「カナノヒカリ」 873、874ゴウ (1995ネン12ガツ、1996ネン1ガツ)

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日本語の造語力は衰退したか

                                             キクチ カズヤ 


1 漢語から 「カタカナ語」へ

  3月ツイタチ ヅケの 読売新聞 朝刊に 「『ライフライン』は正しかったが … 和製英語に見る言語文化 / 翻訳放棄、貧しい造語力」と 題する 解説記事が のった。
  この 記事の カキダシでは、阪神大震災の アト ひろく つかわれるように なった 「ライフライン」と いう コトバに ついて 解説して いる。これは 英語としては 通用しない 和製英語で ある と 指摘する 者も いるが、専門用語としては この コトバの ツカイカタは ただしい と いう。
  つづけて、日本人は 明治時代 西洋の 概念に 対しては あたらしい 漢語 ―― 「経済」や 「哲学」など ―― を つくって 対応して いたが、戦後は 翻訳の 努力を おこたり 外国語 ―― 特に 英語 ―― を カタカナの まま 安易に 通用 させるように なり 日本語の 造語力は 衰退した と いい、中国では 「ファックス」を 「伝真機」と いうように 造語力は ユタカで あるのに ひきかえ、日本の 言語文化は うすらざむい 状況に ある と なげいて しめくくって いる。
  この 記者は 日本語の 造語力が 衰退した と いう 原因や 解決方法には 特に ふれて いないが、あたらしい コトバは 中国や 明治時代の ワガクニの ように 漢字を くみあわせて つくって いくべきで ある と かんがえて いるらしい ことが うかがわれる。

2 漢字コトバ(漢語)は 日本語を ユタカに するか

  ワタシは 漢字に よる 造語力が おとろえたとは おもわない。イマでも 漢字を くみあわせた あたらしい コトバは つくられつづけて いるし、「嫌煙権」や 「熟年」のように すでに 市民権を えた と おもわれる ―― 国語辞典にも 採用された ―― 漢字コトバ(漢語)も タクサン ある。
  とは いえ 英語を 中心と した 外国語を そのまま カタカナで 通用させる 傾向が いちじるしい ことは 事実で あろう。そして、この 記者が これを 日本語の マズシサと とらえ、読者に 問題提起しようと した ことは よく 理解 できる。しかし あたらしい 漢字コトバを つくる ことに よって 問題が 解決する と おもうのは はやまった カンガエで ある と いわざるを えない。
  なぜか。一番の 問題点は、同音異義語が カギリなく うまれて しまう と いう ことで ある。たとえば かりに 中国語に ならって 「ファックス」を 「伝真機」と するならば、すでに ある 「電信機」と おなじ オトの コトバが できる ことに なる。なぜ こう なるか と いうと ワガクニでの 漢字の オト(音ヨミ)は きわめて かぎられて いるからで ある。たとえば、「ア」の アトに くる オトは 「イ」、「ク」、「ツ」、「ン」の 4ツのみで ある。すなわち、
   「アイ」(「愛」 など)
   「アク」(「悪」 など)
   「アツ」(「圧」 など)
   「アン」(「安」 など)
の 4ツの クミアワセしか ない。(「アチ」と いう ジが イクツか あるが ほとんど つかわれない。)だから おなじ オトの 字が いくつも ある ワケで ある。「シン」と よむ 字は 常用漢字だけで 「真」、「信」など 29も ある。漢字は 一見 コトバを ユタカに するように みえるが、その オトは きわめて まずしい もので ある ことが わかる。     
  コトバと いう ものは 文字で つたえられる だけで なく 音声でも つたえられる もので ある。ハナシコトバでは ミミで きいて 区別の できない 同音異義語が とりちがえられる ことは さけられない。前後の 関係で 判断できる バアイも あるが、「市立」と 「私立」、「科学」と 「化学」 など 前後の 関係だけでは 判断が むずかしい バアイも すくなく なく、誤解を さける ためには 字の 説明を くわえるか、「カタカナ語」に いいかえるか、あるいは 「イチリツ」、「ワタクシリツ」、「バケガク」のように 一部を ヤマトコトバに よみかえる など しなければ ならない。ハナシコトバに とって 障害に なる 同音異義語を これ 以上 ふやして いい ものだろうか。
  なお、漢字の 本家 中国では オトの カズが 日本語よりも おおく ―― たとえば 「ン」は 「n」と 「ng」に 区別される ―― 、また 四声と よばれる アクセントに よる 区別も あるので 同音異義語は ずっと すくない。ちなみに 「電信」は 「dianxin」、「伝真」は 「chuanzhen」で ある。中国語の ヤリカタを 日本語に あてはめよう と するのは 合理的で ない。

  では カキコトバに とっては 漢字とは いかなる もので あるか。よく 「漢字は みただけで 意味が わかるから すぐれて いる。」 など と いう ヒトが いるが、これは 迷信で ある。タシカに 字を みて 意味が 類推 できる ことは あるが、そうで ない バアイも おおい。「野球」は 「野」で、「庭球」は 「庭」で おこなわれる 「球技」で ある とは 定義 できない。ホカの 競技も 「野」や 「庭」で おこなわれる。「経」と 「済」を くみあわせると なぜ 「economy」と いう 意味に なるのか 説明 できる ヒトは すくないだろう。字を みて 意味が わかるのは ハジメから 字と 意味を むすびつけて おぼえて いるからで ある。造語の 規則も アイマイだから、整合性に かける。「碩人」と 「哲人」は ともに ヒトを あらわすが、「碩学」は 学者を あらわすのに 対し、「哲学」は 学問を あらわす。むしろ カキコトバに とっても 漢字は 深刻な 問題を もたらして いる。カズが ボウダイで おぼえるのが 困難で ある。そして ツカイカタが きわめて 複雑で ある。おなじ ヨミカタを する 字が タクサン ある 一方、ヒトツの 字に ヨミカタが イクトオリも ある。おなじ 意味を もつ 字の おおさ。………
  これらを 漢字の もたらす ユタカさを しめす もの、価値の ある もので あるかのように 主張する ムキも あるが とんでもない オモイチガイで ある。コトバとは 伝達の 手段で ある。その サマタゲに なる ものが 価値の ある ものとは いえない。

3 まもり そだてるべき ものは なにか

  いわゆる 「カタカナ語」の ハンランと いわれる ものは 漢字の 造語力の 問題では ない。外国の そして 自分の クニの 文化に 対する 姿勢の 問題で ある。
  自分の クニの コトバ ―― 文化 ―― を 大切に しようと おもう ヒトならば、いわゆる「カタカナ語」が はびこるのを うれえるのは 当然で ある。しかし、大概の ヒトは 漢字コトバも やはり 中国語からの カリモノで あり、あるいは カッテに 漢字を くみあわせて つくった 「和製中国語」で ある、と いう ことを わすれて いる。
  と いうと、「漢字が 日本語に とりいれられた のは 千年以上も マエの コト。国字として とっくに 消化されて いる だけで なく、もはや 日本語に とって かかす ことの できない ものに なって いる」と 反論する ヒトは おおいだろう。しかし そうだろうか。もともと 漢字は 中国語を かきあらわす ために うまれた 文字で あるから、まったく 系統の ことなる 日本語に つかうには イロイロな 問題が ある。日本語では 「いく」と 「おこなう」は 別の 概念だが 中国語に ならって ドチラも 「行」と いう 字を つかう。逆に 「はじめ」と 「はじめる」は 同源で あるにも かかわらず 中国語の カキアラワシカタに したがって 「初」と 「始」とに かきわける。これは 不自然では ないだろうか。もう ヒトツ 複合語の 例を みる。「かたむく」、「かたよる」、「かたわら」を 漢字で かくと すれば、それぞれ 「片向く」、「片寄る」、「片端ら」と かくのが 日本語として 自然で あろうが それは ゆるされず、「傾く」、「偏る」、「傍ら」と まったく 別の 字を つかわなければ ならない。これが 漢字を つかう ことに よって 中国語と いう 外国語に ひざまづく ことを しいられて いる 日本語の ミジメな スガタで ある。
  2で のべたような 不便を しのび 日本語の 独立を 放棄さえ して、無理に 無理を かさねて つかって いるのが 日本語に おける 漢字で ある。だから 日本語の 健全な 発展を 漢字に ゆだねる ことは できない。

  「カタカナ語」にも 漢字コトバにも 日本語を ゆだねて いく ことが できない と すると どう すれば よいのか。
  ヤマトコトバが ある。
  ヤマトコトバは 日本語 固有の コトバで あって、漢字の ような オトの クミアワセの 窮屈な 制限の ない イロドリ ユタカな コトバで ある。本当の 意味で 日本語を うつくしく ユタカな コトバとして はぐくんで いこう と するならば、ヤマトコトバを ハシラに すえなおすしか ない だろう。あたらしい コトバは なるべく ヤマトコトバで つくる。ミミで きいて わからない 漢字コトバは ヤマトコトバで つくりなおすか、つかわれなくなった ヤマトコトバが あれば それを よみがえらせる。
  しかしながら イマ このような ことを うったえても そう たやすくは 世間に うけいれられない だろう と いう 現実が ある。それは ながい アイダ 漢字が 必要以上に とうとばれた 一方、ヤマトコトバは かろんじられ いやしめられて きた こと、そして その ために ヤマトコトバが もつ 本来の 活力が 窒息 されられ 発達が はばまれて きた ことに 原因が ある。その 意味では 「日本語の 造語力は 衰退した」と いうのは ただしいので ある。
  だが、あきらめる ことは ない。漢字に よる 安易な 造語を やめ、「カタカナ語」の 無分別なトリイレを やめ、ヤマトコトバを いやしめずに いかして いく 努力を かさねるならば、日本語 固有の そして つかいやすい コトバが ハナひらいて いくに ちがいない。

4 とりあえずは 「カタカナ語」も つかう

  さしあたっての 問題として、必要に 応じて 「カタカナ語」を つかって いく ことは やむをえない。漢字コトバと くらべて 同音異義語と なる 可能性が ひくい と いう 点で すぐれて いる。 
  ただし、その トリイレカタには 注意すべき 点が ある。
  (1)あくまで 日本語として つかうので あるから、日本語の 音韻体系に 調和する もので なければ ならない。「ヴ」などの 日本語に ない オトを つかうのは 無用の 混乱を まねくだけで あって、まったく 意味の ない ことで ある。
  (2)アタリマエの ことで あるが、原語の オトを 採用すべきで ある。日本語に ない オトは モチロン ちかい オトに ―― /v/なら /b/ または /w/に ―― おきかえる。
  (3)国際的に つかわれて いる コトバに ついては ―― 国際性は オモに その ツヅリに あるのだから ―― ツヅリを 重視して いわゆる ローマ字ヨミで とりいれて よい。
  チカゴロ すでに 定着して いる カキカタを 無視さえ して 英語の オトを とりいれよう と する 傾向が みられる ―― 「エネルギー」(Energie)に 対し 「エナジー」(energy)、「ウイルス」(virus)に 対し 「バイラス」など ―― が、これも 意味の ない ことで ある。英語は ヨーロッパ語の ナカでも 特に 「くずれた」 発音を する ―― 「a」を /ei/ 「i」を /ai/ などと ―― 言語で あって、これを 採用する 必然性は ない。また、英語が 国際語として ひろく つかわれて いる ことを もって 日本語への 侵入を 正当化する ことも できない。(英語を 国際コミュニケーションの 手段と する ことに ついては、英語を 母語と する 民族と そうで ない 民族との アイダに 言語差別を うむ と いう きわめて 重要な 問題が 指摘されて いる。この ことに メを むける ヒトの おおくは 国際共通語として 必要な 条件 ―― 中立性など ―― を みたす 言語は エスペラントのみで ある と 主張して いる。)

  イッタン とりいれられた 「カタカナ語」も、いずれ 適当な 訳語が つくられれば それに とって かわられるで あろうし、「タバコ」や 「ラジオ」のように そのまま 日本語に とけこんで いく ものも あるだろう。もとより 大切な ことは、日本語は どう あるべきか、どう あれば より うつくしく つかいやすい コトバとして 発展して いくか と いう ことで あって、イタズラに 外来語を 排斥する ことでは ない。


〔原文は、「カタカナひらがな交じり文」〕


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