コンピューターと漢字
キクチ カズヤ
1.漢字世界の救世主?
今や、ほとんどすべてのオフィス、そして多くの家庭にパソコンが入り込み、仕事や生活になくてはならないものとなりました。そのパソコンに使われるOS(基本ソフト)としては「Windows」が圧倒的なシェアを占めていますが、一部のユーザーの間では、「超漢字」というOSが高く評価されているようです。
この「超漢字」は、「多文字」が使える、という機能が大きな特徴のひとつになっています。多くのコンピューターでは、7,000字程度の文字しか使えないのに対し、このOSは無限の文字を搭載することができるように作られています。最新バージョンである「超漢字4」では、174,024字を利用することができます。「トンパ文字」などの珍しい文字にも対応しています。
しかし、この日本生まれのOS「超漢字」が最大のセールス・ポイントとしているものは、その名がハッキリ示しているとおり、多くの漢字をコンピューターで扱うことができる、ということです。
「Windows」では扱えない漢字があって困った、という経験のある人は少なくないかもしれません。わたしにもそのような経験があります。(ただし、その字がわたしの考えを表わすのに必要だからではなく、こんな字もある、と紹介するためにですが。)ですから、このOSを歓迎する人がいることは理解できます。
このOSの開発者には「漢字文化を守る」という強い意識があったことは、間違いありません。また、これを支持する人々も、その理念のために賛辞を惜しまないのでしょう。
しかし、一般に、「過去の文化遺産としての漢字文化を守る」ことと「現在の日本語表記としての漢字文化を守る」こととの違いがあまり意識されていないように思われます。とにかくどんな漢字でも使えることは良いことだ、と単純に考えられているように、感じられるのです。わたしは、このふたつの違いは明らかだと思います。前者については、過去に使われた漢字が必要に応じコンピューターで扱えるようになることは、喜ばしいことと考えます。しかし、後者についていえば、現在の日本語表記として、無制限の漢字を使うことが望ましいことであるとは思えません。多くの漢字を使うということは、表記がいっそう煩雑になる、ということです。そうまでして多くの漢字を使う(たとえば、「館」と「舘」を使い分けるなど)ことが本当に必要で価値のあることなのか吟味すべきでしょう。
2.漢字は増殖するもの
それはさておき、だれもが疑問に思うであろうことは、何万字ともしれないすべての漢字を網羅することができるのか、ということでしょう。実際、このOSの開発者は、1字も残さず集め尽くした、とは言っていません。このグループでは、まだ搭載されていない字もあることを想定して、そのような字についての情報を求めています。
古文書などには、普通と違った漢字がたくさん使われています。しかし、それが異体字なのか、それとも誤字なのか、単なる書き癖で違う字のように見えるだけなのか、判然としない場合も多いのではないでしょうか。でも、誤字や書き癖もハッキリ違いのわかるものはすべて別の字とみなす、と割り切って広い集めていけば、いつかはすべての漢字をコンピューターで扱えるようになるだろう、と単純に考える人は、漢字は増えるものだ、ということを思い出してください。
漢字の特徴のひとつは、その数が膨大であるということですが、そのすべてが一度に揃って生まれたのではありません。時とともに新しい字が次々と生まれてきたのです。また、漢字は字形が複雑である上、長い間手で書かれてきたのですから、本来は同じ字であっても、いろいろなバリエーションができてしまったのです。加えて、漢字が使われた地域は広大ですから、地域によって異なった発達をしてきました。たとえば、「榊」「辻」「峠」などは、日本で作られた和製漢字(いわゆる「国字」)であって、漢字の本家の中国では用いられません。また、さらに、活字の時代になってからも、中国や日本でそれぞれ独自にやさしい字体に改めるということも行なわれました。
現在はどうでしょうか。そして将来はどうなるのでしょうか。政府の政策としては、今のところ中国でも日本でもこれ以上漢字の字体を改める(結果として字を増やす)ような動きは見られません。
民衆の間ではどうでしょうか。
日本では、かつては漢字を気ままに作る(あるいは字体を変える)ことができました。たとえば、子どもに名前をつけるのに、「達」という字のツクリの横棒を一本減らして「幸」にしてしまう、というようなことが行なわれました。コドモの「幸せ」を望む親心が新しい字を作ってしまったのです。そして、このような字でも役所ではそのまま戸籍に載せてしまったのです。
もちろん今では役所はこんなことは許しませんが、非公式の場では、自分で勝手に作った字を使っている人がいます。たとえば、姓名判断で自分の名前の画数が悪いと言われたため、本来点のない字なのに、点をつけて画数を調整しているような場合です。このような字は、本人は使っても、ほかの人は使ってくれないのが普通でしょう。でも、もし、その人が自分の勤めている会社の社長だったり、得意先だったりしたら……。その人ひとりのためにわざわざ外字を作って使う、などということもあり得るとは思いませんか? そのようなケースは実際にあるのです。また、力士のシコ名をつける時に、本来は点がある字なのに点をつけないでおいて、出世して関取になった時に点をつけて本来の字に直す、などということも行なわれています。
人名以外でも、屋号やビルの名前などに自分で作った字を使っている人がいます。カギ形(Lを逆さにした形)と「八」という字を組み合わせて「カギハチ」と読ませたり、クニガマエの中に「三」を入れて「カクサン」と読ませたりしているのです。それだけを単独で使うのなら、トレードマークとみなすことができますが、外字として作って文章の中で使ったり、住民票にアパート名として登録しているケースもあります。こうなると、もはやトレードマークではなく、「文字」とみなされるべきでしょうし、このような「文字」を漢字と考えても差し支えないでしょう。漢字を素材としているのですから。
いまでも使われているかどうかは知りませんが、以前、学生が「广」に「K」「O」を組み合わせて、それぞれ「慶」「応」の代わりに使っているのを見たことがあります。このような奇抜な俗字も結構あるかもしれません。
また「○の中に優」や「○の中に福」などというのも文字とみなせないことはないように思います。
このように、漢字は今後も増える可能性があります。もっとも、ここで紹介したような変わった字が広まることはないでしょう。しかし、せまい範囲であれ、実際に使われたという事実は永遠に消えないのですから、これらも文字として登録される資格があるのではないでしょうか。ですから、漢字を網羅しようとしても、イタチゴッコとなり、いつまでたっても完璧なものにはなりえないことも考えられます。
3.漢字擁護論者も実は漢字制限論者
2で見てきたように、漢字は増殖するものです。このことは、漢字の大きな特徴のひとつです。漢字の「生命力」の一部なのです。とはいっても、現実には個人が新しい字を作る、ということは、しにくくなっています。印刷機器やコンピューターなどに乗りにくい、ということもありますが、一番の理由は社会がそれを受け入れない、ということです。ですから普通は、遊びで新しい漢字を作ったりすることはあっても、それを実際に使おうなどとは考えないのです。
漢字擁護論者は、漢字を便利なものだと主張しています。ならば、その便利な漢字が時代の変化に応じて増えていくのは望ましいことのはずです。また、かれらが漢字制限に反対する論拠のひとつは「表現の自由」であったはずです。新しい字を各自の好みによって好きなだけ作る。これこそ「表現の自由」の極致ではありませんか! であれば、かれらは新しい漢字作りを奨励してもよさそうなものです。ところが、実際には、かれらは、新しい漢字を無制限にドンドン作れ、などとは言いません。そんなことをしたら日本語の表記がよりコントンとしたものになってしまうことが分かっているからです。
かれら、国語改革に反対する勢力は、漢字廃止論に対してはもちろん、漢字制限の主張に対してすら「漢字を殺そうとしている。」などと言って激しく攻撃します。しかし、かれらが擁護しているのは、「すでに存在している(過去に作られた)漢字を使う自由」であって、「これから新しく字を作って使う自由」ではありません。つまりかれらも立派な漢字制限論者なのです。かれらも漢字の生命力の一部である増殖能力を「殺す」ことを容認しているのですから。
4.人間の使える文字は有限
現在では、漢字の増殖能力が生かされていない、ということについて、具体的に例をとって考えてみましょう。
「犬」や「馬」が「常用漢字表」に入っていて、「兎」や「鼠」が入っていないのは不当である、と非難して、常用漢字を増やすべきである(もしくは、「常用漢字表」を廃止すべきである)、と主張する人々がいます。しかし、「パンダ」や「コアラ」が漢字で書けないのは不当である、という主張は聞きません。本当に漢字が日本語にとって必要不可欠なものであるならば、「パンダ」や「コアラ」についても、それらを表わす漢字がなければならないでしょう。
中国語にならえば「パンダ」は「熊猫」となります。日本人の感覚では「パンダ」と「猫」のイメージは結びつかないでしょうし、生物学上の分類もネコ科ではありません。ほかにも2字以上の漢字を組み合わせて造語することが考えられるでしょうが、この個性的で誰でも知っている動物のためには、新しい字を作って与えるのが、漢字を便利なものと考える人にとっては、もっとも合理的なはずです。しかし、それが不可能であることは、だれにでも分かります。
生物の種の数は億を超えるとも言われています。それらひとつひとつに字を与えて、かつ実際に使っていくことなど、人間の能力ではできることではありません。「パンダ」だけに特権を与える理由もないでしょう。
一方、「コアラ」は、中国語では「考拉」と表記します。これは音訳ですから。漢字であっても表音文字として使われているのであって、日本語の「カタカナ語」に相当します。つまり「コアラ」という表記と同じことです。オトをそのまま表わす。これでいいのです。カナという便利な表音文字を持つ日本語では、漢字など使わずにオトそのものを書き表わすのが、実際的であり、かつ合理的なのです。実際、「パンダ」「コアラ」といった表記でなんら問題は生じていません。
「パンダ」や「コアラ」を表わす漢字がなくても済んでいるのですから、「兎」「鼠」が常用漢字でなくても問題はないのです。「ウサギ」「ネズミ」と書けばいいのです。さらに言えば、常用漢字になっている「犬」「馬」も「イヌ」「ウマ」でなんら差し支えありません。
この地球に億もの種の生物が存在するのに、実際に生物のために使われている漢字は数百程度にしかすぎず、それで用が足りている、ということは、漢字がゼロでも済むということに等しいのです。
このことは、生物だけでなく、あらゆる事物について当てはまることは言うまでもありません。無限ともいえる事物を書き表わすのに、わずか数十字の表音文字で間に合うのです。
5.コンピューターを使うのは人間
コンピューターの話にもどりましょう。
はたしてコンピューターは漢字を征服できるのでしょうか? 2で、漢字を網羅しようとしても、イタチゴッコになるのではないか、と述べました。しかし、次のように言うことができるかもしれません。新しい字を見つけたら、ただちに登録ができ、かつ、同時に使うことができる、というようなシステムさえできれば、答えは「しかり」である、と。
とはいいながら、コンピューターは、人間が使って初めて意味があるものです。コンピューターが漢字を征服した、すなわち、コンピューターがすべての漢字の使用を可能にした、としても、すべての漢字を日常的に必要とする人はいないし、使える人もいません。
現在の日常生活での日本語表記についていえば、文字は社会の共有財産であるといえます。だれもが、使えるものでなければなりません。用いることのできる漢字の数に限度があることは明らかです。
このことは、コンピューターを使う、使わないにかかわらず、すでに述べてきたように、本来、増殖能力を持つ漢字を去勢することによって現在の「漢字文化」が成り立っている、という事実が示していることでもあります。新しい事物に対して新しい漢字を与える、という過去には行なわれて手法を今は用いることができないのです。
そして、新しく字を作ることが許されない、それでも支障がない、ということが示唆することは、すでに存在している(過去に作られた)漢字の必要性についても疑いをいだく余地があるということです。
コンピューターがどんなに多くの漢字を使える能力を持ったとしても、それを使うのは、現在のそして未来の人間です。過去の文化遺産に関して必要な漢字がすべて使えることは理想でしょうが、今の、そして、これからの日本語のあり方について思いをいたすことも大事なことではないでしょうか。
(『カナノヒカリ』 916、917ゴウ 2002ネン ナツ、アキ)(一部書き改めた。)
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