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ことばが みえない
編集部 
 言語学者の田中克彦さんが いつかNHKの放送番組のなかで,たとえば「みなもと」とか「みなと」ということばに「源」とか「港」とかの漢字をあてたのでは「みなもと」や「みなと」の ことばの意味がわからなくなる。「みなもと」は「みずのながれのもと」であり,「みなと」は「みずのあるでいりぐち」で,漢語の「源」や「港」では ことばが みえなくなる というような ことを いわれた。そのとおりで 表語文字の漢字で わたしたちの国語をかいていたのでは わたしたちは いつのまにか 国語をみあやまって しまう。したがって漢字では ほんとうの国語教育は できないのである。文字をつかうなら かなや ローマ字のような単音文字でなければならない。おなじ漢字をつかっても「みなもと」を「水本」,「みなと」を「水門」とかくならば ことばのすがたを みまちがうようなことだけは さけられる。
 国語の「ほほえみ」は「ほほがえむ」のであって,漢語の「かすかなわらい」「微笑」ではないのである。だからこんな漢字をあてて「微笑み」とかいたのでは ほんとうのことばが みえなくなる。だから かなでかくべきだが どうしても漢字をつかいたい というなら せめて「頬笑み」とでも すればよい と かいたのは ひにくのつもりである。
 「筍」を「竹の子」,「茸,菌」を「木の子」,「鶏の卵」を「庭鳥の玉子」,「茜」を「赤根」,「認める」を「見止める」,「顧みる,省みる」を「返り見る」とでもかけば,ことばがみえなくなる ことだけは さけられるが,漢字の わざわいは のこる。

 (『カナノヒカリ』 734ゴウ 1983ネン 9ガツ)

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