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カタカナ()がはびこるのは漢字(かんじ)制限(せいげん)のせいか
キクチ カズヤ 
1.「カタカナ語」問題を利用した漢字制限への攻撃
 昨年〔1995年〕11月28日読売新聞朝刊に「対立討論『ら抜き』とカタカナ語」という記事がのった。これは、国語審議会が中間報告で「ら抜き言葉」や「カタカナ語」のハン濫に対し、これを抑える姿勢を示したことについての水谷修国立国語研究所所長と大野晋学習院大学名誉教授のふたりの専門家の意見をまとめたものである。
 「ら抜き言葉」については、水谷氏は、「言葉は社会的なものであると同時に個人のもの。規制は難しい」としながらも「一定の基準は大切」と主張するのに対し、大野氏は「流れを逆転させるのは不可能だと思う。日本語の変化の流れに沿った動きだから」としている。
 「カタカナ語」については、水谷氏が(「漢字制限は造語力衰退に関係があるか」との問に対し)「漢字制限が漢語の造語力を弱めたのは事実だろうが」「当時の改革は(中略)共通財産としての言葉を用意するという意味では貢献した」と国語改革を評価するのに対し、大野氏は「戦後の当用漢字1850字は漢字漢語を殺す目的で、その第一段階として作られた」との認識を示し、「漢語の衰退で(外国語を)訳しきれなくなり、生で入れるようになった」「日本語最大の問題は戦後の漢字制限であり、カタカナ語の氾濫はその結果だ」という。
 漢字制限が「カタカナ語」のハン濫の原因だという主張は、漢字擁護派の人々により繰り返しなされ、漢字制限に対する攻撃の材料にされてきた。しかし、このような主張には根拠があるのだろうか。

2.「カタカナ語」は、戦前から使われていた
 まず指摘しておきたいことは、「カタカナ語(ヨーロッパ語系外来語)」といわれるものは戦前から、つまり漢字制限が行なわれる前から数多く使われていた、という事実である。
 たとえば、バター、チーズ、レコード、トラック、ピアノ、バイオリン、ビール、ボ-ト、ダンス、ペン、コンサート、ストライキ、エチルアルコール、サーベル、カメラ、モダン、エレベーター、ライオン、モーター、ドラマ。これらは、みな戦前から使われている「カタカナ語」だが、いずれも、乳酪、乾酪、音盤、貨物自動車、洋琴、提琴、麦酒、短艇、舞踏、洋筆、演奏会、同盟罷業、酒精、洋剣、写真機、現代的、昇降機、獅子、発動機、演劇と漢語で表わしうるものである。(その多くは、現在の常用漢字にも取り入れられている、やさしい漢字であることにも注意していただきたい。)外国語を新しい漢語を作って訳すのではなく、そのままカタカナで表わす、というのは漢字制限が行なわれていない時代から広く見られた現象なのである。つまり、漢字制限が「カタカナ語」のハン濫の原因である、などというのは、まったくの見当違いなのである。

3.制限漢字でも十分造語はできる
 「しかし、カタカナ語は戦後になって増える勢いが増したことも事実である。これについては漢字制限が多少なりとも影響しているのではないか」と思う人がいるかもしれない。
 では、戦後現れた「カタカナ語」について、それらが漢字制限によって漢語作りが妨げられた結果生まれたものであるか否かを考えてみよう。
 思いつくままに比較的新しい「カタカナ語」と漢語の訳語をあげてみる。
 マルチメディア:複合媒体、バイオテクノロジー:生物工学、リストラ:再構築、インフラ:経済基盤、アニメ:動画、ワープロ:文書作成編集機、コミュニティ-:地域社会,共同体、アイデンティティー:自己同一性、ユーティリティー・ビークル:多目的車、トライアスロン:三種競技、キャッシュ・ディスペンサー:現金自動支払機、バーチャル・リアリティー:仮想現実感、エイズ:後天性免疫不全症候群、アメニティー:快適度、シンセサイザー:電子音合成装置、パートタイマー:非常勤勤務者、フリーズ・ドライ:凍結乾燥、エアコン:空気調節装置、スプリンクラー:散水装置、フォーラム:公開討論会。
 必ずしもすべてが適切な訳語ではないかもしれないが、大概の場合、常用漢字の範囲で表わしうることはお分かりのことと思う。わざとそういうコトバだけを選んだのだろう、とお疑いになる方はご自分で試してご覧になるとよい。
 仮に漢字制限を緩めて、使える漢字を2倍にしたとすれば、漢字2字で造語するとして、作りうる漢語は4倍になり、ずっと漢語を作りやすくなる理屈ではある。しかし、実際には、当用漢字や常用漢字は使われる頻度を考えて選ばれたのだから、それだけでも大概の場合間に合うのである。それに、常用漢字2字の組み合わせだけで、3,783,025とおりもあるのである。
 戦後 「カタカナ語」がますます数を増したのも漢字制限のためとはいえないのである。

 それでも、適当な字が制限漢字(当用漢字、常用漢字)に見当たらなくてやむを得ずそのままカタカナで使ったケースがまったくないと断言するわけではない。しかし、そのような場合があったとしても、制限漢字の範囲で漢語を作る工夫を尽くしたのか、という疑問が残る。たとえば、「蹴」という字が制限漢字にないから「蹴球」という漢語が使えない、というのなら、代わりに「football」をそのまま翻訳して「足球」とすることもできるだろう。「足球」なら中国語とも一致するし「soccer」とオトも似ているから良いと思うが。

4. 日本語の本当の問題
 上に見てきたように、漢字制限のために漢字の造語力が衰退して、それが「カタカナ語」のハン濫の原因になったのではない。別の原因によって外国語が好まれるようになり、漢語に訳す意欲が衰えたのである。
 それは、ヨーロッパやアメリカとの文化的、政治的交流から生まれた現象である。そして、もう一つ見逃してならないことは、日本人の母語に対する自覚のなさである。
 奈良、平安時代われわれの祖先は、単に漢字、漢語を受け入れるだけではなく、それをヤマトコトバに訳そうと努めた。つまりヤマトコトバで造語を行なったのである。が、やがて漢語のみが 貴ばれ、ヤマトコトバは軽んじられるようになり、脇役の立場へ追いやられた。明治時代盛んだった、外国語の漢語による翻訳がやがて廃れ、外国語をそのまま使うようになったのも、これに似ているかもしれない。
 しかし漢字は、「カタカナ語」よりはるかに深刻なダメージを日本語に与えた。日本語の伝統を損ない、表記をおそろしく不合理で複雑なものにし、話しコトバとしての力の乏しいものにしてしまった。このことこそが日本語にとって、最大の問題なのである。

 (『カナノヒカリ』 880ゴウ 1996ネン 7ガツ)(一部書き改めた。)

(このページおわり)