前々号〔*〕と前号の2回にわたり、わたしは戸籍に使われる漢字の字体の問題を取り上げてきました。戸籍事務のコンピューター化に伴い、漢和辞典にも載っていないような異体字は整理されるとはいえ、今後もひとつの字種につき複数の字体が残ることを説明しました。また、このことは、本人や周りの人々にとって不便なものであることを述べました。いちいち字体を確認するということは、社会生活全体に不効率をもたらす、ということです。
そこでわたしは、戸籍に旧字体など一般的でない字体が載っている人は、新字体などの一般的な字体に改めてはどうか、と提案しました。
このような提案をすると、多くの人は、「自分の氏名の字は戸籍に載っているのが正しいに決まっている。それを変えるなどとんでもない。」と目をむいて反発されることでしょう。しかし、そのような人には良く考えていただきたいのです。同じ氏(姓)であっても(たとえルーツが同じであっても)いろいろな字体の氏に分かれてしまったのは、昔の人は字体などには、執着していなかったからではありませんか?
それをなぜ今の人々は、戸籍の字体にこだわるのか。合理的な理由は見当たらないように思われます。戸籍といえば、身分を明らかにする重要なものには違いありませんが、それに載っている字体は、ほとんどの場合、たまたまそうなっただけでしょう。特別な意味などありません。
こう言っても、納得していただくのは難しいかもしれませんので、発想の転換をしていただくために、別の角度から考えていきたいと思います。
人それぞれの価値観は尊重されなくてはなりません。戸籍に載っている字体を大切にする気持ち自体は、非難されるようなことではありません。ですから、それを捨てろ、などとは申しません。家のシンボルとして大事になさったらよろしいと思います。
家のシンボルといえば、家紋というものがあります。家紋をとても大切にしている人もいれば、まったく関心のない人もいます。中には、自分の家の家紋を知らない人さえいるでしょう。戸籍の字も家紋と同じように考えられないでしょうか。必要なら本人が知っていれば良いものである、と。
自分の家の家紋を大切にする。そのことは、なんら問題はありません。しかし、ほかの人にまで自分の家紋を覚えることを要求したとしたら……。相手にとっては、実に迷惑な話でしょう。
「わたしの苗字は『髙澤』です。『高沢』なんて書かないでください。」と要求することは、「わたしの家紋は『丸に桔梗』です。覚えてください。」と要求するのと同じことなのだ、といっても言い過ぎではないと思います。
さらに話を進めて、字は異なるが同音の氏について考えてみましょう。これは、いくらでもあります。たとえば、「川村」さんと「河村」さん、「畑山」さんと「畠山」さん。「川」と「河」は字は違っていても同訓で意味は変わりません。また、字もその意味も違うが同音という氏もたくさんあります。「清水」さんと「志水」さんなど。「清」と「志」では意味も異なります。しかし、氏の字は当て字である場合がきわめて多く、ルーツは同じでも字が変わってしまったケースも珍しくありません。ですから、どの漢字を当てているかは、歴史的な興味はともかく、現実的な意味はありません。
ということは、氏名は、カナで書いても一向に差し支えのないものである、ということです。むしろそうするのが、社会生活上、きわめ便利なのです。実際、カナでの事務処理は、金融機関などで行われています。
文字は、社会の共有財産です。人名といえどもエゴイズムは許されるべきではありません。個々人の戸籍上の文字に対する愛着は尊重されるべきですが、それは、家紋と同じく、必要なら本人が知っていれば良いものと考えなければ、問題は解決しません。異体字の解消、さらにはカナ書きをめざしましょう。〔人名の漢字の問題は、戸籍簿や住民票にはカナも併記することとし、社会生活では、漢字、カナいずれで書いても有効とするのが現実的な解決方法であると考えています。〕
*「
戸籍の字体の整理は、不徹底だ」
(『カナノヒカリ』 941ゴウ 2008ネン アキ)(一部書き改めた。)