【国語改革への批判】
戦後の国語改革は、終戦直後のドサクサにまぎれて行なわれた、一部の偏向者の策動によるものではないか。
【反論】
そのような主張をする人もいるにはいます。しかしそれは、事実とはまったく違っています。
まず、「偏向者の策動」ということについて見ていくことにしましょう。
戦後の国語改革の柱である「当用漢字」や「現代かなづかい」は、当時の国語審議会によって定められたものですが、この国語審議会の委員を選ぶ方法は、政令によって決められており、政治、経済、教育、学術、文化、報道などの部門での学識経験者や関係各官庁の職員から推センされることになっていました。しかも、選ばれた委員は、それぞれの部門での実行上の責任を追っている人が多かったのです。したがって、「偏向者の策動」などが仮にあったとしても、それが実現する余地などまったくありませんでした。
「偏向」などという誤った見かたをする人がいるのは、委員の中にカナモジ論者やローマ字論者がいたことを根拠としているようですが、実際には、漢字全廃を主張する委員などひとりもいませんでした。主張したとしても問題にされなかったでしょう。さしせまった現実の問題を解決していくために、委員の合意を形づくっていくことが課題だったのですから。
それでは、なぜあのような改革が実現したのでしょうか。国語審議会の任務の第一は、「国語の改善」(国語審議会令第1条第1項)ということでした。当時は、日本を民主主義国家として再建しなければならないときでした。そのためには、日本語を国民の共有財産としてふさわしいものにする必要があったのです。ひとりひとりがお互いの意見を理解しあうということが民主主義の出発点であるからです。「国語の改善」を行なう機関を、「国語の改善」の必要を痛感していた各界の代表者が構成し、「国語の改善」を実現した、自然の成り行きです。(後ろ向きな態度をとる委員もいましたが、最後まで少数派にとどまりました。)
ところで、「ドサクサにまぎれて」、という非難には、改革への研究を十分に行なわずにあまりにも拙速に行なったという批判も含まれています。
事実は、どうだったでしょうか。「当用漢字」として実を結んだ、漢字制限案についていえば、当時、膨大な資料があったのです。
1900(明治33)年には、すでに国語調査委員会ができていました。1924(大正13)年には、1962字の「常用漢字表」が発表されています。そのあとも、多くの権威者が委員として審議に参加しました。新聞社の使用活字の実態調査や国会の速記録などの様々な資料が取り入れられました。彼らの努力によって、「漢字表」は何度も手を加えられ、ずっと審議が続けられてきたのです。「当用漢字」は、これらの資料をもとに審議を十分に尽くして作られたものなのです。決して一夜漬けで決められたものではないのです。
なお、戦後の国語改革はアメリカの指令によるものだ、などという非難を浴びせる人々もいますが、これについては、前の号〔*〕で反論していますので、ここでは省きます。ただ、上に書いてきた事柄もこの説が誤りであることを証明している、ということを強調しておきたいと思います。
最後に、国語改革の意義について、藤堂明保博士の著書『漢字の過去と未来』(岩波新書 1982年)から引用させていただき、締めくくりとさせていただきます。
〔戦後の〕第三の改革が、いわゆる「国語表記法の改革」である。…… 都市から農村にいたるまで、老いも若きも新聞や雑誌を読めるようになり、日記や手紙を書けるようになったのは、国語表記法の改革があったおかげではないか。……
〔*〕◆
戦後の国語改革は、アメリカの指令によるものか?
(『カナノヒカリ』 941ゴウ 2008ネン アキ) (一部書き改めた。)