いとされたからだ、という説もあるが、もとは「うまい」という意味だった、という説もある。「大きな羊」つまり太ったヒツジは食べるとうまいからだという。
 N:たしかに「美」という字には「おいしい」という意味もあるわね。「美食」とか「美味」とかいうコトバがあるものね。
 K:「美」にはほかに「ほめる」とか「立派な」とかいう意味もあるよ。「美」という字を「うつくしい」と読むように、漢字に本来の日本語、ヤマトコトバ(和語)を当てて読むのを訓というが、訓は漢字の意味の一部を示すにすぎない。
 漢字というものは、中国語を書き表わすために生まれた文字だから、1字1字が中国語のコトバに対応している。だから、漢字の持つ意味の範囲は、中国語とは一致しても本来の日本語とは一致しないんだ。
 問題をもうひとつ。「服」という字の意味は?
 N:着るもの。洋服とか和服とか。
 K:そうだけど、「服従」とか「服薬」とかいう場合の「服」は「着るもの」とどういう関係があるの?
 N:わからないわ。
 K:「服」という字には「ピッタリつく」という広い意味がある。体に「つく」のが着る「服」。「つき」従うのが「服従」。薬を体の中に「つける」のが「服薬」。というわけで、一見意味の繋がりのないように見えるコトバに「服」という字が共通して使われているのには、ちゃんとした理由がある。ただし、これは中国語の発想。
 この場合は、字に訓を当てるのではなく、字音を使っているのだけど、こういう場合でも字の意味の広がりや用法は日本語の発想とはかけ離れたものがある、ということが分かるだろう。
 N:そういう面もあるかもしれない。でも漢字には民族や言語を超越した普遍的な面もあると思う。たとえば「木」や「魚」という字は物の形をそのまま表わした象形文字でしょう? それを説明すれば、どの民族だって理解できる。こういう基本的な意味を持たせたままほかの字と組み合わせて作った字も相当あるでしょう? たとえば、「木」や「魚」は、何に関係するのかを示す偏などとしても使われる。「木」に「風」を組み合わせた「楓」、「南」を組み合わせた「楠」などは「木」の種類を表わしているわけで、これは合理的だと思うけど。
 K:右側の「風」や「南」にはどういう意味があるの?
 N:この場合は音を示しているんでしょうね。「楓」は音読みでは「フウ」、「楠」は「ナン」というんだと思う。
 K:その「フウ」とか「ナン」とかいうのは何?
 N:だから、字の音じゃない。 
 K:さっき言ったように、漢字は中国語のコトバを表わしたものだから、漢字の音とは、すなわち中国語のコトバの発音なんだ。今の例でいうと、それぞれの「木」を中国語で「フウ」、「ナン」というから、「風」、「南」をその音を示す音符として字に含ませているわけだ。中国語の音だから、「フウ」とか「ナン」とかいっても日本人には何のことやら分からない。漢字の音や音を示す字形は、中国語にとっては意味があるが、日本語にとっては何の必然性もない。
 それに、中国の「楓」も「楠」も日本のカエデやクスノキとは違う木だと思うよ。 
 漢字の音については知っておいてもらいたいことがまだある。「来」という字の意味は知っているよね。
 N:もちろん。「くる」という意味じゃないの。
 K:でも、もともとはムギの実の実った姿を表わす象形文字なんだ。「麦」という字とは関係が深い。
 N:それがどうして「くる」という意味になったの?
 K:中国語の「くる」という意味のコトバが「むぎ」という意味のコトバと同じ音だったため、本来「むぎ」をあらわす「来」という字で「くる」という意味を表わすようになった。字の元の意味を離れて表音文字として使われているわけで、こういうのを仮借という。こういったこともまったく中国語の都合でそうなったのであって、日本語にとっては何のかかわりもないことだろう。
 漢字は、字形、字義、字音の3つの要素を含むといわれるが、そのいずれも中国の言語やその背景にある中国の文化と切り離せない関係にあるんだ。

 II 漢字と中国語、日本語 
 N:あなたは漢字が中国で生まれたことをやたらに強調するけれども、だからどうだというの?
 昔、日本がはるかに進んだ隣の大国、中国の文化を輸入したのはまったく当然のことだし、漢字だってそう。日本語は文字を持っていなかったから、漢字を取り入れたのは自然なことでしょう。外国のものを器用に取り入れてきたのが日本の文化なんだから。
 わたしたちが漢字を使う場合、いちいちその由来や成り立ちを考えて使っているわけではないでしょう。大事なことは、漢字が日本語の文字として消化され、立派に機能を果たしている、そういう現実だと思うわ。
 K:いや、僕が問題にしているのは、まさに現実に行なわれている、漢字を使う日本語の表記法なんだ。今まで僕が漢字と中国語の関係を話してきたのは、そこに漢字の問題の根源のひとつがあるからだ。
 N:「漢字の問題」って、いったい何が問題だというの?
 K:君は、漢字は日本語の文字として消化され、立派に機能を果たしている、と言ったけれども、僕はそうは思わないんだ。日本は外国の文化を取り入れてきたといっても、日本の社会になじまないものまでそうしたのではない。しかし漢字の場合はどうだったか。
 結論を先に言うとこうだ。今まで話してきたように、漢字には中国語の特質が刻み込まれている。だから中国語とはまったく系統の異なる日本語には本質的になじまない。日本語になじまないものを無理やり移植したために毒素となって日本語をおかし、ヒン死の重病人にしてしまった。
 日本語は文字を持たなかったから、漢字を輸入してしばらくのあいだ漢文や漢文のくずれたものを用いたのは、そうするしかなかったわけだが、カナ文字という日本語を書き表わすのに適した文字が生み出されてからも漢字を使い続けたことが日本語を不幸へ導いたんだ。
 N:漢字は日本語になじまないですって? たしかに中国から伝わったままの漢字では日本語を自在に書き表わすことは難しかったかもしれない。でも、漢字を日本語に適合させることができたからこそ、今にいたるまで漢字を使い続けているんじゃない。漢字をどう適合させたかというと、訓を当てることで日本語を簡単に書き表わすことができるようになった、ということね。そして、カナと交ぜて書くことで日本語の語順どおりに文章が書けるようになった。
 K:それで本当に漢字が日本語に適合したなどといえるんだろうか。
 まず訓読みをオトの面から考えてみよう。漢字の音とは中国語のコトバの発音だ、ということはさっき話したよね。いうまでもないことだけど、中国語と本来の日本語とではオトが違う。本来の日本語の「つくる」にあたる意味内容を英語では「メイク(make)」といい、(昔の)中国語では「サク(作)」といった。言語が違うんだから、表わす物事が同じでも、コトバつまりオトが違うのは当たり前だね。
 訓読みが行なわれるようになった、ということは、ひとつの字に音すなわち中国語のオトと訓すなわち日本語のオトの2系統のオトが当てられるようになった、ということ。しかも、音読みも訓読みもひととおりだけとは限らない。こういう複雑な字の使い方をするのは日本語だけだ。
 かつては韓国・朝鮮語でも漢字を使っていたが、韓国・朝鮮語では訓読みというのはない。音読みだけ。もっとも北も南も今は漢字は使わないで、ほぼハングルだけを使っている。
 N:そうなの。
 K:ひとつの字に音読みと訓読みがある、というだけでも複雑なんだけど、訓読みにはもうひとつとても不便なところがある。それは、字を見ただけでは、どのように読んだらいいのかわからない、ということだ。
 N:それは当たり前ね。漢字は表意文字なんだから。カナやアルファベットのような表音文字とは根本的に違うのよ。
 K:ところがそうとばかりも言い切れない。なぜなら、音読みなら字形から読み方がわかる場合があるからだ。たしかに「木」や「魚」という字は象形文字で、まさに表意文字だから、字形から読み方が分かることはない。だけど漢字の多くは形声文字と呼ばれるもので、意味を表わす部分と音を表わす部分が組み合わされたものだ。さっき君があげた「楠」や「楓」がこれにあたる。音を表わす部分があるから、表音文字としての要素も合わせ持っている。知っている字の音をもとに、ほかの字の音を類推できる場合がある。つまり応用が効く。
 N:そうね。「白」を「ハク」と読むことを知っていれば、「伯」「拍」「泊」「舶」「迫」といった字の音も推しはかれるものね。
 K:ところが訓読みの場合は、字形には何の手がかりも含まれていない。「泊」という字をいくらながめても、「とまる」というオトは見えない。だから訓は1字1字覚えなければならない。 
 それだけじゃない。いくとおりもの訓のある字がある。反対に、いくつもの字が同じ訓を持つ場合もある。どういう場合にどういう読み方をするか、ということもコトバごとに覚えなければならない。
 中国語では、漢字の約9割は読み方がひととおりしかないし、今言ったように漢字には表音性があって字そのものが中国語のオトを表わすことが多いから、日本語で漢字を使うときのような煩わしさはない。日本語での漢字の使い方を覚えるのには漢字の本家である中国語に比べ、何倍もの、いやそれ以上の労力がいる。漢字が日本語にとって使いやすい文字であるとはとても言えないだろう。
 N:でもそれは仕方がないんじゃない? 日本語での漢字の使い方が中国語よりも難しいとしても、現にこういう使い方をしている以上、漢字を習い覚える努力を惜しむわけにはいかない。
 K:努力というのは価値のあるものに対してするべきものだ。漢字の訓読みというのは不合理なものであって、日本語にとって価値のあるものとはいえない。もっと言えば有害なものなんだ。

 III コトバと意味の広がり
 N:どうしてそんなことがいえるの?
 K:こんどは、漢字を意味の面から考えてみよう。今、本来の日本語(ヤマトコトバ)の「つくる」と英語の「メイク(make)」、中国語の「サク(作)」が同じ意味内容を持つような言い方をしたけど、これは正確な表現ではなかった。「つくる」と「メイク(make)」、「サク(作)」は意味が重なり合う部分があるということで、まったく同じ意味ということでは決してない。言語が違えばコトバの意味の広がりも違う。
 日本語の「つくる」に一番意味の近い英語のコトバは「make」だろうけど、「つくる」イコール「make」ではないだろう? 「make tea」は「茶を『つくる』」ではなくて「茶を『いれる』」と訳すし、make trouble」は「騒ぎを『つくる』」のではなく、「騒ぎを『おこす』」だろう。同様に、ヤマトコトバの「つくる」イコール中国語の「作」ではない。
 N:それはそうかもしれない。
 K:だから、「つくる」を「作る」と書くのは「つくる」に近い意味を持つ中国語のコトバを当てた、ということであって、「つくる」というコトバの意味そのものを表わしたものとはいえない。「つくる」を「作る」のほか、「造る」「製る」「創る」などと書き分けるのは、そのためだ。こういうのを異字同訓というんだけど、これは書き分けが難しくて不便だ、というだけでなく、日本語をゆがめることになる。日本語としてはひとつのコトバなのに中国語という外国語のコトバの使い方に従って書き分けるということだから。
 N:でもね、異字同訓にもいい点もあると思うんだけど。それは、意味をより厳密に表わすことができることね。詩を「つくる」のと船を「つくる」のでは同じ「つくる」でもニュアンスの違いがある。詩を「つくる」場合は「作る」、船を「つくる」場合は「造る」と書き分ければ、その違いがはっきりするでしょう?
 K:もし「詩を『つくる』」と「船を『つくる』」を書き分けなければならないとしたら、「米を『つくる』」のも「規則を『つくる』」のも「笑い顔を『つくる』」のもすべて違う字を使って書き分けなければならないだろう? 
 N:…………。
 K:日本語の「つくる」というのは、これらすべての意味を含んだコトバなんだ。僕の知り合いで造り酒屋を営んでいる人がいる。この人は畑を持っているんで、「酒も野菜も『つくる』」。普通、酒を「つくる」のは「造る」、野菜を「つくる」のは「作る」と書き分けるけど、この場合はどちらの字を使ったらいいんだろう?
 N:うーん。カナで書くしかないのかな。
 K:カナで書けばどの字を使おうかと迷うことはない。というよりカナで書いてこそ日本語の「つくる」というコトバを正しく表わすことができるんだ。「つくる」は「作」とも「造」とも「make」とも異なる独自の意味の広がりを持ったコトバなんだから。
 何を「つくる」かによってニュアンスの違いがあるとしても、それは「詩をつくる」、「船をつくる」と いえば、「詩」なり「船」なりというコトバ自身が示しているじゃないか。
 それにもうひとつ大事なことは、たとえ字で書き分けたところで話しコトバでは役に立たないということ。話しているときは字は見えないんだから。
 今話してきたのは、同じ訓を複数の漢字で書き分ける場合だけど、次にこの逆で、ひとつの漢字にいくつもの訓がある場合を考えてみよう。
 N:そういう字も少なくないわね。「冷」という字がそうね。「つめたい」「ひえる」「さめる」。
 K:そうそう。「つめたい」「ひえる」「さめる」は日本語としては別のコトバだよね。それを「冷」という同じ字で表わす。これも日本語と中国語のコトバの意味の広がりの違いから来る矛盾だよ。
 N:でも、同じ字を使っても読み方が違うから別のコトバだということは分かるわよね。不合理といえばそうかもしれないけど、実害はないんじゃない?
 K:じゃあ「後」はどうかな。
 N:この字も色いろな訓があるわね。「うしろ」「あと」「のち」「おくれる」。
 K:「5年後」は?
 N:「5年あと」、「5年のち」。音読みなら「5年ご」。いくとおりにも読めるわね。これは不合理だと言いたいんでしょうけど、どう読んでも意味は変わらないじゃない?
 K:でもニュアンスは違うだろう? 「あと」「のち」は 日本語として別のコトバなのだから、それを字の上に映し出すことができなければ文字の役割を果たしているとはいえない。要するに、漢字では日本語を正しく表わすことができない。言いかえれば、漢字とは、日本語を書き表わす文字としては不完全なものだということ。このことをハッキリ表わす例をもうひとつあげようか。「私」という字。
 N:訓は「わたし」。あ、そうか。「わたくし」とも読むわね。
 K:「わたし」と「わたくし」は、まったく同じ意味ではない。
 N:「わたくし」の方があらたまった感じね。
 K:その違いが「私」と書いたのでは表わせない。「わたし」と読むのか「わたくし」と読むのか分からないんだから。同じく「わたし」が崩れた「あたし」やもっと崩れた「あたい」、それに「あっし」、「わっち」なんていうのも漢字では書き分けられない。
 N:でも、読み分けが必要なときはフリガナを振るという方法があるじゃない。
 K:それもひとつの解決方法には違いない。でも「私」に「わたくし」とフリガナを振ったとするよね。この場合、「私」という漢字の意味内容は「わたくし」というフリガナで表わされている。だから「私」という漢字は要らない。
 N:ならば、初めから「わたくし」とカナで書けばいい、というわけね。

 IV 送りガナ
 K:日本語をカナで書かなければならない理由はまだある。それは、文法の面からみても漢字と日本語の相性はとても悪いということなんだ。中国語と日本語の文法の違いはたくさんあるけれど、そのひとつは、日本語には中国語と違って活用があるということだ。
 N:活用? 「つくらない」「つくります」「つくるとき」「つくれば」「つくろう」。
 K:そう、その活用。それに動詞から名詞を派生させたりする規則もある。だけど、漢字だけではそれを表わすことができない。漢字は本来、活用のない中国語を書くための文字だから。たとえば「生」では「うむ」か、「うめ」か「うまれる」か、それとも「うまれ」かわからない。
 N:それで送りガナが使われるようになったわけでしょう? 送りガナも漢字を日本語に適合させるためのものなのよね。「生む」「生め」「生まれる」「生まれ」。送りガナをつければちゃんと区別できるじゃない。
 K:ところが「うまれる」は、「生る」か、「生れる」か、「生まれる」か、という問題がある。「といあわせ」は、「問合」か、「問合せ」か、「問合わせ」か、それとも「問い合」か、「問い合せ」か、「問い合わせ」か。これはどう書いても意味はまったく同じなのだから、こんなことで頭を悩ますのはまったくムダなこと。
 N:でも送りガナのつけ方は規則で決まっているんでしょう?
 K:『送り仮名の付け方』という決まりがある。でも、これは「許容」というのが認められていて、「うまれる」は「生れる」でも「生まれる」でもいいことになっている。それに、これは個人の書き方まで規制するものではないから、事実上、送りガナのつけ方は決まっていない。送りガナだけじゃない。そもそもあるコトバを漢字で書くかカナで書くか、漢字で書くならどの漢字を使うか、といったことにも絶対的な基準というものがない。つまり漢字のおかげで日本語の書き方が決まらない。 
 N:たしかに「うまれる」「といあわせ」とカナで書けば、送りガナで迷うことはないわね。

 V コトバの派生と漢字
 K:送りガナについては、ほかにも問題があるけど、長くなるので省略することにして、コトバの派生についてもう少しふれておこう。
 「ひかり」は「ひかる」から派生したコトバだから「光」「光る」と同じ字を使う。これはいい。ところが「こおり」は「こおる」から派生したコトバであるのに「氷」「凍る」と別の字を使う。派生関係にあるコトバは同じ字を使うのが日本語として当然だが、「こおる」を「氷る」などと書いたら怒られたり笑われたりする。おかしなことじゃないか。「わたる」と「わたす」は 自動詞と他動詞の関係で、対になっているから「渡る」、「渡す」と同じ字を使うのは分かる。ところが、「おとる」と「おとす」も同じく対であるのに「劣る」、「落とす」と違う字を使う。これもまったく理屈に合わない。 
 N:ちょっと待って。「おとる」と「おとす」は関係があるコトバだったのね。知らなかったわ。
 K:漢字で書くから派生関係にあるコトバでも、それが分からなくなってしまうんだ。漢字を使うかぎり中国語の語法・文字づかいに従わなければならない。だから派生関係が文字の上に映しだされずに断ち切られてしまうことになる。これでも漢字が日本語に適合した、などといえるだろうか。
 N:………。
 K:というわけで、果たして漢字が日本語を書き表わす文字としてふさわしいものかどうかをオト、意味、文法の面から考えてきたんだけど、どの面からみても漢字と日本語とのミスマッチは明らかだろう。漢字が日本語に適合した、などとは、とうていいえない。

 VI 音読みのわざわい
 N:あなたの言いたいことが分かってきたわ。訓読みには不都合な点がある。だから、漢字の訓読みはやめよう。と主張したいのね。
 K:いや、やめなければならないのは訓読みだけじゃない。音読み漢字もだよ。つまり漢字は全面的に使うのをやめなくてはならない。
 N:漢字の訓読みだけでなく、音読み漢字もやめなくてはいけないですって? 漢語までカナで書くべきだというの? それは無理ね、絶対。
 K:意見をお聞きしましょう。
 N:それはね、漢語には同音異義語が多いでしょう? たとえば「コウカン」と発音するコトバは、交換、好感、鋼管、交歓、高官、向寒、公刊、公館、巷間、後患 …… とたくさんある。漢字で書くからどのコトバか分かるので、カナで書いたのでは区別がつかない。
 K:君のいうことは、半分は当たっているけど半分は見当はずれだよ。
 N:どういうこと?
 K:事実、漢語には同音異義語が多い。でもそれは前後関係から区別がつくじゃないか。「意見をコウカンする」といえば「交換」に決まっているし、「コウカンをいだく」といえば「好感」だと分かる。こういうコトバなら話しコトバでも意味を取り違えられることはない。だからカナで書いても問題はない。
 一方、漢字で書かなければ意味を取り違えられるおそれのあるコトバもある。「コウガクを学んでいます。」では「工学」か「光学」か分からないし、「コウギョウ関係の仕事をしています。」では「工業」か「興行」か「鉱業」か分からない。「売価」と「買価」、「排外」と「拝外」、「偏在」と「遍在」なんていうのは、オトは同じでも意味は正反対だから始末が悪い。 
 N:そうでしょう? だから漢字で書かなきゃダメ。
 K:君のいうのも、もっとものようだけど、ちょっと考えてほしい。たしかに書きコトバでは漢字で区別することができるだろう。でも話しコトバでは区別できないじゃないか。話しコトバは、その場で消えてしまうから、という理由で書きコトバだけを重んじる人もいるが、日常生活は話しコトバなしでは成り立たないことを考えれば、話しコトバを軽くみることはできないだろう。
 N:それはそうね。
 K:字を見れば分かるが耳で聞いたのでは分からない、などというのでは、まともなコミュニケーションはできない。同音異義語が多いというのは望ましいことではない。
 ところで、なぜ漢語にはこんなにも同音異義語が多いか分かるかい?
 N:それは、漢字には同じ音の字がたくさんあるからよ。「コウ」と読む字なら、口、工、巧、広、弘、交、光、好、考、坑、孝、江、抗、肯、厚、孔、恒、荒、候、高、耕、康、幸、甲、向、航、港、鉱、酵、公、功、江、行、攻、更、効、洪、紅、郊、香、校、貢、降、……。まだまだあるわね。
 K:「コウ」と読む字は、常用漢字だけで64字もあるんだ。こういうのって不便だと思わない?
 N:漢字とはこういうものだと思っていたから、特に考えたことはなかったけど ……。
 K:たしかに日本語の漢字は「こういうもの」だけど、漢字の本家の中国ではそうではない。 
 中国語といっても時代や地方によって相当な違いがあるけど、現代の共通語(普通話)の発音では、口はkou、工はgong、巧はqiao、広はguang、弘はhong、交はjiao、光はguang、好はhao、考はkao、坑はkeng、孝はxiao、江はjiang、抗はkang、肯はken、厚はhou、孔はkong、恒はheng、荒はhuang、候はhou、高はgao、耕はgeng、康はkang……(声調符号は省略)。
 日本語ではどれも「コウ」だが、中国語では異なった発音をする。広と光はどちらもguang、抗と康はkangだけど、これも声調(アクセント)ではっきり区別される。中国語でも同じ音の漢字はあるけど、日本のそれよりずっと少ない。
 N:中国語では違って発音される漢字がどうして日本語では同じ音になってしまったの?
 K:まず、日本語のオト(音素)が中国語と比べて少ない、ということだ。分かりやすくするために、英語由来の外来語について考えてみよう。日本語のオトの種類は、英語と比べても少ない。だから、英語の「bus」「bath」「bass」は、日本語式に発音するとみんな「バス」になってしまう。
 N:「bus」の「u」と「bath」の「a」は英語のオトとしては異なるけど、どちらも日本人には「ア」と聞こえるし、「s」も「th」も「ス」に聞こえてしまう、ということね。
 K:日本語にないオトの区別だから、外来語として日本語に取り入れればどれも「バス」になる。
 それと同じ理屈で、中国語では区別されるオトでも日本語では同じになってしまう。もっとも漢字が中国から伝えられてしばらくは中国語の発音を忠実にまねたんだろうけど、やがて日本語のオトの体系に溶け込んでしまった。日本人に発音しやすくなったという点では、日本語に適合したといえるだろうが、そのために同音語がやたらに多くなった、という点ではむしろ日本語にとって大変具合の悪いものになってしまった。
 N:でも、それは日本語のオトの種類が少ない、ということに原因があるのであって、漢字が悪いとはいえないんじゃない?
 K:漢字の音は――すなわち中国語のコトバは――1音節からなっている。だけど日本語には、中国語にある二重母音とか三重母音などというのはないし、子音で終わる音節もないから、日本語の音読みでは2音節になることが多い。これは英語の「bus」は1音節だが日本語化すると「バス(ba・su)」と2音節になるのと同じだ。
 ところが、中国語の音節をつくるオトの組み合わせには中国語特有のルールがあって、制限されたものになっているので、それを日本語式の音にすると音節の組み合わせは極端に限られたものになる。たとえば、「コ」で始まる音は、「コウ(コー)」「コク」「コツ」「コン」の4つだけになってしまっている。本来、日本語の音節の組み合わせは、こんな窮屈なものではない。これは中国語と日本語のオトの組み立て方の違いが原因になっているので、日本語のオトの種類が少ない、というだけでは決してこうはならない。
 N:日本語の音節の組み合わせとしては、「コ」のあとにどんなオトが来てもおかしくはないわけね。「コイ」「コエ」「コケ」「コシ」「コチ」「コテ」「コト」「コナ」「コマ」「コメ」………。2音節の名詞だけをあげてみたけど、漢語でなければ色いろなオトが「コ」のあとに来ることができるわね。
 K:今のは全部本来の日本語、ヤマトコトバだね。日本語のオトの種類が少ないといっても、音節の組み合わせで区別することができるから、ヤマトコトバにも同音異義語があるとはいっても漢語ほど多くはないし、前後関係で判断できないことはまずない。「カタカナ語」だって同音異義語は漢語と比べてずっと少ない。ところが漢語では、漢字の音節の組み合わせが極端にかたよっているので、同音異義語がやたらに多くなるわけだ。漢字と日本語の相性はかくも悪い。
 N:要するに、同音異義語が多いことをもって漢字を擁護するのは筋がとおらない。なぜなら、そうなった原因は漢字にあるのだから。ということね。
 K:そういうこと。
 もうひとつ言っておきたいのは、同音異義語でなくても字を見なければ分からない漢語はいくらでもある、ということ。専門用語などはほとんどがそうだ。いつだったか、テレビを画面を見ないで聞いていたら、「ダンロキ」というコトバが繰り返し出て来たんだけど、何のことか分からない。
 N:「ダンロキ」ねえ。たしかに字を見ないと分からないわね。
 K:「ダン」「ロ」「キ」の3字からできているコトバだとは見当がついても「ダン」という字も「ロ」という字も「キ」という字もたくさんあるから分からない。「暖炉機」かもしれないし、「談露記」かもしれない。画面を見てやっと「断路器」だと分かった。
 漢字の音は中国語のコトバをそのまま表わすもので、1字で1音節を表わしているが、中国語の音節の種類は日本語よりずっと多い(現代の中国語の共通語では、声調による区別も含めて約1,300種。日本語は約100種)。日本語では音節の種類は少ないが、音節の組み合わせでコトバを区別するようになっている。そういう違いがあるから、中国語を書き表わすために生まれた漢字・漢語を日本語に取り入れることには無理がある。その無理をおして使うから、視覚に頼らなければ使えない、おかしなコトバになるんだ。
 僕が音読み漢字もやめなければならない、といったのは、漢字に依存する今の日本語のあり方を変えなければならない、ということだ。視覚に頼らなければ使えない漢字・漢語は、日本語の話しコトバとしての力を弱めざるを得ないし、現にそうなっているからだ。耳で聞いて分からない漢語――これはまともなコトバとはいえない「コトバモドキ」とでもいうべきものだ――は、分かりやすいコトバに置き換えるべきだし、耳で聞いて分かるコトバなら漢語であっても漢字で書く必要はないだろう。 
 N:漢字で書く必要がないとしても、だからといって漢字で書いてはいけない、ということにはならないんじゃない? 漢語はもともと漢字で書かれたものだから、漢字で書くのが自然だと思うけど。
 K:その理屈に従えば、外来語はすべて原語の文字で書かなければならなくなるんじゃない? 「スープ」はラテン・アルファベットで、「イクラ」はロシア文字で、「キムチ」はハングルで。大変なことになるね。大体日本語の文章の中で「スープ」を「soup」と書かないのは不自然だ、なんて感じたことがある?
 N:ない。
 K:漢語だって外来語。日本語になったコトバである以上、日本語に適した文字、カナで書くのが当然だ。ヨーロッパ語やそのほかの言語から取り入れたコトバはそうしているのだから、漢語だけ特別扱いにする理由はない。
 漢語を漢字で書く必要がないだけでなく、漢字で書くのをやめなければならない、という理由はいくつもあるけど、ひとつだけあげてみよう。それは、読み方が複数ある場合が多いこと。「変化」は普通「ヘンカ」だが、「ヘンゲ」と読む場合もある。「十分」は「ジュウブン」と読むか「ジップン(今では「ジュップン」が普通か)」と読むかで意味が異なる。これらは両方とも音読みだが、音読みでも訓読みでも読める場合がある。「市場」は「イチバ」か、「シジョウ」か。「明日」は「アス」か、「アシタ」か、「ミョウニチ」か。「明日」などは、文脈によっても判断できない。意味は同じだからどう読んでもいい、とはならない。ニュアンスの違いがあるからね。この違いを伝えることができない漢字は、日本語を表記する文字としては不完全なものだ。
 N:でも、そういう例はそれほど多くないんじゃない?
 K:ひとつのコトバに複数の読みがある、というのは特に多いとはいえないかもしれないけど、ひとつの字にいくつもの読み方があるのは一般的だ。
 N:音読みといっても色いろな読み方があるんだったわね。
 K:そう。「兄弟」の「弟」は「ダイ」(これは呉音)、「子弟」の「弟」は「テイ」(これは漢音)、「弟子」の「弟」は「デ」(これは慣用音)と読む。「人力」の「力」は「リキ」(呉音)とも「リョク」(漢音)とも読むが、「人力車」は「リキ」としか読まない。漢字は、漢音、呉音、唐音などの読み分けをするが、どういう場合にどう読むかは、規則などないし、合理的な理由づけもできないから、1語1語覚えなければならない。こんなことは、漢字の本家の中国ではありえない(韓国でもありえなかった。)。これは漢字が日本語に適合したどころか正反対のものになっていることを示している。
 こうなったのは、中国の異なる時代、異なる地域の音を取り入れたのを整理することができないまま今日に至っている、というだけのことなんだ。こういう何の必然性もない読み分けを日本(語)人は努力して覚えているわけだが、これは覚えても他に応用の効かない知識であって、費やした労力、時間にはとうてい見合わない。それでも覚えられればいいが、覚えきれない。「出納」を「シュツノウ」と読む人はいくらでもいる。「出」という字は「シュツ」、「納」は「ノウ」と読むのが普通だから、「シュツノウ」と読んでしまうのは、むしろ当たり前のことなんだが、そう読むのは間違いだとされる。当たり前のことが当たり前とされない倒錯、それが普遍化しているのが、漢字を使う日本語の表記法なんだ。同じ字を合理的な理由なしに、いくとおりにも読み分ける無秩序、それが無秩序でなく、あるべき秩序だと信じ、疑うことのない囚われた考え方、それなしには成り立たないのが、漢字の素養というものなんだ。
 日本語は漢字カナ交じりで書くもの、という固定観念を捨ててカナで書くことにすれば、漢字の読み分けのような不合理なものを覚える必要がなくなるし、視覚に頼らない耳で聞いて分かる、使いやすい日本語になっていくだろう。
 
 VI 音読みのわざわい
 N:漢字は日本語を表記する文字として問題がある、というあなたの考えにも否定しきれないものがあると思う。でも、大事なことをひとつ忘れていませんか?
 K:大事なことって?
 N:それはね、漢字には造語力があるということ。
 K:漢字には造語力なんかないの。
 N:意外な見解ね。漢字に造語力があるというのは常識でしょう? 雑誌で「健脳食」というコトバが使われているのをみたんだけど、これは新しいコトバでしょう。漢字だからこそ簡単に造語することができる。
 K:なるほど漢字を2字か3字組み合わせればコトバらしきものができる。でも、そんなものがコトバとしての働きをしているかどうか、それが問題だ。
 今、君が「健脳食」というコトバをあげたから、僕も「食」がつくコトバをあげてみよう。「コショク」というのがある。
 N:「コショク」? 「古食」かしら。
 K:そういう造語もありうるだろうね。でも僕が見たのは「孤食」。ひとりでとる食事のことらしい。〔固食、個食、粉食というのもあるらしい。〕
 それから、これも「食」のつくコトバで「コウショク」というのもある。
 N:「コウショク」ね……。「好食」かな? それとも「交食」かな?
 K:正解は「香食」。クサヤのような、臭いの強い食べ物をいうらしい。〔「こうじき」と読むと別の意味になる。〕
 「食」という字を含む、とヒントが与えられていても、耳で聞いただけでは分からないのが漢字による造語というもの。なぜ耳で聞いて分からないかといえば、すでに話してきたことだけど、漢字には同音のものがとても多いから。
 それに「コショク」は、すでに「古色」というコトバがあるし、「コウショク」は「公職」「降職」「好色」「紅色」「黄色」といったコトバがある。漢字で造語をすればほとんどが同音異義語となり、そうでなくても字を見なければ意味の分からないコトバとなる(字を見ても意味が分かるとは限らない)。君があげた「健脳食」だってそうだ。こんな造語はとてもコトバとはいえないもので、「コトバモドキ」とでもいうべきものだ。漢字は中国語を表記する文字としては豊かな造語力がある、といえるだろうが――漢字とは、それ自身中国語のコトバを表わしたものだから当然だが――日本語を表記する文字としては、造語の要素としても不適当なものだ。いわゆる漢字の造語力というのは「コトバモドキ」をつくる力のことで、本当の「コトバ」をつくる力はないんだよ。
 N:なるほどね。
 K:それから、漢字の「造語力」のおかげで、たしかにコトバ(モドキ)は簡単につくれるが、安易な造語のために不必要なコトバが次つぎ生まれる一方、不必要であるがために次つぎに消えていく、つまりコトバが安定しない、という事実も指摘しておかなければならない。
 もうひとつつけ加えると、そのコトバモドキをつくる「造語力」にしたって、「日本語の造語力」とはいい難いものだ。漢字を組み合わせればコトバらしきものができる、とはいっても一定の決まりがあって、それに従わなければならない。この決まりとは、実は中国語の文法規則にほかならない。
 N:よく分からないけど。
 K:「山に登る」ことをヤマトコトバでは「山登り(やまのぼり)」というけど、これは日本語の語順に従っているね。だけど漢語では「山登」ではなく「登山」となって引っ繰りかえってしまうね。これは、中国語では目的語は動詞の後にくるからだ。
 N:そうなの。
 K:中国語という外国語の規則に従わなければ造語ができない。これは漢字を使っているために、日本語は中国語から自立できないでいる、ということをあらわす一例だ。
 N:でも漢字を使わないでどうやって造語をするの?
 K:漢語がすべていけないとは言わないけど、耳で聞いて分かることが条件だから、日本語固有のコトバ、ヤマトコトバをもっと使うべきだし、場合によっては「カタカナ語」だっていいと思う。
 「単親」などはコトバモドキのいい見本だろう。「単身」と取り違えられるおそれがあるしね。これは「ひとりおや」とか「かたおや」とか言えば耳で聞いても分かる。これが本当のコトバというものだろう。
 N:「ひとりおや」なんていうのは悪くないと思うけど、ヤマトコトバで造語する、といっても何かしっくり来ないものがあるように感じるけど。
 K:ヤマトコトバより漢語の方が高級な感じがする、ということだろう? 「立ち食い」より「立食(りっしょく)」のほうが上品だ。でも、そう感じるのは主に、日本人が漢字ばかりをありがたがって、ヤマトコトバをないがしろにしてきたからで、ヤマトコトバそのものが劣っているのではない。
 どんな言語だって、文明の発展とともにコトバに新たな命を吹き込んで来たのであって、初めから高級なコトバだったわけじゃない。たとえば「コンセプト(concept)」なんていうのは高級な感じのするコトバだが、語源をたどれば「con」は英語の「with」、「cept」は「take」にほぼ相当するラテン語から来ているわけで、ごく日常的なコトバだったということが分かる。
 漢語だって、それが本質的に文化的で高級なコトバだ、なんてことはありえないんだけど、日本人は漢字・漢語を崇拝してきた。それでヤマトコトバによる造語が発達しなかった。
 N:日本ではヨーロッパのコトバを新しい漢語をつくって訳してきたわよね。漢語は視覚に頼らざるを得ないという弱点はあるにしても、ヨーロッパ語をそのまま取り入れるよりは、日本人にとってはなじみ易いものになったでしょう? その点では意義があったのではないかしら。
 K:「経済」とか「金融」とかの漢語のことを言っているんだろうけど、本当に「エコノミー」というより「経済」と言った方が分かりやすいだろうか。「金融」はそのまま読めば「カネが融ける」じゃないか。今、これらの漢語はだれでも理解できるし、違和感も感じないが、それは日常生活で頻繁に使われて目にも耳にもなじんでいるからで、そうでなければいくら字を見つめても意味が分かるわけではない。実際、あまりなじみのない漢語は、外国語と違いのない、とらえどころのないものではないだろうか。哲学用語なんていうのはいい例だろう。
 N:哲学用語がとらえどころがない、というのは哲学というのがもともと難しい学問だからでしょう?
 K: ヨーロッパ語では、哲学用語だって必ずしも日常生活からかけ離れたコトバではない。たとえば漢語の「悟性」なんていうのは、よく分からないコトバだが、英語では「悟性」にあたるコトバは「understanding」だという。
 N:「understanding」なら子どもでも分かるコトバね。
 K:「悟性」ほどよそよそしいコトバでないことは確かだろう。
 漢語は、漢字を使っている日本人には理解しやすいように思われるけれども、漢字は日本語にとっては、ある面で今なお異物であり、よそよそしいものであって、日常から離れた理解しがたいものであったり、意味をゆがめて理解させたりすることがある、ということも忘れてはならない。

 VIII まとめ
 K:この辺で、今まで話してきたことを整理してみよう。まず、
 ◆漢字は中国文化が生み出したものだが、その表意文字としての性格上、中国文化と分かち難い関係にある。
 N:中国文化を反映した文字だから、その成り立ちを考えると、日本人にはピンと来ないものも少なくない。「美」という字は「羊」と「大」が組み合わされたもので、本来太ったおいしいヒツジを意味する、とは思いもよらぬことでした。
 K:異民族が生み出したものだから良くない、などと言っているのではなくて、日本の「漢字文化」とは一面「植民地文化」であることを認識したい、ということ。
 そして漢字は、中国語を書き表わす文字として発達したものであるから、中国語とはまったく系統の異なる日本語を表記しようとすれば、さまざまな問題が起こらざるを得ない。漢字の3要素といわれる、字形、字音、字義の面から見てみると、
 ◆漢字の字形は、日本語にとっては必然性のないものだ。なぜなら漢字は表意文字であるとともに、その多くは表音性も備えており、字形がオトを示すが、そのオトとは中国語のコトバの発音にほかならないから。
 N:漢字の大部分をしめる形声文字に含まれる、中国語のオトを表わす部分(音符)――たとえば「伯」「拍」「泊」の「白」 ――は、中国語にとってだけ意味があるのでした。それから、元の意味を離れて同音の中国語を表わすために使われる仮借も、中国語を表わす文字だからこそ起こり得たことで、日本語にとっては何の関わりもないことなのでした。
 K:こういう日本語にとっては意味のない、偶然による字形を苦労して覚えなければならない。漢字は字数が多い、ということだけでも大変なのに。そして、
 ◆漢字の字音とは中国語のコトバの発音であって、日本人にとっては外国語のオトであるに過ぎない。そこで音に加え、本来の日本語のオトである訓を当てるようになったが、そのため世界に例のない極めて複雑な文字の使い方をすることになった。また、日本語を表わしきれない原因のひとつにもなった。
 N:音も訓もひとつずつならまだ良かったけど、両方とも複数あることが多い。それに、音なら音符によって類推できる場合があるけど、訓は字形からは分からない。それと、「ミョウニチ」「アス」「アシタ」が漢字では書き分けられないように、漢字では日本語を表わしきれない、ということでした。
 K:字音について、もうひとつ問題なのは、
 ◆日本語と中国語ではオトの体系が異なる上、音節の組み立て方も異なっている。そのため、日本語での漢字は同じ字音を持つものが極端に多くなり、したがって同音異義語も多くなった。その結果、日本語は視覚に依存する、話しコトバとしての力の乏しい言語になってしまった。
 N:漢語には耳で聞いて分からないものが多いのは、たしかに困ったものね。その意味では、漢字の造語力もむしろ日本語を使い難いものにしているのでした。
 K:◆漢字の字義は、中国語のコトバが持つ意味であって、日本語のコトバの意味とは一致しないから、異字同訓などの問題が生じる。これはヤッカイなだけでなく、日本語をゆがめることになる。
 N:たとえば「つくる」を「作る」「造る」「製る」「創る」などと書き分けるのは、日本語の「つくる」というコトバを解体し、その意味の一部だけを表わすこと。逆に「冷」を「ひやす」「つめたい」「さます」と読み分けるように、ひとつの字にいくつもの訓を当てたりするのも 漢字が日本語に対応できないことを示している。「洋服」と「服従」、「服薬」のように日本語の発想としては意味の繋がりのないコトバに同じ字を使うという不合理も生じた。
 K:これも字義に関連する問題だけど、
 ◆漢字では日本語の派生の関係を表わすことができないことがある。そのため、同源のコトバでもそのことが分からなくなる。これも漢字が日本語をゆがめているという根拠のひとつ。
 N:「おとす」と「おとる」は同源であるのに「落とす」、「劣る」と違う字を使うから関係が見えなくなるのでした。これは漢字がコトバの意味を不透明にしている、ということね。
 同じことが複合語についてもいえそうね。「あかね」の語源は「赤い(草の)根」だと聞いたことがあるけど、漢字で「茜」と書いたのでは、そのことが見えなくなる。
 K:そのとおりだね。
 さらに、文法の面からいえば、
 ◆日本語は中国語と異なり活用があるから、送りガナの助けが必要であるが、このことも日本語の表記の混乱の一因になっている。
 N:「といあわせ」は、「問合せ」か、「問合わせ」か、「問い合せ」か、「問い合わせ」か。本当に難しい。カナで書けば何も問題はないのに。
 K:◆造語をするのにも日本語のコトバの並び順を反映させるのではなく、中国語の決まりに従わなければならない。
 N:外国語の造語法によらなければ造語ができない、というのも考えてみればおかしな話ね。
 今までの話を一言でまとめると、漢字と日本語のミスマッチが日本語の表記を複雑、不合理で習得の困難なものにし、そのうえ日本語をゆがめ、発達を妨げて来た。だから、漢字を廃止して日本語を中国語から独立させよう。
 K:指摘すべきことは、まだあるし、説明も十分ではなかったけど、今あげてきたことだけでも漢字が果たして「日本語の文字」としてふさわしい文字なのか、という疑問を持たざるを得ない理由が幾分なりと分かってもらえたと思う。
 N:日本で使われる漢字は、中国で使われる漢字とは字形も語法も異なった変化をとげてはいるけど。
 K:そういう面もないわけではないけれど、基本的には「Chinese character」すなわち「漢民族の文字」、「中国語を表記するための文字」としての本質が変わっていないことは見てきたとおり。
 N:「漢字」の「漢」とは「漢民族」のことだ、なんてことはあまり意識されていないわね。
 K:だから、このことをハッキリと示そうとするときは、「漢字」といわずに、「シナ文字」とか、「モロコシ文字」とか、「中国文字」とか呼ぶ人もいる。
 N:あなたの主張には一理あることは認めるとして、では漢字をやめてカナだけで日本語を書いたらいいか、というと、そう簡単にはいかないと思う。だって別の問題が起きるでしょう? カナばかりの文章なんて読みにくいし、もっと問題なのは文化が断絶してしまうんじゃないか、ということ。
 K:それはね、
 N:ねえ、この話の続きは、またあとですることにしましょうよ。「健脳食」だとか「立ち食い」だとかの話をしてたからかな? わたし、おなかがすいちゃった。
 K:そうだね。もう少し行くと、ジンギスカン料理の店があるんだけど、わがマドンナはマトンは嫌いだった?
 N:ま、トンでもない。「美」という字の本来の意味はどういうものだったか、自分の舌で確かめてみるのも悪くないアイデアね。
 K:じゃあそうしよう。でもひとつ忠告がある。わがマドンナに。
 N:ま、どんな?
 K:お互い過食しないようにしないとね。 
 N:ねえ、「過食」というのは「コトバモドキ」っぽくない?
 K:やられたね。では言い直そう。「食べ過ぎ」に注意。

 (『カナノヒカリ』 896、898、900、901ゴウ 1998ネン) (一部書き改めた。)

(このページおわり)