◇『カナモジ論』:1971年5月1日(財)カナモジカイ発行
マエガキ
第1章 国字問題とは(抜粋)
第2章 文字とコトバの関係(全文)
第3章 歴史に学ぶことがら(全文)
第4章 カナモジカイの誕生とその主張(抜粋)
第5章 これからの進路(抜粋)
ことばは、最も 民族的な 文化財で ある。民族の 心 そのもので ある。人と 人を むすび、国を ひとつに する のも、ことばの はたらきで ある。
けれども、ことばが その ように やくだつ ため には、国民 みんなが ことばを たいせつに する ことを 心がけなければ ならない。
ところが、日本人の 多くは、日本の ことばが 漢字に 毒されて いる ことに ついて まことに 無関心で ある。そして 漢字を いたずらに ありがたがって いる。
われわれの 先祖たちは、漢字を 通じて 大陸の 文化を とりいれる ことに つとめた。そのいさおし は 大きい。また、その こと から 漢字を たかく 評価する ように なった のも しぜんの なりゆきで ある。しかし、今日の 時代に、まして 将来も また おなじ かんがえに とらわれて 日本語 そのものが そこなわれて いる ことを かえりみない よう では、とても りっぱな 民族 としての 結びつきを のぞむ ことが できない。
ただに 精神 だけの 問題では ない。漢字の ために、日本の 教育が どんなに 大きな むだを して いるか、また 国民の 知的水準を たかめる のに 漢字が どんなに さまたげに なって いるか、はかりしれない ものが ある。
さらに、能率の 方面の ことを 指摘しなければ ならない。日本の 事務の 非能率ぶりは まさに 前世紀的で ある。その 欠点を いわゆる 人海戦術に よって おぎなって いる と いう のが 実情で ある。
これらの 不合理を なく する ため には、漢字を 国民 日常の 生活の なか から 引退させなければ ならない。この ことは 明治の はじめ から 多くの 先覚者に よって となえられ、また 運動も おこなわれて きた。しかし、久しい 因習を よういに 改めさせる ことが できなかった。
カナモジカイ は、よこがきの カタカナを 将来の 国字と する ことを めざして 1920年に 創立された。その 当時は これは 空論だ と おもった 人が 多かった。それから 昨年で ちょうど 50年で ある。 長い 年月 と いえば 長いが、運動の 効果は 地下水の ように ひろまり、国の 国語政策をも、社会の 用字法をも 大きく うごかして きた。
しかし、理想は まだ ほど遠い。この 大事業を なしとげる ため には、なに よりも、できるだけ たくさんの 人々の 理解と 協力を もとめなければ ならない。
この 本は、その 趣旨から、国語・国字問題の 本質を、その 実態と 歴史的事情から ほりさげ、カナモジ論の 論拠と カナモジカイ の 運動経過を 述べ、さまざまの 反対論や 質問に 答えた もので ある。 できるだけ 多くの 人に 読んで いただきたい。
カナモジカイ の 名で 発表するが、執筆に あたった のは、同志として ながく この 運動に 奉仕して いる マツサカ タダノリ君で ある。ここに しるして 謝意を 表する。
1971年 4月
財団法人 カナモジカイ
会長 イトウ チュウベイ
国語を書きあらわすのには、一般に、漢字とカナが使われている。カナは、カタカナも、ひらがなも、日本で作った文字であるが、漢字は中国から伝えられたものである。
漢字は、非常に数が多い。大きな字典には5万字ちかくも集められている。当用漢字でさえ、1,850字もある。数が多いために、おぼえるのに非常な努力をしなければならない。なかなかおぼえられないために、書きまちがえたり、読みまちがえたりする。そのうちに誤りのほうでなければ通用しなくなった例も、少なくない。
漢字の悩みは、中国にもある。しかし、中国よりも、日本のほうが、悩みは何倍も深刻である。漢字はもともと、中国の1語1語に1字ずつをあてはめて作られた文字である。それだから、中国人が使うのには、コトバと文字とが一致しているので、まようことがない。一つの文字は一つのコトバしかあらわさないから、読み方も一定している。
ところが、日本語は、もともと中国語とはまったく系統のちがうコトバである。そういう系統のちがうコトバを、しいて漢字であらわしているのであるから、いろいろのムリができるのは当然である。そのことはまず、漢字の読み方にあらわれている。日本では、たとえばこの「日本」が「ニホン」か「ニッポン」かわからない。「本日」では「日」の字を「ジツ」と読まなければならない。「日の丸」では「ヒ」と読み、「一日」では「タチ」、「二日、三日」では「カ」と読む。「春日」では「ガ」になる。「明日」は「ミョウニチ」なのか「アス」なのか「アシタ」なのか、わからない。「百日紅」(サルスベリ)や「向日葵」(ヒマワリ)のようなのにいたっては、まるで判じものである。
漢字は、読み方がむずかしいだけではない。同音語というヤッカイなものも、その多くは漢字から生まれている。そして、その悩みもまた、中国とは段ちがいに、日本のほうが深刻である。
たとえば、「市立」と「私立」は、耳では区別がつかない。「科学」と「化学」も、「講演会」と「後援会」も、「帰港・寄港・貴港」なども、すべて耳では区別がつかない。こういう「同音語」には、「橋」と「箸」のような和語のものもあるが、和語の同音語は、たいていアクセントで区別がつく程度の数に限られている。
中国語にも同音語はある。しかし、中国語の発音は日本語にくらべると非常に音韻(発音の基本になる単位)の種類が多く、アクセントの種類も多い。日本語は、音韻がきわめて少なく、アクセントも単純である。そのため、中国の本来の発音上の区別が、日本では極度に単純化され、中国とは比較にならないほど多くの同音語ができてしまった。
それらの、くわしいことは、第2章で改めて述べるが、日本では、漢字を見なければ区別のつかない漢語が多くなったのも、当然のなりゆきである。ところが世間には、「同音語は漢字を見れば区別がつくから、漢字はすぐれた文字だ。」と思いこんでいる人が多い。これは、考え方が逆である。ことに、文化が進めば進むほど、電話や、ラジオや、テレビや、スピーカーを通して多くの人に呼びかける方法など、音声を電波で伝える機会が多くなる。そういう伝達法にさしつかえる同音語というものは、文化国家のコトバの資格がないといわなければならない。日本語の中に、そうした同音語がむやみに多いのは、おもに、漢字を使っているから生じたことなのだ、ということを知らなければならない。漢字が同音語の区別に役だつといって、それを漢字の長所だと思うのは、ちょうど、中毒患者が、中毒の原因になった毒を有益なものだと思うのに似ている。
漢字にワザワイされている日本の文字のあり方を、どうするか、という問題を「国字問題」といっている。そして、この問題は、当然、日本語そのもののあり方にも関係してくるので、その意味をふくめて「国語国字問題」ともいわれる。さらに、単に、「国語問題」というコトバで、国字のことをもふくめていうこともある。
国語問題としては、方言と標準語をどのように調整するかという問題や、敬語のことや、外来語や流行語の問題もある。しかしこの本では、これらの方面のことにはふれない。
書きコトバの問題としては、漢字をどうするかという問題とならぶ大問題として、というよりも、戦前には漢字問題以上に激しい論争がくり返された、カナヅカイ問題がある。戦後、現代かなづかいが制定されて、これはいちおう解決した形になっているが、しかし、いまもなお、旧カナヅカイにあともどりさせようとする運動がつづいている。
つぎに、送りがなの問題がある。1959年(昭和34年)に「送りがなのつけ方」という内閣告示がでて、これもいちおう解決した形になったが、しかし、送りがなには人それぞれに意見があって、現代かなづかいが広く実行されているようには統一されていない。また、その一つのあらわれとして、国語審議会は1970年(昭和45年)になって、この告示を大はばに改める案を発表した。
送りがなの問題は、カナの使い方の問題ではあるけれども、送りがなというものは、和語に漢字をあてて書くことから起こる問題であって、本質はむしろ漢字問題の一部である。たとえば「明きらかに・明らかに・明かに・明に」のどれがよいかという議論も、はじめからカナで「あきらかに」なり「アキラカニ」なりと書けば、何も問題がない。
完全に成功したと見ることのできる運動の一つに、口語体運動がある。これは、明治の中ごろに「言文一致運動」として起こり、しだいに広まっていったものであるが、法律文などは、戦後になってようやく口語体を用いるようになった。いまもなお、短歌や俳句などの趣味的な方面には文語体が用いられているが、実生活の面からは、文語体はすっかりスガタを消してしまった。
書きコトバの問題としては、なお、タテ書きか、ヨコ書きかという問題がある。戦前は、特殊の文書のほかはタテに書いており、ヨコに書くばあいは右から左に進むのが正式とされていた。戦時中は、新聞広告さえ左からのヨコ書きは禁止されたものであった。
今日は、公文書や学校の教科書も、あらましヨコ書きになっているが、新聞記事をはじめ、まだタテのものもたくさんある。この現状をどうするかということは、国字問題の一つの課題である。
しかし、なんといっても、これからの国字問題の中心課題は、漢字をどうするかということである。とくに、国民一般にとっては、教育上の問題が深刻である。
西洋諸国で一般に使われている文字は、30字前後のローマ字である。韓国のハングルや、東南アジア諸国に行なわれている文字なども、数十個の字種を、表音的に用いる方式である。
字種はわずかでも、それを組みあわせる方式が複雑であれば、それだけ学習の負担になる。たとえば英語の、「夜」の“night”と、「騎士」の“knight”は、同じ発音なのにつづりがちがい、しかも、それぞれにサイレントがある。したがって、字種の数をそのまま学習負担の目やすにすることはできない。しかし、日本の国民教育のように、文字の学習に追いまくられている国、しかも、社会生活に必要な文字能力は、大学まで進んでもなかなか、身につけられないというような国は、世界中、どこにもない。
戦後、当用漢字1,850字とともに、この中から、「義務教育の期間に、読み書きともにできるように指導すべき漢字」として、881字が、「教育漢字」として制定されたことは、大きな前進であった。
戦前は、6年間の義務教育のあいだに、読み書きを要求されていた漢字は、年により多少のちがいがあったが、大体1,350字前後であった。戦後は、9年間に881字になったのであるから、戦前にくらべると思いきり負担が軽くなったわけである。字体も、新字体となって学習しやすくなった。
しかし、学習しやすくなったというのは、戦前にくらべればということである。いまも、依然として、漢字学習は国民教育の最大の負担になっている。戦前の教育を受けた人たちは、学校で、どんなに漢字の学習に力を注がされたか、さらに家庭でも、書きとりの宿題にどんなに時間をかけたかを、まだおぼえているだろう。が、現在は、そういうことはなくなっていると思ったら、それは思いちがいである。そういう学習生活のすがたは、昔も今も変わっていない。そのことは、おたがいの身近の中小学生たちの日ごろの学習生活のようすを見れば、よくわかる。
ただし、戦後の国語政策の効果は、はっきり現われている。戦前は、6年間の小学校教育で、書けるようになる漢字が、全国平均で500字。受験競争のはげしい東京で600字というのが、平均であった。これについては、カナモジカイが1935年(昭和10年)に行なった、ぼうだいな調査報告がある。(当時は、中学校に進むのには入学試験を受けなければならなかった。)
今日は、東京都の、中学入学直後の、学力中位の男女8名について、1964年(昭和39年)に、国立国語研究所が行なった調査では、教育漢字を、平均、695字、ほかに教育漢字外の当用漢字を、平均、171字書いている。
戦前よりもよくおぼえるようになった原因は、二つある。一つは、新字体のおかげである。もう一つは、当用漢字のうち、書きとりさせるのは教育漢字に限定し、残りの969字は、読めさえすればよいことにして、精力の分散を防いだことである。(1968年からは、書きとり漢字が115字補足された。)
しかし、現在の制度においても、要求されている字の中のあるものは、おぼえきれずに残されてしまう。学習負担という点は、戦前とすこしも変わっていない。(戦後の大学生の漢字の力の乏しさを見て、これは戦後の漢字教育の罪だという人もあるが、それはちがう。戦後の大学生の数は、戦前の20倍になっていて、そのため、漢字に限らずあらゆる学力が低下しているのである。戦前と戦後の、同じく6年間の小学生の結果を比較してみれば、戦後のほうが、以上のように、戦前の成績を大きく引きはなしている。)
漢字の書きとり能力というものは、ふつうは、たとえば「ヤマ」というコトバを「山」という漢字で書くことのできる能力だとされている。ところが、事実はもっと複雑な条件をともなっている。
1965年(昭和40年)に文部省が行なった、全国学力テストの中で、中学2年生と、中学3年生に対して教育漢字についての書きとり能力を見るために出題した中に、2年生と3年生に共通の問題が5題あった。すべて、すでに小学生のときに書きとりの学習をした、教育漢字の中の字ばかりである。
ところが、その結果は、半数以上の生徒が正しく書けたのは、つぎのように、第4問の「確」の1字だけであった。数字は正答の百分率である。
第1問 その後のしょうそくが知りたい。(正答「消息」)
2年生 20.9 3年生 29.0
第2問 病後のせいようをした。(正答「静養」)
2年生 16.3 3年生 22.8
第3問 親切におうたいする。(正答「応待」)
2年生 27.1 3年生 29.7
第4問 事実をたしかめる。(正答「確」)
2年生 59.6 3年生 69.1
第5問 努力したこうかが現われてきた。(正答「効果」)
2年生 34.6 3年生 48.2
求められた漢字は、9字である。そして、その中の8字までは字音で求められている。和語は「確」の、ただ1字である。そして、その、1字の和語だけが、半数以上の生徒に書けている。これは、決して偶然ではない。
「タシカ」という和語に、訓読を与えられている漢字は、「確」という字だけである。それであるから、この発音と、この字とを結んでおぼえておれば、この漢字は書ける。ところが、他の8字は、どの字も、それとおなじ発音の漢字がいろいろある。教育漢字という、限られたワクの中にも、たとえば「消息」を求められた第1問には、「ショウ」には「小・少・承・招・昭・正・消・照・焼・生・相・省・称・章・象・賞」の16字がある。「ソク」は、これほど多くはないが、「側・則・息・測・足・速」の6字がある。ほかの問題の「せいよう・おうたい・こうか」にも、すべて、同音の漢字がたくさんある。したがって、たとえば「火をけす」という出題だったら正しく「消」の字が書けても、それだから、「消息」という漢語も書けるとは限らないのである。裏がえしにいえば、第4問は「たしかめる」であったから「確」の字が書けたけれども、それでは「せいかくに計算する」などの字音の問題でも正しく書けたかどうかは、はなはだ疑わしいと考えなければならない。
この点は、さらに深く考える必要がある。たとえば第1問の「消息」を、「承息」と答えたり「消速」と答えたりした生徒があったとしたら、かれらは、このコトバを知らないと評価すべきか。もし、かれらがこのコトバを、音声として耳に聞いて、その意味を正しく理解することができるとしたら、「このコトバを知らない」と評価するのは不当である。げんに、おとなの社会生活においても、耳に聞いても理解できるし自分でも正しい用法で口に語る漢語でありながら、しかし、漢字で書けと要求されても書けないものが、いくらもある。「いんぎん・はつらつ・けんらん」など、相当の知識人でも、口にはするが書けない。こうした例は、ほかにもたくさんある。そうすると、いったい書きとり能力というものは何かという根本問題につきあたる。が、そのことについて考えるまえに、漢字教育そのものについて、さらに別の角度からふれる。
漢字は、むずかしくて、学習上の負担が大きいという言いぶんに対して、むずかしいものを学習することが教育だという反論がある。
むずかしいものは教えないことにするのが教育の合理化だというのではない。どんなにむずかしくても、教えるに価するものは教えなければならない。漢字はどうか。現代の社会生活に困らない人間を作るためには、ある程度の漢字はおぼえさせなければならない。教育は、実社会の実態と足なみをそろえて進めなければならない。しかし、それとともに、教育は未来を作る仕事である。だから、つねに、20年さき、30年さきを見とおし、よりよい時代を作るための目あてから割りだして計画されなければならない。国字問題と教育とは、こういう関係において結びつくべきものである。
「むずかしい学習」の中には、そのむずかしさによって、より深い真理を知ることのできるものもある。高等数学の多くは、実生活に直接に役だたなくても、そういう意味で効果がある。
また、こういう問題もある。小学生には、クジラは魚類だといって教えるほうが、おぼえさせやすい。しかし、それは真理を否定するものとして、許されないことである。そのことは、理論によってなっとくさせることができる。また、それが教育のタテマエである。
それでは、「漢字のむずかしさ」は、教育上、どのような立場になるものだろうか。たとえば、いまの例の「クジラ」は、漢字で「鯨」と書く。なぜ、魚類でないのに魚ヘンに書くのかという疑問が、当然にでる。「昔の人は、クジラは魚類だと思ったからだ。」と説明する。それも一つの知識にはちがいないが、しかし、昔の人が思いちがいして作った字を、なぜ今日もそのまま受けつがなければならないのか。昔、殷(イン)の軍隊は、行軍するときには人間の首をイケニエにして道に供えた。それだから、「道」の字は首にシンニュウを書く。しかし、なぜ、それだから、今日の日本でもそのままの字形を用いなければならないか。そうした字原の問題は、しばらくおくとしよう。しかし、中国語と日本語の造語上のくいちがいから起こる問題はもっと直接的である。たとえば、名詞の「光」も、動詞の「光る」も、おなじ漢字で書くのに、なぜ「雲」と「曇る」は別の字で書かなければならないのか。あるいは「喜ぶ」と「喜ばしい」はおなじ字で書くのに、なぜ「急ぐ」と「忙しい」を、別々の字で書かなければならないのか。げんに、子どもらはよく「雲る」とか「急がしい」とか書く。それを、教師は誤りとする。また誤りとしないわけにはいかない。なぜ誤りになるかということは、漢字の用法においては、中国語の造語法が、日本語の造語法に優先するという、属国のような情けないキマリに支配されているからなのである。
こうした、両国語の食いちがいの例は、ごくまれだと反論されるかもしれない。このような、品詞の食いちがいの例はそんなに多くはない。しかし、用字法のうえで、もっとやっかいな「異字同訓」は非常な数にのぼっている。これらの問題については、第2章で改めてくわしく述べる。
さきに紹介した、文部省の全国学力テストのときには、漢字の読み方の問題も出た。つぎに、中学3年生に対して行われた問題と、その正答率を紹介する。「文中の傍線のついた漢字の読みかた」を、ひらがなで答えるもので、問題は全部が当用漢字であり、このうち「転・当・健・商・円・除」は教育漢字である。
第1問 話題の転換をはかる。……………………59.0
第2問 この条件に該当している。………………11.2
第3問 剛健の気風をやしなう。…………………43.7
第4問 雑貨を商っている。………………………22.7
第5問 会議を円滑に進行させた。………………57.1
第6問 多くの障害を排除した。…………………64.8
第7問 悔恨の情にせまられた。…………………19.8
第8問 台風は猛威をふるった。…………………51.6
第9問 仰ぐと、夜空に星が輝いている。………82.4
第10問 道路を舗装する。…………………………78.4
誤った答えが、どのように誤ったかは、発表されていない。しかし、この種のテストの例から、およそ推しはかることができる。第4問の「商って」は、「商店」とか「商業」とかの問題であったら100点近い正答率になったろう。しかし、今では古語になりかかっている「アキナウ」というコトバは、「商」という漢字をいくら見つめてもでてこない。それで、このように、みじめな結果になったのである。漢語なら、漢字の多くは形声文字なので発音のヒントを含んでいるが、和語で読むばあいは、そのヒントは役にたたない。
それでは、形声文字のヒントは漢語の読み方につねに役だつかというと、かえって、しばしば、それがアダになる。第2問の「該当」は最下位であった。「刻」や「核」の字から想像して「こくとう」とか「かくとう」とか答えた生徒がたくさんあったにちがいない。これと同じことは、「該当」のつぎに正答率の低い第7問の「悔恨」にも考えられる。「悔」の字を「毎」や「梅」から想像して、「まいこん」とか「ばいこん」とか答えた生徒が多かったのだと思う。「海」から「かい」をマグレあたりにあてた生徒もあったろう。
文字の役目はコトバを伝えることである。漢字はこの役目をつとめることができない。それは勉強不足の人間の罪だと反論する人があるかもしれない。しかし、中学3年生になっても、このようにしか読めないという事実から、国字としての資格のほうが問われなければならない。
のみならず、これは、じつは中学生だけの問題ではない。たとえば「消耗」は「ショウコウ」なのに「ショウモウ」にされてしまった。「蠕動」は「ゼンドウ」なのに「ジュドウ」だの「ダドウ」だの言われている。「甘蔗」は「カンシャ」なのに「カンショ」と読み誤った結果「甘藷」と区別がつかなくなってしまった。「情緒」を正しく「ジョウショ」と言うと「ジョウチョの読み方を知らないのか」と笑われる。
漢字では、コトバを正しく伝えることができない。ということの最も大きな原因として、音と訓とが、かってに読みかえられ、また、1字に二つ以上の訓があるものがたくさんあることを指摘しなければならない。「春秋」は「ハルアキ」か「シュンジュウ」か、読んでもらいたい読み方を伝えることができない、というような例は、かぞえきれないほど多い。それで、どちらに読んでも、意味さえ通じればよいという考え方が一般に行われているのであるが、これでは「文字」という資格がない。第3章で説明する「原始文字」の一種であるといわなければならない。
「未だ宵ながら松立てる門は」は、尾崎紅葉の「金色夜叉」の書き出しである。この最初の「未だ」は、「マダ」か「イマダ」か。「山路を登りながら、かう考へた。」は、夏目漱石の「草枕」の書き出しであるが、「山路」は、「ヤマジ」か「ヤマミチ」か。「国境の長いトンネルを越えると雪国であった。」は、川端康成の「雪国」の書き出しであるが、この「国境」は「コッキョウ」か「クニザカイ」か。世の中には意味だけわかればよいというような文章もあろうが、文学はことばの芸術である。1音もおろそかにすべきではない。それなのに、大文豪の代表作の、最初のことばさえ、このありさまである。
かつては、中国の文献を学ぶことが学問の中心であった。そういう時代には、意味さえわかればよいと考えるのは、やむをえないことであった。そのナラワシが根を張ったまま今日にいたっているのである。国語をたいせつに考える立場から、これは許されることではない。
国立国語研究所では、全国から、地域事情を異にする中学校6校をえらび、その全生徒に、コトバの意味の理解力を調べる試験を選択枝法によって行なった。(昭和37年度国立国語研究所年報)
正答率は、「正攻法」が最高で74.7であるが、「物色」は35.2。「着服」が28.2。「私語する」は、わずか6.9であった。
漢字は、それぞれに意味を持つ。いわゆる「表意文字」である。それだから、漢字で書けばコトバの意味がわかるということが、漢字の長所である、と、一般に信じられている。たしかに、そういうばあいもあるが、このことは、そのために意味を取りちがえるという短所にもなっていて、さしひきすると、長所と言い切れるものではない。このテストの例でいえば、漢字の意味から判断するとしたら、「物色」は「物の色」であり、「着服」は「服を着ること」であろう。
「私語する」に対して示された選択枝は、つぎのとおりであった。
1 ひそかに話をする。
2 自分から話しだす。
3 ひとりごとをいう。
4 自分でことばを作る。
たしかに、漢字の意味から判断すれば、どの選択枝も、もっともに思われる。この中で「1」が正解であるということは、単に、そのように決められているからである。「私」と「語」にそれぞれ意味があることは、かえってコトバの意味を取りちがえる原因になっているのである。
「善人・悪人・病人・本人」などは、それぞれ第1字が「人」を説明している。しかし「夫人」は、オットではなくてツマである。「人夫」はオットとは限らない。「通行人」と「通行者」はおなじ意味であるが「役人」と「役者」は意味がちがう。「使用人」と「使用者」は労使関係で対立する。
文字の意味から考えればこのように不合理なことが多いけれども、「夫人」以下の例は実用上はなにもさわりになっていないことも事実である。この事実にコトバと文字の本質が示されている。
いまここにあげた例は、すべて、多くの人が日ごろ使いなれているコトバばかりである。コトバは、使いなれると、たとえば「役人」は、この2字のカタマリが、意味を伝える信号になるのであって、一つ一つの文字の意味は無視される。それぞれの漢字の意味が、コトバの理解のサマタゲにならないのは、そのためである。そして、そのことは、逆に、それぞれの漢字の意味が、コトバの意味とピッタリ合っていても、そのことはコトバの理解に役立つのではないということの証明になる。これが「日ごろ使いなれているコトバ」についての事実である。
知らないコトバに出あったばあいは、事情がちがってくる。そのコトバは知らなくても、一つ一つの漢字の意味は知っているというばあいは、どうしても、それを手ががりにして判断するようになる。「物色」や「着服」や「私語する」について示された不成績は、そういう方法がどんなに不合理であるかということを教えている。
知らないコトバに出あったら、辞典にあたってみるなり、だれかに教えてもらうなりすべきである、というのは理想にちがいないが、しかし、それを義務づけるということは不可能に近い。
コトバの本体は、音韻によって組みたてられているものである。「ヤマ」も「やま」も「yama」も、「山」という漢字と同様に、おなじコトバを、別々の入れ物に入れて示しただけのことである。
文字は、コトバをあらわすのが役目である。しかしすでにいろいろの角度から見てきたように、漢字は、文字本来の役目をつとめるのに、多くの欠点がある。音韻を正しく表わすということは、カナやローマ字のような、「表音文字」でなければ望むことができないことなのである。
それでは、いますぐ漢字をやめてしまって、カナなりローマ字なりにすることができるか、というに、それは、できない。げんに、この文章にも漢字を使っている。なぜかというに、もし、この文章をカナばかりで書いたら、ぜひ読んでもらいたい人たちが読んでくれないだろう。
しかし、そういう事情があるからといって、それだから永久に漢字を使うべきだという理論もなりたたない。また、漢字には欠点が多いからといって、それだから漢字をボクメツすべきだと考えるのもまちがいである。漢字は、貴重な文化遺産である。
教育の面についていえば、国民教育としては、社会人としてさしつかえない程度の漢字は教えなければならない。ただし、実生活上に必要な漢字は、国語政策が望ましい形で進められるかぎり、年とともにその量が少なくなっていく。一方、古典その他の文化遺産の研究を専門にする人は、いっそう深く漢字の勉強をすべきである。書道などの趣味として漢字にしたしむことも、もちろん結構である。しかし、それらのことと、一般的な国民教育とを混同すべきではない。
事務の近代化は、これからも、いっそう進められなければならない。そのためには、漢字で示さなければ意味のわかりにくいコトバを改めることが大きな研究題目になる。おなじことは、音声言語を、電波で伝えることのできるものにするためにも必要である。今後の国語政策のたゆまぬ努力によって、国民みんなが、漢字にさまたげられることなしに、自由に、さまざまの知識・情報を知ることができ、自由に言論を取りかわすことができるようにならなければならない。
国字問題をどのように解決すべきかということは、都市問題の解決に似ている。無人の原野に都市を開くことは簡単である。しかし、すでに多くの人が住み、多くの建物や道路その他がある都市が、時代おくれになっており、さまざまの不都合を生じているばあい、その人々が住みながら、そして日々の活動をつづけながら、理想的な都市に改造するということは、むずかしい。そのむずかしさを賢明な手順、方法において、あえて乗り切らねばならない。
文字は、一日も中断させることのできない、文化の流れをになっている。さまざまの社会のしくみや個人の実生活、学問や芸術や、そのほかの、ほとんどあらゆる文化をささえ、受け継ぐ役目がある。国字問題を解決するためのすべての方策は、こうした文字の活動をすこしもさまたげることなしに行われなければならない。だだし因習をふり切るために、しのぶことのできる程度の、「切りかえの努力」は必要である。その程度の努力さえも惜しんでは、なにも期待することができない。
都市の改造を望ましい形で進めていくためには、合理的な計画とともに、市民が、自分らの町を愛し、そして未来に奉仕する精神が、大きな原動力になる。国字問題においては、この、「町を愛する精神」にあたるものとして「国語をたいせつにする気持ち」が求められる。それも正しい意味での「国語」である。「中国語」ではない。しかもそれは、神がかりの、いわゆる「コトダマ思想」ではない。未来の文化をになうことのできる国語である。
原則は、以上のようなものであるとしても、その具体的なあり方を、どのようにして打ちだすか、単に善意であっても、問題についての理解が不足であってはかえって努力が害をなすことともなりかねない。できるだけ視野を広げて、関係するさまざまのことを考えあわせなければならない。未開社会と文明社会とでは言語はどのようにちがうか。そして、それはなぜか。また、文字を用いるばあい、文字はコトバにどのような作用をするか。そして、それはなぜか。こうした基礎的な理解なしに、国語国字問題を論じてならないはずであるが、実情は、あまりにも、独断の論が多すぎる。いちおう、文字やコトバを知っているために、専門家の資格があるように、だれもが思いこみやすいようである。
世界には、さまざまの人種があり、さまざまのコトバが行われており、さまざまの国家がある。その中で、一つの人種が一つのコトバを用いて、一つの国家をつくっているのは、アフリカあたりのごく小さな国をべつにすれば、日本だけである。国家としてこれほど恵まれた条件はない。
一つの国家でありながら、人種やコトバがちがうために、国民どうしが二つに分かれて争いをくりかえしている例は、あちらこちらにある。とくに、コトバのちがいに原因する争いは深刻である。
ところが、日本人は、そのような経験がないために、国民全体が同じコトバを使っていることがどんなに幸福であるかということについての自覚がとぼしい。ちょうど、金持ちの子が金をそまつに使うように、コトバをそまつにし、コトバの質を悪くすることに無関心である。
さすがに、知識人の中には、国語愛護の精神の強い人もある。しかし、その人々の考え方には、国語愛護のあり方を取りちがえていると指摘しなければならないものが、少なくない。その、最も多いのは、昔のままのコトバや用字法を、そのままに用い、そのままに後世に伝えることが国語愛護の道だと考えるあり方である。この考え方にたって、国語が無法に乱されるのを防ぐことは有益であるが、しかし、この考え方は、改めなければならない点までがそのまま守りつづけられるという結果を生む。改める必要のない国語なら問題がないけれども、実態は、わが国語には多くの欠点がある。
この考え方の根本には、自分が習い覚え使いなれたコトバや文字であるから、より多く覚えた人ほど、より強い愛着を感じるという人情からくるものがある。自分が育った故郷の山河に愛着を感じるのと似た心理である。そこで、国語の長所をも短所をも引きくるめて、伝統尊重という名目で守りつづけようとする。しかし、国語愛護の正しいあり方は、わが子を愛護するあり方のようなものでなければならない。子どもの性質についても健康についても、生まれつきをそのままに放任するのでなしに、長所は伸ばし、短所は改めなければならない。国語も、そのように愛護すべきである。
つぎに、これと関連もあることであるが、日本語の本来のあり方をこそ尊重すべきなのに、中国語のあり方を尊重し、そのために日本語本来のあり方がふみにじられているのを見過ごして、それが国語愛護だと思っている人がある。この根本には歴史的な事情があって、こうなるのも当然と思われる。しかし、それだからといって、思いちがいを見のがすべきではない。
歴史的な事情のことについては、第3章に述べる。この章では、まず、今日もちいられている文字とコトバの関係を見つめてみることにする。
たとえば、「オクル」というコトバを、漢字で書くばあいは、意味のちがいによって「貨車便で送る」「お祝いの品を贈る」のように書き分ける。このように、同じ読み方に別々の漢字を使い分けることを「異字同訓」という。
当用漢字音訓表には、「オクル」の「送・贈」のような、2字の異字同訓はたくさんある。中には「オサメル」を「収・納・治・修」の4字に書き分けるというようなものもある。
しかし、音訓表は、基本方針として、異字同訓はできるだけ減らすことにしている。たとえば、「喜・慶・愉・悦」は、すべて当用漢字に選ばれている字であるけれども、「ヨロコブ」と訓読するのは、この中の、いちばん一般的な「喜」の1字だけに限られている。そのため、せっかく、さまざまの、ニュアンスのちがう字を当用漢字として集めておきながら、書き分けができないようにしてあるのは不都合だという批判が、よくでる。字典を見ると、「ヨロコブ」という訓読をあててある漢字は、これ以外に「欣・驩・懌・怡」そのほか数十字が掲げられている。それであるから、それらを当用漢字に加えないということが、そもそも、文字やコトバの発達を否定するものだと批判する人もある。
この人々は、カナモジ論に対しては、さらに激しく反対する。同じ発音のコトバは、カナモジではすべて同じに書かれ、区別がつかなくなるのであるから、この非難は、いちおう、もっとものように思われる。しかし、じつは、こうした批難は、言語の発達についての知識のとぼしいことから生まれてくるものなのである。国語を健全なものに育てようとする立場からいって、異字同訓をなるべく整理しようとした音訓表の原則は、正当である。また、漢字による書き分けなど、いっさいやめようとするカナモジ論のほうが、さらに理想的である。
必要に応じて細かなニュアンスが書き分けられるようになっているということは、もちろん望ましい条件の一つである。しかし、異字同訓をそのための理想的な方法として認めるかどうかは、なお、いろいろの角度からぎんみしてみなければならない問題である。
たとえば「オクル」は、「送・贈」の2字に書き分けることによって、書きコトバのうえでの意味の区別を示すことができる。しかし、このような、異字同訓による区別法は、口のコトバで区別をたてるのには、役にたたない。そこで、口のコトバのほうでは、区別して言う必要にせまられると「オクリモノをする」というようなくふうをして「贈」の字の意味を示すようなことになる。ところが、一方に異字同訓があることによって、そうしたくふうをするという努力は、おこたりがちになる。このことについては、あとに改めて述べる。
異字同訓は、書きコトバ自身にとっても不都合なことが多い。たとえば、音訓表には「カタイ」に「固・堅」の2字を認めており、さらに1970年5月に国語審議会が発表した改定案には「硬」の字も加えられている。したがって、ニュアンスの表現はさらに細かくできるようになる、と考えられやすい。しかし、それでは「カタイ石」や「カタク決心する」や「守りがカタイ」を、だれもが迷わずに書き分けられるかというに、むしろ、書き分けに苦しめられるのが、大多数の人の実情であろう。なにも漢字を書き分けなくても「石」なり「決心」なり「守り」なりによって、それぞれのニュアンスは説明されるのであるから、こうした用字法は、無用のことを要求するものであるといわなければならない。
それでは、人々は、用字法を大いに勉強して、完全に覚えれば、書き分けに困らなくなるのだろうか。やはり改正案では、たとえば「トル」に対して、鳥獣などをトルための漢字「獲」を加えるという。木の実などをトル、「採」と書き分けるためである。ところが、そうした用字法を覚えても、たとえば「無人島の鳥獣も木の実もトリつくした。」の「トル」は書きようがない。大きなフネは「船」で、小さなフネは「舟」だという。そういうことを知っても「港には大小さまざまのフネが浮かんでいる。」は、書くことができない。
より細かく表現することのできる機能をもつことは必要であるが、異字同訓だけがそのための具体案だと考えるのは、考え方が片よっている。また、コトバの理想は、細かく区別する機能をもつことだけではない。大づかみに表現する必要も、しばしばある。そういう必要にも応じられるコトバでなければならない。この立場からも、異字同訓には、むしろ多くの短所があることを知らなければならない。
これらの問題を正しく理解するためには、いったい人類の言語はどのような足どりをたどって発達してきたかということを、ふり返ってみる必要がある。
動物の中には、鳥類をはじめ、声を出すものがたくさんある。しかし、コトバをもっているのは人間だけである。サルの鳴き声のことは、日本の学者たちの研究が最も進んでいる。サルは、住んでいる地域により多少のちがいはあるが、それぞれの意味を表わすために30種以上の鳴き方を使い分けているという。しかしながら、これをコトバということはできない。コトバであるためには、「音韻」という、コトバの認識のための単位が基本になっていなければならない。サルの鳴き方には、音韻と認めることのできるものがない。人間の社会には、文化の進んだ社会もあり、未開社会もある。人間がはじめてコトバを使いだしたころには、サルの鳴き声のようなものから、わずかに、ひと足ぬけだしたようなコトバが使われたことと思う。かろうじて音韻といえるものができてきたとしても、語囲は、50語とか100語とか、それこそ、サルに毛のはえた程度であったろう。
それであるから、今日の、あちらこちらの未開社会で用いられているコトバの数は、何万年前よりは多くなっているとしても、文明社会のコトバの数とはくらべものにならないほど少ないだろう、と、思われがちである。しかし、事実は逆である。今日では、どこの未開社会でも、われわれの想像もつかないほど多くの語囲が日常用語として用いられている。
シュバイツァーと同じように、アフリカ人のために一生をささげたリビングストン(1813〜1873)は、つぎのように書き残している。「旅行者をとほうにくれさせるのは、原住民の語囲が乏しいことではなくて、それが多すぎることである。そのために、同じ土地の連中でも、ときには、数時間の話しあいのすえに、やっとその話題だけをおぼろげに知ることしかできない。」
この報告がはじめて紹介されたころには、人々は、これは、アフリカのある地方だけのことと思ったかもしれない。しかし、いまでは、あちらこちらの未開社会の事実が紹介されていて、どこも、やはりこのようなことになっていることが知られている。
今日わかっている中で、最も原始的なコトバを使っているのは、ニュージーランドのマリオ族のようである。かれらは、ほうぼうの山に、文明国人と同じように一つ一つ固有名詞をつけている。しかし、日本語の「山」に相当するコトバはない。部落のあちこちの木にも、必要に応じて名をつけるが、その名は、木の1本1本につけるのであるから、やはり固有名詞である。しかし「木」に相当するコトバもなく、「マツ」や「スギ」に相当するコトバもないという。
エスキモーの語囲には、降っている雪、積もっている雪、吹き寄せられた雪など、雪についてのコトバが40種あまりある。しかし、日本語の「雪」に相当するコトバがないという。
アメリカのチェロキー族の語囲には、「頭を洗う」という意味を1語で表わす語囲がある。「からだを洗う」というコトバもあり「赤ん坊を洗う」や「衣服を洗う」や「肉を洗う」の、それぞれのコトバもある。しかし、洗うことに関してはそれ以外のコトバはない。単に「洗う」に相当するコトバもない。そのため、農具を洗うとか家具を洗うとかの意味を表現することができない。
これらの例に共通していることは、かれらには抽象化の能力が乏しいということである。「山・木・雪・洗う」という類いのコトバは、いくつもの事がらの中から共通する概念を抽象することによってできる。そして、そういう抽象語ができれば、より少ない語囲で、より多くのことを表現することができるようになる。抽象化ができなければ、むやみにたくさんの語囲が必要になる。しかも完全に表現することができない。そして、語囲が多くなれば、人々はそれをいちいち覚えることもむずかしくなるから、いっそう、話が通じにくなる。
諸橋轍次著「大漢和辞典」には「アラウ」と訓読する漢字が、27字あがっている。そして、それぞれに独特の用法が示されている。「洗」は元来、足を洗う意味の字だという。「澡」は手を洗う意味、「沐」は頭を洗う意味だという。
さきに、チェロキー族のコトバのことを紹介した。この、漢字の27字は、すなわち、チェロキー族と同様の、中国の、漢字の発生時代の、未開社会的なコトバのあり方を伝えているものなのである。足を洗うことを表わすために生まれた「洗」が、今では、なにを洗うのにも使うことができるようになっているのは、抽象化による進歩の一例である。そしてそれは、カナで「アラウ」と書くことと、全く同じ理屈なのである。
和語にも、「アラウ」のほかに、米などを洗うのに使う「ヨナグ」というコトバや、衣服や口などを洗う意味に使う「ススグ」がある。しかし、これらを単純化して「米を洗う・口を洗う」という言い方のほうが今日は一般的である。これは、「洗」という漢字が、足を洗う意味から、なにを洗う意味にも使うようになった経過に、よく似ている。このような経過を、国語の退化と見るのは、見方が片よっている。コトバの機能が、より合理的なものになったことは、あきらかである。
和語の「ススグ」や「ヨナグ」は、一般に使われなくなれば、古語として伝えられるだけになる。ところが、漢字のほうは、足をアラウ意味の「洗」が、今日のように用法を広げたというような例もまれにあるが、ほとんどの漢字は、もともと表意文字であるために、はじめに与えられた意味を容易に改めることができない。
また、たとえば、まえに述べた「舟」は、じつは元来、「船」と同じ意味であって、単に、地域によって用字がちがっていたのが、いつのまにか今日のような使い分けを生じたものである。これに似たような例はほかにもいろいろあって、漢字の沿革を深く知れば知るほど、用字法に迷うというのが実情である。
森鴎外の「舞姫」の書きはじめのところに「船に残りしは余一人のみなれば」という用字がある。このフネは、欧州航路の大きな汽船である。それだから今日の用字法からいえば誤りになる。しかし、字原のうえからは、いま述べたような事情があるので、正しいかどうかの判断がつかなくなる。
ニュアンスの細かなちがいを書き分ける必要を、最も強く求められるのは、感情を表現する場合である。そこで、実務的な文章では、大づかみに表現することが許されるとしても、文学的な文章では、それは許されることではないと主張される。
この主張は正しい。文学の存在する理由は、まさにそのことにあるといっていい。語囲の中には、感情を説明するためのものが、いろいろある。「ヨロコブ」とか「オドロク」とかの動詞もあるし、「ウレシイ」とか「カナシイ」とかの形容詞もある。この種類もものを「感情語」と呼ぶ。
感情語には、とりわけ異字同訓が多い。カナモジでは、それらの書き分けが、いっさいできない。そのため、カナモジでは、文学的な表現はできない、というように思われやすい。それでは、異字同訓の漢字を使い分ければ、それで文学的表現ができるものであろうか、というに、それは、できないことである。
感情のニュアンスには、無限の種類がある。それだから、文学作品も無限に存在する意味がある。しかし、異字同訓は、どんなに多くても、無限ではない。ときには、ある感情を、大づかみに表現してすまされることもある。そのばあいは、カナにせよ、異字同訓の漢字にせよ、感情語ですませることができる。しかし、それだけでは文学的表現というようなものは書けない。文学的であるためには、そのばあいのだけの、独自のニュアンスを書き表わさなければならないばあいが多いのである。そのためには、異字同訓などというものは、使っても、ごく補助的な役目にしか使えないものなのである。というよりも、なまなか具体性を示すことが、かえって文学的にじゃまな作用をすることが多い。
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
石川啄木の代表的な作品の一つである。この中に、「かなしみ」という感情語がある。カナで書いている。どんな「かなしみ」であるかというに、それは「石をもて追はるるごとく、ふるさとを出でしかなしみ」なのである。具体的なたとえを用いて、はっきり示されている。この「かなしみ」を、カナではなしに、漢字の中から、このばあいに最も近いニュアンスのものをさがしてきて使うこともできよう。しかし、そうすれば、この作品がさらによくなると思うのは誤りである。ということは、改めて説明するまでもあるまい。
ところが、異字同訓の中には、語原上は一つの語囲であっても、今日では別々の語囲とみなさなければならなくなっているものもある。たとえば「イタム」は、からだのどこかがイタムのと、家具などがイタム意味と、さらに、死んだ人をいたむのとでは、現代語としては、むしろ同音語とみるべきであろう。
それで、この種のコトバを、カナで書くということは不都合だという考え方があろう、げんに、音訓表では、この訓には「痛」だけをあてていたのに、改定案では「傷」と「悼」を加えることにしている。これはたとえば死者をイタムばあい、カナで書くよりも、漢字の「悼む」のほうが、よりよい表現になるという考え方によるものである。
夏草や兵どもが夢の跡
松尾芭蕉が「奥の細道」の旅すがら、衣川でよんだこの句には、義経たちをいたむ気持ちが表わされている。その気持ちの中には、国破れて山河ありの思いと、歳月のはるかなへだたりへの思いとがこめられている。そのような気持ちは、「悼」という漢字で示されているのではない。「夏草」に象徴されているのである。もし「悼」などという漢字を使ったら、それはもう、文学ではなしに単なる説明文になってしまう。
作品が、説明文ではなしに文学であるためには、読む者に追体験をせまる力がなければならない。作者なり、作中人物なりの、その時かぎりの場に読者を立たせることによって、同じ感情を、読む者の胸の中に、理屈としてではなしに感情そのものとして再現させなければならない。感情語を使ってはならないというのではないが、それは、あくまでも補足的な役目にとどまるべきもの、とどまらざるをえないものなのである。
「奥の細道」には、死者をいたむ句が、まだある。芭蕉は、金沢の俳人、一笑に会うことを楽しみにしていた。ところが、金沢に着いて、はじめて、一笑はすでにその前年なくなったことを知る。まったく思いがけないことであった。
塚も動け我泣声は秋の風
送りがながないので読みにくいが「我泣声」は「ワガナク コエ」である。この句にも「悼」の字も、「いたむ」というコトバも使われていないけれども、衣川での句と、同じく追悼の句ではあるが、そのニュアンスは大きくちがっている。同じ作者が、同じ「奥の細道」という作品の中に、同じく追悼の句を掲げているその二つが、これほどにちがうニュアンスを表わしているのは、決して感情語の働きによるものではない。まして、異字同訓の利用によるものではない。
この項目での結論は、漢字のいろいろの感情語を使い分けることが文学的表現だと思うのは、思いちがいであるということである。
以上の論は、なにも、感情語の存在を否定するというのではない。すでにふれたように、感情語に限らず、抽象概念を示す語囲の生まれることは、コトバの進歩の一面である。ただし、抽象語でありさえすればよいのではない。それらは、できるだけ望ましいあり方をすべきである。ところが、異字同訓という漢字の存在は、この進歩を妨げる作用をする。
たとえば、「訪問する」という意味を示す「タズネル」という和語がある。しかし「タズネル」は「質問する」という意味にも使う。そのため「友人の家をタズネル」と言ったのでは、単に訪問する意味なのか、それとも道順がわからなくてだれかに質問する意味なのかわからない。訪問の意味の和語には、また「トムラウ」というのがある。たとえば、謡曲「大原御幸」の「又、法皇、御幸をなされ、御訪ひあるべきとの勅・にて候」の「御訪ひ」は「オトムライ」である。しかし、今日では、「オトムライ」は死者を弔う意味に限って使われるようになっている。したがって、「訪問する」の意味を示すためには「タズネル」とも「トムラウ」ともちがう形が必要である。それには、和語としては「オトズレル」が最も理想的である。これなら、口で言ってもカナで書いても、他とまぎれる心配がない。
ところが、音訓表では「タズネル」には質問の意味の「尋」だけをあてていたのに、改定案では「訪」をも加えることになっている。こうなると、異字同訓によって、せっかくのコトバの進歩の歩みが、ブレーキをかけられ、さらには逆もどりさせられることになる。
国語が、国民みんなに、よりよく役だてられるためには、理由もなしに変えてはならない。安定をはかることは、国語愛護の一つの大事な項目である。けれども、コトバは、民衆の知恵によって、つねに進歩への変革を求められているものである。その足取りをはばむべきではない。
漢語の中には、おびただしい数の「類義語」がある。たとえば「心配」に似た意味の漢語で、よく見かけるものだけでも「危惧・憂慮・心痛」などがある。
この種の漢語も、さきに述べた異字同訓とよく似た性質の語囲である。類義語が多いことをもってコトバの進化であるとみることはできない。漢語に類義語が多いのは、漢字2字をならべれば簡単に漢語らしいものができあがることに、おもな原因がある。そのため、べつだん特別な意味を表わす目的があるからではなしに、単に、高級な表現らしく見せかけるために、いたずらに類義語を作ってきたと見るべきものが少なくない。その一つの証拠に、世間にはしばしば「杞憂にたえない」と、書く人や言う人がある。「杞憂」(キユウ)とは、取りこし苦労とか、よけいな心配とかいう意味である。したがって杞憂にたえないということは、元来ありえない。単に「心配にたえない」というよりも、より高級な言い方をしたいために、こうした誤った用法もでてくるのにちがいない。
類義語は、感情語だけに限ったことではない。あらゆる意味のコトバにおよんでいる。その結果、無用に、用途のせまい漢語を数多く作ってしまっている。たとえば、文書は「作成」し、家具などは「製作」し、彫刻などは「制作」する。団体は「結成」し、規則などは「制定」し、宅地は「造成」する。しかし、これらはすべて、「ツクル」ですまそうと思えばすまされる。何を作るのであるかは、「文書」なり、「彫刻」なりのコトバが説明している。
コトバは、国民全体のためのものであり、さらには過去と現在と未来とを結ぶためのものでもある。欠点があって改めなければならないばあいのほかは、さきに述べたように、できるだけ安定させておくべきものである。この立場からいって、漢字2字をならべることによって、だれもが不必要に類義語を作るということは、非常にいけないことである。それはまるで、だれもがニセガネを作ることを許されているようなものである。
しかし、いくらそのように批難しても、漢字が広く使われているかぎり、これは、さしとめることのできない問題である。
1955年(昭和30年)12月6日のことである。衆議院文教委員会で、野党議員から、教育関係の立法案をめぐって、時の文相、清瀬一郎氏が激しく批難された。それは、清瀬文相が「文部省は間接干渉する」と言ったのが不都合だというのであった。これはしかし、野党側の誤解で、清瀬文相は「勧説勧奨する」と言ったのであった。発音が同じなので、取りちがえられたのであった。
議会での演説のように漢語の多い話では、こうした、同音語による取りちがいは、よくある。自衛隊のあり方をめぐって「私案」が「試案」と受けとられて、もめたこともあった。「極論・曲論」や「保証・保障・補償」なども問題を起こしやすい。
議会だけではない。学問の世界も漢語が多いために「科学・化学」や「工学・光学」そのほか、漢字を見なければ取りちがえるコトバが多い。日本人の、日本語による講義では、たえず黒板に漢字を書くということが、外国人には異様に見えるということであるが、これは、主として同音語に原因がある。
一般人の日常生活の中でも、時おり同音語で困ることがある。「今週の協議会」が「今秋の競技会」と取りちがえられたり、「製紙工場の就業時間」が「製糸工場の終業時間」に変わったりする。
日本語には、同音語が非常に多く、そして、同音語は漢字で示せば区別がつくがカナは区別がつかなくなるということから、そこに漢字の長所とカナの短所がある、と思われがちである。しかし、それは、かるはずみな考え方である。第1章でもふれた問題であるが、以上に例をあげたように、漢字が広く使われている今日でも、同音語は、たえず社会生活の妨げになっている。それは、コトバというものが、文字だけで伝えるものではなくて、音声でも伝えなければならないからである。そして、音声で伝えることは、電波を利用するさまざまの機械の出現と普及によって、今後ますます重要さを増してくる。それだから、音声でわからない語囲は、音声でわかるように改善されなければならない。ということは、言いかえれば、すべての語囲が、カナでわかるように改めなければならないということである。将来とも漢字を使うにしても、日本語の近代化のために、これは、ぜひともしなければならない仕事である。
それでは、漢語の中にむやみに同音語が多いのはなぜであろうか。それは、漢語の基本になっている「字音」というものが、非常に限られた音の組みあわせになっているからなのである。
たとえば「工学・光学」の第1字は「コー」という音であるが「コ」にはじまる字音には、このほかにどんなものがあるかというに、「コク」と「コン」はたくさんあるが、それ以外は、当用漢字では「骨」の「コツ」が1字あるだけである。
ほかの音にはじまる字音を見ても、第2音に来るのは、長音と「ク・ン・ツ」のほかに「イ」が、ア・ウ・エ列のあとにだけ来る「愛・会・水・計」の類と、まれに「キ」の来る「域・益」の類があるだけである。しかも、これらは、第1音に非常な制限があって、当用漢字についていえば「ナ」には「ナイ・ナン」だけ「ウ」には「ウン」だけしか来ない。「ヌ」と「ム」のあとに来る音は一つもない。
中国の原音は、決してこのような窮屈なものではない。しかし、日本の固有の国語は、なるべく少ない音韻ですませようとする性格をもっており、語囲どうしの区別は音韻の組みあわせ方で示そうとする行き方が基本になっているために、字音がこのようになってしまうことは、日本では宿命である。(中国語の性格については、第3章で説明する。)
国語の近代化ということの、一つの重要な条件として、なんとしても、耳で聞き分けられるコトバに改善しなければならない。しかし、漢字を使っていると、それは、容易にできないことである。
国語の中の同音語が、以上に述べたように、一つの宿命としてこのように多くなったということは、同時に、それがどんなに不都合であっても、これをすっかり取りのぞくなどということは、容易でないことをも意味する。
そうであるとすれば、そして、同音語が完全になくならない限り、漢字は必要であるとすれば、カナモジ論はこの一点からだけでも、なりたたないことになる。そこで、つぎには、これらの関係が実際はどうなのかということをつきとめる必要がおこってくる。
たとえば「工学・光学」は、たしかにとりちがえることがある。しかし、これと同じ発音のコトバには、なお、「高額・向学・後学」などもあるが、これらが取りちがえられることは、まず、ありえない。それは、前後に使われるコトバが、しぜんに区別の役目をするからである。文から離れて一つの単語だけが使われるということは、ふつうはありえない。
それでは、同音語は、文の中にカナで書いて出されたばあい、どの程度に区別がつくものか。文中での組みあわせ方は無限にあるから、あらゆるばあいのことを調査するのはできないが、さいわい、国立国語研究所が発表した「同音語の研究」という報告がある。これによって、相当のところまでを推しはかることができる。(1961年。国立国語研究所報告 20)
ここに、その中の一部だけを紹介するが、これは、東京都立高校2校の2年生に対し、同音語のある漢語をカタカナで書いた短文を示し、そのカタカナを漢字で答えさせたものである。つぎの、カッコは正答、数字は正答率である。
フウセツにたえる(風雪)………………… 98
フウセツが流れる(風説)………………… 92
イチドウに会する(一堂)………………… 90
イチドウを代表する(一同)………………100
ヒッシの努力をする(必死)……………… 87
ヒッシの情勢になる(必至)……………… 76
コンセンにおちいる(混戦)……………… 85
話がコンセンする(混線)…………………100
ソウイを反映する(総意)………………… 35
ソウイがひらめいている(創意)………… 54
カンショウにひたる(感傷)……………… 86
庭をカンショウする(鑑賞・観賞)……… 98
カンシンをもつ(関心)…………………… 92
努力にカンシンする(感心)……………… 99
ユウリョウな映画を見せる(優良)………100
ユウリョウで映画を見せる(有料)………100
これを見ると、同音語も、実際に文中に使われたばあいの見分けは、思ったほど取りちがえるものでないことがわかる。ただし、問題によっては、ずいぶん不成績のものもある。ただ、不成績なものの、不成績の原因は、それが同音語があるからというよりも、「その語囲を知らないから」ということが主であるように思われる。「総意・創意」などが、その適例であろう。「必死・必至」や「混戦」や「感傷」なども、それに近いようである。
このようなことを裏書きしていると思われる事実がある。外来語に、たとえば「プロ」というのがある。これは略した形が用いられているのであって、略さずに言えば、一つは「プログラム」であり、一つは「プロフェッショナル」であり、一つは「プロダクション」であり、一つは「プロレタリア」である。略さずに使えば区別がはっきりするのに、略して四つとも同じ発音にして、四つともカナで書いてすませている。これと同じ例は、外来語にはまだいろいろある。
以上のことがらから結論づけられることは、同音語は、できるだけ整理することが望ましいけれども、完全になくす必要もない。文中の前後の関係で、かなり区別がつくものである。したがって、かなりの数の同音語をそのままカナモジ文に使うことができるということである。
しかし、それにしても、もう一方のかなりの数の同音語を、なんとか整理しなければならないことは事実である。それをどのように整理するか。この章は、問題提起のための章なので、改めて、第5章に、これについて述べる。
ただに、同音語だけの問題ではない。日本語が、漢字のために、どんなに発達をはばまれ、いためつけられ、ゆがめられてきたことか。しかも、漢字が、国語愛護とか、国粋主義とかの名において、善意や正義感のうえからにもせよ、どんなに不当に高く評価されてきたことか。
正しい意味での国語愛護とは、どうすることであるかを、わたしたちは、広く叫びかけなければならない。すでに強い先入主を持っている人たち、とりわけ知識人をもって任じている人たちに対する呼びかけは、かくべつ骨のおれることであるが、しかし、本当の知識人であれば、正しい理論を正しく受けとめることもできるはずである。また、なんのために国語を愛護しなければならないかというような初歩にまで引きさがって語る必要もないはずである。
この章では、そのようなことを知っていただきたかった。
第3章は、このことを、さらに歴史的に確めるのに役だつことと思う。
世界には、さまざまの文字が行なわれているが、ほとんどの文字は、はじめは、ごく簡単な×+などの心おぼえの記号と、物の形を表わした絵であった。コトバとの結びつきもハッキリせず、形は、なんの意味であるかがわかれば書き方は自由であった。この段階のものは、「原始文字」といって、一般の文字と区別されている。
漢字のことを、ふつうには「象形文字」といっているが、象形文字とは絵に由来する文字だけをいうべきである。古代中国語の研究者、カールグレンによれば、漢字の中で「象形」は364字だけ、それから、記号に由来する「指事」は125字だけとなっている。漢字の全体から見れば、ごくわずかである。
中国に原始文字が生まれたのは殷(イン)の時代と見られる(紀元前約1,800〜1,100)。それが、のち、しだいに形も定まり、中国のコトバとも一つ一つに結びついて、原始文字から「文字」に進化していった。また、数多いコトバの一つ一つに文字を用意する必要から「会意」と「形声」という二つの方式をあみだした。
指事や象形を組みあわせて何らかの意味のヒントを示したのが「会意」である。「林・休・鳴・吠」などがその例である。
「形声」というのは、「畔・伴・拌・絆・判」のように、属性と発音を表わした組み立てのものである。「畔」は、「田」がそのコトバの属性を表わし、「半」は、そのコトバの発音が「半」の字と同じということを表わしたものである。「伴」以下も「人・手・糸・刀」の属性と「半」の発音ということを表わしたものである。そして、漢字の大多数は、この形声である。
それでは、日本での漢字の使われ方はどうか。「畔」は「ハン・ホトリ・クロ・アゼ」など、いろいろに読まれる。一定のコトバを伝えることができない。また、「トモナウ」というコトバを漢字で書くには、「伴」のほかに「侶・倶・偕」その他いろいろの訓読漢字が字典にある。一つのコトバが一定の書き方をするようになっていない。
「文字」と「原始文字」との区別のことを、まえに述べた。一定のコトバを伝えることもできず、一つのコトバに一定の書き方もないのが原始文字である。日本での漢字の用法は、まだ原始文字の段階にとどまっているといわれても、しかたがない。
漢字の字形のなりたちは、以上に述べた、指事・象形・会意・形声の4とおりになるが、用法のうえから、これに「転注」と「仮借」(カシャ)というのを加えて、合わせて「六書」(リクショ)といっている。
転注というのは、たとえば楽器の形の象形の「楽」が、音楽を意味するほかに「たのしい」という意味を表わすのにも使うという類である。仮借というのは、たとえば足の形の象形の「足」の字の発音を借りて、中国語としては発音のおなじ「たりる」という意味のコトバを表わす類である。
コトバを、口から耳に伝えることもできるし、形で目に伝えることもできるようにするためには、その両方の信号が、自由に、完全に、たがいに置きかえることのできるものであることが理想である。そのために、文字はすべて、表音文字へと進化するのが、歴史の法則である。そして、漢字と合わせて世界の三大字原といわれているエジプト文字も、シュメリア文字も、そのように進化していった。(シュメリア文字はアラビア文字などの字原になっている。)
この、文字の進化の法則は、漢字のうえにも強く求められた。仮借がその典型であるが、しかし、大多数の漢字は形声にとどまった。これは、中国語の特殊な性質に原因する、宿命的なものであった。
中国語は、単音節語である。その音節は、日本語の音節のような、カナ1字が大体1音節にあたるというような単純なものではないけれども、しかし、英語の音節のような、たとえば“strike”が1音節というような複雑な形でもない。子音が、一つの音節の中に、三つ以上は使われることはない。二つ使われるばあいも、つづけて使われることがない。このような制約のもとに、あらゆるコトバを1音節で表わす方式のコトバであるから、おなじ音節のコトバがたくさんできる。
そこで、それらを区別するために、「四声」と「有気・無気」という、アクセントと声の出し方の複雑な使いわけのキマリを作った。
けれども、それでもやはり、発音だけでは区別のつかないコトバがたくさんある。そのため、発音だけより示せない文字では、文字の用をなさない。そこで、発音とともに属性をも示す「形声」が、漢字の中心的な位置を占めるようになり、そして、発音だけで、前後の関係から判断のつくようなコトバは仮借ですませるようになったのであった。
漢字の中には、文字進化の法則である表音文字化と、中国語の特有の単音節語のナヤミとが、深刻にあらわれている例がたくさんある。「云」という字は、元来、「雲」の形を写して「雲」を表わしたものであった。それが、今日使われている「云」の意味のコトバに、仮借として使われるようになった。ところが、この二つを同じ字体で表わすことは、実用上さしつかえを生じる。そこで、一方は「雨」を添えて「雲」の字体にした。この種の字体の移りかわりの例はめずらしくない。たとえば、「寺」は「持」の元来の字体である。「自」と「要」は、「鼻」と「腰」を表わす象形であったのが、仮借でほかのコトバに使われるようになり、今日の形に変わった。「何」は、もとは「荷物」の意味の形声であったのが仮借によって「ナニ」を表わすようになった。そのために「ニモツ」のほうが、植物の「ハス」を表わす「荷」の字を仮借で使うようになった。(永井荷風の号は、ニモツの風ではなくて、ハスの風の意味である。)
このように、中国語は、文字の表音化を容易に許すことのできない性質のコトバであった。しかし、その中国でさえ、今日では、ローマ字書きが行なわれるようになった。そのように表音文字での表わし方ができるようになったのは、日本の漢語にも見られるような「努力」とか「目的」とか「身体」のように、漢字を組みあわせて1語を表わすコトバが用いられるようになったためである。
表音文字を採用するのに最も困難な性質のコトバを持つ中国でさえ、このようにして、表音文字をめざして進んでいる。それなのに、日本が、漢字を実用の社会から容易に引退させないのは、なぜだろう。日本語というものが、中国語以上に表意文字を必要とする性質のものなのであるだろうか。つぎに、日本の歴史上の事実をさぐってみる。
57年(西暦)に、中国の光武帝から贈られたと認められている、「漢委奴国王」の5字の刻まれている黄金印は、日本に渡来した漢字の、現存する最古のものであろう。また、その後、2世紀ごろに渡来した、漢字の記されている品物も、いくつかある。しかし、日本人が、しんけんに漢字を学びはじめたのは3世紀の末ごろからである。ただし、それは、日本語の読み書きのためではなくて、中国語を通して中国の文化を学ぶためであった。文を作るばあいも、中国語で述べるという立場で、漢文が用いられた。
ところが、中国語ではどうしても表現することのできないコトバにであうことがあった。それは、地名や人名などの固有名詞である。紀の国の「隅田(スダ)八幡の銅鏡」は、日本で作られた紀年銘のある最古のものである。(「癸未年」とあるが、443年あるいは503年であろう。)この銅鏡の裏面に浮きぼりにしてある文中に「意紫沙加宮」という文字がある。「オシサカの宮」を表わしたものである。「斯麻念」という文字もある。これは人名である。
また、高麗からの帰化僧の慧聡の書いた文といわれる「道後温泉碑文」は、いまは現物がなく、記録が残っているだけであるが、その中で、国名の「イヨ」を「夷与」と書いている。これは、596年に書かれたものである。
このようにして、固有名詞には、漢字を仮借の方式であてている。これは、大陸から伝わってきた仏教関係の文中に「釈迦」や「阿弥陀」のような例があるところからも、当然考えつくべき用字法である。
712年に、太安万侶(オオノ・ヤスマロ)が、勅命によって、ヒエダノ・アレの語る、神代から推古時代までの、神話や、伝説や、歴史を、文字に写して「古事記」を書きあげた。その序文に、用字法上の苦心が述べられている。訓読方式にすると意味が正しく伝わらないところもでてくるし、仮借方式ばかりにすると長くなりすぎる。それで、その両方を取りまぜて書いたということを、ことわっている。たとえば「次ニ国ワカクシテ浮脂ノゴトククラゲナスタダヨヘルノ時」を「次国稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時」と書いている。こうして、仮借方式は、和語一般に用いられるようになった。
「古事記」から約半世紀あとに「万葉集」がまとめられた。(最も新しい歌は759年)この歌集には、古事記に使われた仮借方式が取り入れられているのであるが、この用字法は、万葉集にちなんで「万葉ガナ」と呼ばれるようになった。そして、この万葉ガナから、カタカナと、ひらがながつくりだされた。すでに多くの先人が言っているように、カタカナ、ひらがなの発明は、日本人の手になるものの中で最大の傑作であった。
俗説では、カタカナは吉備真備(キビノ・マキビ)が作り、ひらがなは弘法大師が作ったとしているが、どちらも事実とちがう。どちらの文字も、長い年月のあいだに、たくさんの人の手を経てできたものである。
カタカナは、おもに、経文を学ぶ青年僧たちが、経文のせまい行間に、すばやく、ノートする必要から、万葉ガナの字画を省略して作ったものである。ひらがなは、おもに貴族の女性たちが、優美な字体を求めて、万葉ガナの草書をいっそうくずして作ったものである。
どちらも、源流は推古時代に見られ、はじめは、必ずしも両方ははっきり分かれていなかった。完成の時期は、どの段階をもって完成と見るかという問題もあるが、ほぼ、カタカナは平安時代の初期、ひらがなは平安時代の中期と見てよい。
カナの出現によって、日本の用字法は、四つの大きなものに恵まれることになった。
第1に、形が簡単で、数も少ないから、おぼえやすく、そしてカナさえおぼえれば、日本語なら自由に書けるようになった。
第2に、漢字を仮借に使う必要がなくなった。したがって、漢字を表意専用に使うことができるようになり、表意か表音かの判断にまよわされる書き方をしなくてもよくなった。
第3に、コトバの発音を正しく表わすことができるようになった。
万葉集は、漢字ばかりで書かれているために、読み方のわからない作品が、少なくない。たとえば、天智天皇が皇子のときに作った、「わたつみの、とよはた雲に入り日さし、こよひの月夜」のあとの「清明己曽」の読み方には、「アキラケクコソ」、「マサヤカニコソ」その他十種あまりの説がある。(原文は、もちろん一首全体が漢字で書かれている。)
第4に、書くのに早いことである。漢字の複雑な字形にくらべると、カナで書けば字数がふえるとしても、時間はよほど少なくてすむ。
それでは、カナの出現のあとは、こうしたカナの長所が大いに活用されて広く用いられたかというに、そうではなかった。それは、なぜであったろう。
中国の歴史書「三国志」の中の「魏志」の「倭人伝」には、三国時代のころの日本のようすが記録されている。それによると、当時(三国時代は220年〜280年)の日本は、たくさんの小国に分かれていた。国々の王たちは、事を決めるにはウラナイによって神の意志を伺う。王の命令は絶対で、身分にいろいろの差別があるが、おのおのの分際はよく守られている。身分の低い者が道で身分の高い者に出あうと、こそこそと道のわきの草むらの中に入り、コトバをかけるときは、うずくまり、あるいは両手を地につく。邪馬台国の女王のヒミコが死んだときは、百人あまりが殉死させられたという。
こういう社会に、大陸から新しい文化が渡来してきたのであった。それは、神の託宣よりも、もっと現実的な権威のあるものであった。鉄製の武器はつねに勝利をもたらした。暦法は年中の農耕の手順を、ウラナイよりも的確に教えてくれた。銅鏡は、あまりに見事なので、道具として使わずに、ご神体として祭られた。これらの新しい文化を伝えるための基礎になるものとして、文字が伝えられたのであった。
権力者たちは、大陸文化を取り入れることによって権力の座をさらに固めていった。その新しい体制が整えられたのが、大化の改新であった。
大学が設けられた。けれども、入学することは、五位以上の子弟でなければ許されなかった。教官職は世襲であった。教官職たちは、それぞれに「家学」をあみだし、それがみだりに知れ渡ることを極力ふせいで特権を守った。漢文の読み方を示す「訓点」は、秘密の記号として、かれらの家伝にされた。
学問・知識の秘密を守り、また権力者の権威を示すためには、漢文・漢字は、あつらえむきのものであった。カナを用いることは、その特権をすてることに通じた。天皇の命令を書いた「宣命」では、助詞(テニヲハ)にも、カナを用いずに、すべて訓読漢字と仮借方式を用いた。今日も行われている、神官のノリトの書き方が、その方式を伝えるものである。また、漢文の語順の知識が失われてからは、史人(フビト)流といって、読みくだし順に漢字をならべる方式が行われた。このごろはようやく、あまり用いられなくなった「候文」が、その系統のものである。
公式の文書は漢文でなければならないという態度は、明治開国まで続けられた。あのおり、王政復古を全世界に告げた「国書」も「日本国天皇告諸外国帝王及其臣人……」に始まる漢文であった。
とくに平安時代には、貴族階級でも、中国の極端な男尊女卑の思想によって、女性は、大きく差別待遇された。その立場から、女性は漢文を書くことをえんりょしなければならなかった。彼女たちが、ひらがなを完成させ、ひらがなを主とする作品を生みだしたのは、そのためであった。また、紀貫之が、「土佐日記」を、「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。」と、女が書いたように見せかけて、和文のひらがなで書いたのは、男性なら漢文で書かなければならない社会規範があったからである。カナをいやしんだ態度は「仮名」というコトバにも端的に表われている。
漢字によって特権を守ってきた平安時代の貴族たちは、武士階級によって退けられ、鎌倉時代になる。それと同時に、漢字万能のナラワシは破られ、漢字とカナと、漢語と和語の入りまじった文章が行なわれるようになった。また、カナは、しだいに民衆の間に知られるようになり、民衆を読者とする、カナを主とした「抄物」(ショウモノ)が出版されるようになった。
しかし、長い戦乱時代のあとに出現した徳川幕府は、厳重な封建制度を作り、そのシクミの一つとして、学問と文字をふたたび特権者の手に取りあげた。支配階級たる武士たちは、幼少のころから漢籍によって教育され、口に語るコトバも漢語ずくめで、民衆とは別の言語生活をした。儒学も朱子学だけを認め、これを批判した熊沢蕃山や山鹿素行らは処罰を受けた。
新井白石は、徳川中期の大学者で、大政治家であった。かれは、日本の漢字本位の国字のあり方の不都合をさとり、カナ専用が理想だと考えていた。しかし、そういう意見が他人にさとられることを警戒した。
漢字漢文万能の不都合を、はじめておおやけに唱えたのは、賀茂真淵であった。その著書「国意考」には、漢字の字数の多いことの不合理を論じてから、インドでは、わずか50字で5,000あまりの仏典を書いているが、これは表音文字だからできたことである。オランダでは25字ですませている。日本ではカナを使えば50字前後ですむ。コトバは主人で文字はシモベであるべきなのに、日本では漢字を借りてきてこの関係を逆にしている。漢字をやめるべきだ……と、はげしい口調で論じている。
それでは、この主張はどれだけの反応があったか。この「国意考」の刊行から30年ほどあとに、三好野城長が「国意考弁妄」という本を出した。その序文に金子祐倫が「然を、世の痴漢、是に党するものありて囂々たること殆三十年。その間、鴻学碩儒なきにあらず。然ども、皆、黙置して論破せず。論破せざる意を勘るに、この故あり。近世、大家と自称するもの、凡ソ国学者を蔑視すること、小児の如くす。故に、小児に対して難論せば、世の笑を取るの為なりとして、愧てせざるあり。」と述べている。おおげさな言い方をしているのかもしれないが、当時の空気が察せられる。文中「是に党する」というのは、真淵の主張に共鳴する者の意味である。
1866年、前島密(ヒソカ)が、徳川幕府の最後の将軍、慶喜に、「漢字御廃止之議」という建白書を出した。その文中には、この建白書を出した罪によりどんな極刑に処せられてもよいと述べてある。しかし徳川幕府のたおれる直前のことでもあり、罪は問われなかったが、取り上げられもしなかった。
大陸との交渉がはじまって以来、明治開国までの長いあいだ、時期により多少のちがいはあったけれども、漢字漢文が特別待遇を受けてきたのは、特権を守る道具になったためとばかりはいえない。結果としてそうなったとしても、目的は必ずしもそのように限ることはできない。むしろ、中国文化を取り入れようとした、敬服に価する熱意が主であったと見られないでもない。そして、そのことが、日本文化を進めるのに役だったことも事実である。しかし、その影響として、中国崇拝の思想が、異常に、不当に高まったことも事実であった。荻生徂徠が、日本を「東夷国」と書いて、自分も世間もあやしまなかった、という一つのことにも、それは察せられる。
また、権力の座にある者たちが、その特権を守るために、さまざまの方法を用いたということを、今日の民主思想をもとにして非難することもあたらない。同時に、民主的な国語国字運動が盛りあがらなかったことをもって、民衆を非難することも不当である。民主思想というもののない時代に、そういう運動が起こりにくいのは当然である。民主思想が育つような言論の場としての文字が、民衆の手のおよばないところにあるのであるから、そういう運動の起こることを望まない統治者にとって、漢字は大きな効果があったわけである。
よく聞かされる意見。漢字が国字として不適当なものであるなら、とうの昔に使われなくなっていたはずだという見方は、あまりに単純にすぎる。
前島密のことは、カナノヒカリ第523号「前島密ト国字問題」、第535号「漢字御廃止之議、100年記念講演会」参照。
江戸時代には、町人百姓の子は、いくら勉強しても支配階級たる武士になることができなかった。その武士には、大名から徒士(カチ)まで幾層もの階級があって、身分はすべて世襲であった。明治開国とともに、この制度は廃された。明治天皇は、即位にあたって、「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ。」と神前にちかった。それから、「文明開化」を、西洋から大量に急速に取り入れた。
これらのことから、明治維新は自由平等を目ざした民主革命であったと、受けとられやすい。それまでの封建時代にくらべれば、民主化されたといえる。しかし、民主主義の理想からは、ほどとおいものであった。
徳川幕府は、幕府の安泰を図って、各藩の力をできるだけおさえた。そのため、とくに、トザマ藩の下級武士たちは生きていくことさえ、むずかしくなっていった。そこで、かれらは、同じように窮乏していたクゲたちとともに、倒幕による活路を求めた。その大儀名分として「尊王攘夷論」がかかげられた。倒幕が成功すると、攘夷論はあっさりすてられた。主権者と、それを取りまく座席の顔ぶれは変わったが、万機公論に決するというちかいによる国会の設立は、そのことを要求するために活動した、大隈重信、尾崎行雄その他、おびただしい人数の先覚者たちを弾圧しながら、維新後ほぼ四半世紀もたって、ようやく実現したものである。しかもその実態は、衆議院議員の選挙権は、一定額以上の直接国税をおさめる男子に限られ、衆議院の議決は、貴族によって構成する貴族院で承認されなければならないという制度であった。国会開設の前年には憲法が発布されたが、国民はその内容を批判することさえ禁じられた。このような制度と、それをウシロダテにしての「右翼」の公然たるテロ的な行動とによって、民主化を目ざす運動はすべて弾圧された。国字問題もその例外ではなかった。
国字問題にとって、特に不幸であったことは、漢字漢語をさかんに使うことが学問のある証拠であると考えられ、学問があれば平民の出身でも出世することができると考えられるようになったことである。青年たちは、きそって漢字漢語を学び、また、さかんに漢語を口にした。仮名垣魯文の「安愚楽鍋」(アグラナベ・1871年=明治4年)や坪内逍遥の「当世書生気質」(1885年=明治18年起稿)に、それらの様子がよく描かれている。また、東海散士の「佳人の奇遇」(1885年=明治18年起稿)は、当時広く読まれた作品だそうだが、その文章は、「翠羅面ヲ覆ヒ暗影疎香白羽ノ春冠ヲ戴キ軽・ノ短羅ヲ」というようなものである。
国民教育においても、できるだけ多くの漢字を教えるという方針がとられた。1874年(明治7年)に発行された、榊原芳野編の「小学読本巻一」すなわち小学校にはいって最初に学ぶ教科書の巻頭は、「家」と題して『人の住所の総名なり」柱、梁、桁、榱等を具えて作る」また屋根に瓦葺、板葺、草葺等有り」』というものであった。(コンマの代わりにカギを用いている。)教科書は、当時はいろいろのものが用いられたが、4年間の小学時代に漢字を4,000字前後を教えたということである。文体もすべて文語体であるし、カナヅカイは旧カナヅカイであった。
じつは、1873年(明治6年)には、文部省自身が「小学教授書」というものを刊行している。この中には「此れは、梅の花で、あります。」というような口語体のものが、いくつか出された。ところが、当時の代表的な国学者の黒川真頼(マヨリ)が、「此の如き文章を教ふるは、今の小児の大人になりて、かかる文章をも用ゐさせむとなるべけれど、されど、五年十年過ゆくともかかる文体は用ゐるべくもをもはれず。若し用ゐざらむには、無用の文体を教ふるに似たり。」と非難した。
明治維新は、国学者たちの王政復古論を大義名分にしてなされたものであったため、当時の国学者の権力は強かった。この教科書は、わずか1年間使われただけで、翌年には口語体はすがたを消してしまった。
国学者たちはしかし、新時代の指導者として無能であることから、やがて政権から遠ざけられた。ただし、そのあとに一つの置きミヤゲを残した。それが「旧カナヅカイ」であった。
「カヘルのなきごゑ」と書くような旧カナヅカイというものは、上代にカナが出現して以来一貫して用いられていた用字法だと思っている人もあるようだが、それはちがう。カナヅカイは、時代時代の音韻のうつり変わりにつれて混乱に混乱を重ねてきたものである。それを、国学者たちの復古主義によって、およそ平安時代の用字法に復古させたのが「旧カナヅカイ」なのである。しかし、とても覚えられないものであるため、あとに述べる経過のすえ、戦後になって、ようやく、実用の世界から姿を消したのであった。(いま紹介した黒川真頼の文の「をもはれず」も、旧カナヅカイ「おもはれず」を書き誤っている。)
カナヅカイを改めよという主張は、漢字制限論や漢字廃止論よりも強く、国粋主義者の反対を受けたものであった。しかし、直接に教育のしごとにあたっている現場からは、旧カナヅカイがとても覚えさせられないことが、さかんに訴えられた。また、旧カナヅカイを使わせることの無意味さも論じられた。
1900年(明治33年)4月、文部省は、カナヅカイのうち、字音だけを表音式に改めた。結果をみて評判がよかったら数年後に和語も表音式にする計画であった。5年後の1905年(明治38年)に、文部省は和語の案を発表し、各府県の師範学校に諮問した。改正案に賛成49校、反対2校、そのほか7校であった。文部省はさらに高等教育会議に諮問し、賛成をえた。そこで、これを1908年(明治41年)から実施することにした。
ところが、1907年(明治40年)3月に、貴族院は、文部大臣に対する建議を決議した。文部省のカナヅカイ改正案は「不穏当ノ廉不少ト認ムルニ依リ官民規行ノ慣例ニ背カザル範囲内ニ於テ更ニ之ヲ整理セラレンコトヲ望ム」という文面であった。貴族院をこのように動かしたのは、東久世伯爵を会長とする国粋主義団体「国語会」の人々であった。その中心人物は右翼政治家としてそのころ全盛をきわめた岡田良平であった。
この結果、文部省は、和語の旧カナヅカイを改められなくなっただけでなく、すでに8年間の実績を重ね教育界にも世間一般にも喜ばれてきた字音さえ、また「テフテフ」式に逆転させられてしまったのであった。
しかしながら、カナヅカイを表音式に改めなければならないということは、教育上からも実用上からも、動かすことのできない結論であった。
大正時代になると、社会一般に、自由主義的な空気が支配的になり、以前のような国粋主義者らの圧力は、さほど心配しなくてもよいようになってきた。1921年(大正10年)に文部省は臨時国語調査会を設けた。その翌々年、この調査会は「仮名遣改正案」を発表した。明治時代の改正字音カナヅカイは長音にボウ引きを採用したものであったが、これは「う」で表わすなど、明治時代のものよりは、いくらか控えめの案であった。
ところが、案外にも、この案には、国粋主義者たちよりも、文化人たちが、いくにんも反対論をあびせた。与謝野鉄幹・晶子夫妻、芥川竜之介、津田左右吉、美濃部達吉など、その例である。それで、とうとうこの案も日の目を見ずに終わった。
1946年(昭和21年)、すなわち戦後になって、「現代かなづかい」が出現し、これによって、カナヅカイ問題は、いちおう解決した。ここにいたるまでの間には、なお語らなければならない経過があるが、それは第4章と第5章にゆずる。
この項で述べたことは、カナヅカイのことである。しかし、この経過の中には、国字問題の全体に通じる一つの法則のようなものが示されている。
明治時代の、1900年にはじまって8年後に貴族院につぶされるまでの期間には、反対運動は国粋主義者だけが行なったのであった。大正時代には、自由主義時代といえる時代に、国粋主義者ならぬ文化人たちの反対で葬られた。これはなぜか。
明治時代は、まだ、江戸時代までの混乱したカナヅカイが広く行なわれていた。世間一般の人々は、その後も混乱した使い方をしていたが、刊行物は、専門家の校閲を受けて出るようになった。文化人たちは、その旧カナヅカイによる一定の表記法に見なれ、視覚映像を作っていった。コトバの記号化という点で、漢字の場合と全く同様の、当然の心理的現象である。しかし、大正時代は、自由主義的言論が重んじられた時代であったから、自由人たちのそうした現象による、客観性のない主張が、まかり通ったのであった。すなわち、その人々が旧カナヅカイを守ろうとしたことは、旧カナヅカイの合理性が支持されたためではなかった。どんな表記法にも、年数がたてば、しぜんに生じる、コケのような保守性の作用なのであった。
戦後の一連の国語政策は、強い革新の空気の中で生まれた。不服の人も、その空気の中では強く反対することをはばかった。現代かなづかいもその一つであったが、実現してみたら、その合理性がハッキリ認められた。今日でも旧カナヅカイ復活論がないことはないが、問題になるほどのことはない。
旧カナヅカイを見なれた人は、「かほ」が美しくて「かお」はみにくいと思う。しかし、現代かなづかいで育った人たちには「かほ」はグロテスクに見える。どちらも主観である。
漢字を、将来とも国字として用いるべきだと、いろいろの理由をかかげて主張する人がある。漢字をやめるとしたら、そのあとをどうするかということとの比較論ならスジが通る。そうではなく、漢字を絶対のものとして主張するのも、個人的な視覚映像を、客観的な「真理」だと思いこんでいるためである。漢字では「馬」の4本足も、「鳥」の2本足も、「魚」の1枚の尾も、おなじように4個の点で表わしている。そのような字体に、べつにムジュンを感じないとしたら、その事実は、「かほ」を美しいと感じる以上に、有力な論証になる。
明治のはじめに、文部省が教科書に口語文をかかげたら、国学者にとがめられて取りさげたことを、まえに紹介した。
しかし、口に語るコトバこそ、コトバの本体である。文語体も、もとは口語体を写したものである。こまかな経過はあるが、口のコトバが変わってきても、それに従って改めることを怠り、あるいは、ことさらに特殊な表現に権威を求めて、いつまでも古い形を用いているのが文語体である。
口語体で文章を書くということの経過には、「鳩翁道話」など、さかのぼれば、いくつかの文献があるが、明治になって、これを一つの主張として実行した最初の人は、1870年(明治3年)に、口語体で「真政大意」を著わした、加藤弘之である。かれは、のち、東京帝国大学総長にもなった知識人であった。しかし、そうした有力者の努力によっても、当時のいわゆる「言文一致」の運動は、ように広まらなかった。そればかりか、さきに述べたように国学者の強い反対を受けた。法令や公用文に口語体を用いるようになったのは、戦後のことである。
口語体は、文学作品に、最も早く、最も広く取り入れられた。その口火を切ったのは、1887年(明治20年)の二葉亭四迷の「浮雲」であった。この作品は口語体ならではの、こまかな心のヒダを描き、近代日本文学の新しい道を開く役わりを果たしたものである。
しかし、それなのに、文学作品に口語体が定着するまでには、さまざまのカベがあった。尾崎紅葉ははじめ口語体を非難していたが、1896年(明治29年)には口語体の「多情多恨」を書き、今日ひろく行われている「である体」をあみだした。しかし、紅葉は、最後の大作「金色夜叉」を、また文語体で書いた。
大正時代に進むと、文学作品はほとんど口語体一色に塗りつぶされた。しかし、政府は動こうとしなかった。1919年(大正8年)に、口語体の熱心な主張者の中橋徳五郎が文部大臣になり、同じ主張者の南弘が文部次官になった。ふたりは力をあわせて、公用文の口語化につとめたが、わずかに文部省関係の文書の一部に実行することができただけであった。
法令・公用文に口語体が用いられるようになったのは、戦後の「日本国憲法」が口語体を採用してからのことである。それも、必ずしもすらすらと採用されたのではなかった。はじめに発表された「憲法要綱」は明治憲法と同じ文語体であった。「国民の国語運動連盟」が、これに対して口語化の運動を起こし、それにより書き改められたのが、日本国憲法の、いま見る姿である。そして、これが、あらゆる法令・公用文の文体の口語化の道を開いたのであった。(憲法の口語化の経過には、なお注目すべきことがある。それは改めて第5章に述べる。)
以上の、文体の経過に示されていることから、カナヅカイ問題の経過に示されていることと同じものを、さらに深刻に学びとることができる。文章は、口に語るそのままを書かなければならないと決めるのは、一方的であろう。けれども、口のコトバと文との間に、無用の差別を設けることは、不当である。すべての思考は口に語るコトバの形で行われる。したがって、思うことを具体的に表わす方法は、口語体のほかにない。文語体は、いかめしいヨロイを着せて示すことであって、そういう方法が効果をあげるばあいがあるとしても、それは、コトバを表わすという、文学本来のあり方ではない。
このような理論は、カナヅカイ問題よりも、さらによくわかるはずのものである。それだから、文章の専門家たる文学者たちが、さきんじて口語体を採用した。政府にも、内部に熱心な動きがあった。それなのに、文語体を引退させるには敗戦を待たなければならなかった。黒川真頼以来、あれだけ反対のあった口語体が、今日では広く使われている。そのために、なんの不都合も起こっていない。
漢字制限論は、福沢諭吉が1873年(明治6年)に出した「文字之教」にはじまる。輸吉は、この本の巻頭に、カナ専用が理想であるけれども、それはすぐにはできないから、いまとしては、「ムツカシキ漢字ヲバ成ル丈用ヒザルヤウ心掛ルコトナリ」と述べている。そして、輸吉は、終生、この方針を守った。しかし、この主張には、すぐに、西周(ニシ アマネ)が反論した。かれは、山縣有朋に起用されて、民権論者と対決した人物であった。
以来、この問題にもさまざまな経過があるが、できるだけ漢字を制限することを必要としたのは、教育界とならんで、新聞界であった。1921年(大正10年)には、有力新聞社15社が連名で、全国の新聞社に漢字制限を呼びかけ、これが広く支持されて、そのあと、新聞はできるだけ漢字を制限するようになった。
その翌々年、文部省臨時国語調査会は「常用漢字」として1,960字を発表した。しかし、これに対しても、右翼ははげしい非難をあびせた。そしてそれは、年とともに激しくなっていった。その事実は、あとに述べるが、ここでもまた、中国の文字を尊重し、国産のカナをしりぞけるという、理屈にあわないことが大義名分として唱えられたのであった。
カナモジカイは、漢字制限問題については、国民教育でムリのない字数、そして、国民だれもが読める新聞その他の一般図書を目ざすべきだと唱えた。そして、1935年(昭和10年)に、この年間の5種類の新聞について、それぞれの漢字がどんな使用度数と使われ方をしているかを調べた。また、尋常小学校卒業時の児童がどれだけ漢字を書けるかを、12校について、全児童に7日間をあてて調べた。そして、その結果にもとづいて、漢字500字制限案を作り、これによって、いろいろの著作物を作って世に問うた。これは、とくに、戦後に制定された「教育漢字」の立案に役だてられた。
しかし、右翼の攻撃は、戦時になってますます激しくなった。1942年(昭和17年)に、国語審議会は、そうした空気を取り入れて、「標準漢字表」というものを作った。その中には「特別漢字」というものがあって、その内容というのは、教育勅語だけでなく、皇室典範、憲法、軍人勅諭、宣戦詔書から、歴代天皇の追号の漢字までを集めたものであった。
ところが、右翼の人々は、これをも不都合だとして頭山満らの名を連ねて文部大臣に建白書を出した。その文章は「国語の問題は鞏固なる国体観念に照らして講究せざるべからず。」という書きだしで、この新しい漢字表を「断じて許すべからざる国体非違思想を表明せるもの」とし、審議会を批判して「衆を恃めるカナモジ会員等の発言盛んにして」と言っている。そしてさらに「国語運動に名を藉りて行はれたる非国家思想の有無、思想謀略の存否如何を明確にせんことを要す。」と要望している。
漢字制限が足なみをそろえて実行されるようになったのは、これも戦後のことである。「当用漢字」として、1,850字を、またその中から、義務教育で書きとりをさせるものを「当用漢字別表」、俗称「教育漢字」として881字を選んだ。そして、別表以外の969字は、中学を出るまでに、読み方だけは習うようにしたのである。
この2本だての制度は、それぞれの字数はともかく、カナモジカイの年来の主張の「読み書き分離論」が実現されたものである。国字問題は、時の流れの中で、つねに文化を受けつぎながら解決の方向に進まなければならない。文字を読む能力は、読む必要のある文書が、どのように書かれているかということから割りだされなければならない。新聞・法令その他が当用漢字を実行するなら、国民一般は当用漢字が読めなければならない。しかし、自分が書くばあいは、必ずしも、古い世代の人たちの用字法のままに書かなくてもよい。たとえば、「窃盗」というコトバは「ぬすみ」ですむけれども、古い習慣の人たちは、「窃盗」と書きたいだろう。そうすると、一般国民もこの字は読めなければ困る。しかし、自分が文章を書くばあいは「ぬすみ」ですまされるから、「窃盗」という漢字は、読めさえすれば、書けなくてもよい。学習上の負担は、読めるだけに指導することと、書くこともできるようにすることとでは、非常にちがう。
漢字は、このような教育方針をたどってゆけば、そのうちに、読む必要のある字も少なくなっていく。だれもが「窃盗」と書かなくなれば、もう、読む能力も必要がなくなるからである。げんに、今日では、「窃」の字を読む必要はあるとしても「竊」の字は、もはや読む能力はなくても困らない。この字は、じつは「窃」の字の本字である。「窃」は、いわゆる俗字が広く通用するようになったものである。「盗」もまた、俗字が通用するようになったものである。元の字は「次」カンムリではない。ヨダレという字で、それは「サンズイ」に「欠」である。「窃」も「盗」も、いわゆる本字を知っている人は少ないと思うが、しかし、それで、べつに困っていない。「窃」も「盗」も当用漢字に入れてあるが、教育漢字から省かれている。
当用漢字自体も、古いナラワシを大きく改める方針になっている。たとえば「殷賑」と書かなくても「にぎやか」ですむから、この漢字2字を省いている。というようなことを、どんどん取り入れている。さらに、「挨拶」や「慇懃」のような、カナでもわかる漢語は、漢語のままをカナで書くことにして、漢字を省いている。当用漢字を決めた当時は、漢語のカナ書きを非難する人もあったが、いまでは、もう見慣れて、ふつうのことになっている。
国立国語研究所の調べによれば、1956年(昭和31年)の1年間に発行された90種の雑誌に使われた漢字の82パーセントまでは教育漢字、14パーセントは教育漢字外の当用漢字、あわせて96パーセントまでは当用漢字でまかなわれているという。
戦前は、小さな印刷所でも、1万字の漢字の活字がなければ仕事にならなかった。いまは、新聞もほとんどの雑誌も、固有名詞など特別なもの以外は、当用漢字ですんでいる。
それでは、2,000字ちかくの当用漢字の程度のものは、永久に実用上の必要があるものだろうか。妥当な方法と、必要な年月を与えれば、漢字は、実用の世界からは取りのぞくことができるのである。こまかな点については、第5章で改めて述べるが、いちばんカベになるのは、人々の主観的な論拠からの反対である。それらの正体は、以上に述べた、歴史上の事実から、正しく批判されなければならない。
文字は無生物である。自分で変化することはない。変化させるのは人間である。将来、どうなるかということは、今後の人々がどうするかによって、どうにでもなる。あるいは、少しも変わらないことにもなるし、昔にもどることもありうる。
カナノヒカリ第555号「国語国字問題の歴史的背景」参照
カナモジ専用論を唱えた人としては、さきにふれた新井白石や、賀茂真淵、前島密、福沢諭吉などがあるが、運動団体としては1983年(明治16年)に、大槻文彦、三宅米吉、肥田浜五郎、小西信八らの努力でできた「かなのくわい」が最初のものであった。くわしくいえば、この足がかりになった小団体は、その2年ほど前に生まれていた。この「かなのくわい」は、ひらがな専用主義の団体であった。
「かなのくわい」は、有栖川威仁親王を会長にいただき、5年後には会員が5,000人ほどになった。しかし、そのころから急に勢力がおとろえ、やがてこの団体は姿を消してしまった。その理由としては、国粋主義的な力と革新的な力とが対立し、カナヅカイをめぐる論争があったことなども指摘されている。しかし最大の理由は、ひらがな専用では、1字1字を拾い読みしなければならないために、読みにくく、実用にならないという点にあった。ひらがなは、最もよく知れわたっている文字であり、また、学びやすいことも大きな長所であるが、読みにくいということは、文字として致命的な欠点である。
かなのくわいが行きづまったころ、新しい文字を考案すべきだという意見がしばしば現われ、またその具体案を作って普及につとめた人も、いくにんも出現した。これらを「新国字論」という。国字問題に対する自覚の高まりによるものではあるけれども、世間に通用しないから広まるはずがなく、通用しないから学ぶ人もないということで、すべて失敗におわった。
文字として通用するためには、世間に通用するものであって、しかも、読みやすいものでなければならない。読みやすさのためには、見なれれば、1語1語がひと目に読みとれるものでなければならない。漢字は覚えてしまえば「犬」も「猫」もひと目でわかる。英語の“dog・cat”も、見なれれば一つの「語形」として読みとることができる。
世間にすでに知れわたっている文字で、漢字以外にひと目に読みとれる用字法としては、カタカナを横にならべる方式が最も理想に近い。このことを、最初に唱えたのは、末松謙澄である。謙澄は、「かなのくわい」が最も勢いのあった1986年(明治19年)に「日本文章論」という本を出して、自分の説をくわしく述べた。謙澄は、ケンブリッジ大学出身で、文学博士と法学博士の学位をもち、晩年には枢密顧問官となり子爵に列した人である。その見識の高さはさすがと、おどろかされる。
謙澄の論旨は、要約すると、つぎのとおりである。
1.カタカナを横書きにすること。
2.分かち書きを採用すること。
3.カナヅカイは、表音式とすること。
4.字体は、横はばをせまくして密着させること。
5.それぞれの文字は、ローマ字のように、上に出る線のあるものや下に出る線のあるものなど、特色を与え、それによって、それぞれの語に語形を与えること。
末松謙澄の「日本文章論」は、カナノヒカリ第155号にぬきがきを出してある。
しかし、謙澄の説を、そのまま受けいれて運動を進めようとする人は、久しく現れなかった。
謙澄と同じ主張に立ち、これをさらに発展させ、綿密、着実な研究と運動を進めたのは、カナモジカイの創立者の山下芳太郎氏であった。(カナヅカイ問題だけは、山下氏は、論争にまみれるのを避けるために、当分ふれないとしていた。当時としては賢明な方針であった。)
山下芳太郎氏は、1871年(明治4年)11月13日に、エヒメ県の士族、山下興作の長男として生まれた。1992年(明治25年)、いまの東京商大の前身の東京高等商業学校を卒業して外務省に入り、ボンベイ、ロンドンその他の地を外交官として歴任した。
1901年(明治34年)、実業界に転じ、住友本店副支配人となリ、1906年(明治39年)第一次西園寺内閣の首相秘書官となり、翌々年、官を退いて住友神戸支店支配人および住友銀行神戸支店支配人となった。のち、しだいに進んで住友総本店理事になった。
山下氏は、1914年(大正3年)に、時事新報にカナモジ論を寄稿している。個人的に国字問題を考え、字体などを研究していたのは、そのかなり以前からのようであるが、ようやく確信をいだいて、1920年(大正9年)11月1日をもって、「仮名文字協会」を設立した。これが、現在の、財団法人カナモジカイの前身である。
カナモジカイができてからは、カナモジ運動は、カナモジカイの運動ひとつにまとまって今日におよんでいる、といってよい。(くわしくいえば、ちょうど、仮名文字協会の創立とおなじ年のおなじ月に、成蹊学園の創立者、中村春ニ氏が、ひらがな専用の運動団体として「かながき ひろめかい」を創立した。数年ならずして中村氏がなくなり、しばらくは後継者の運動があったが、やがてそれも姿を消してしまった。)
仮名文字協会の設立と時を合わせて、山下氏は「国字改良論」という本を刊行した。
謙澄の「日本文章論」には、運動の方針や手段のようなものは述べられていないが、「国字改良論」にはその方面のことも細かに気を配って述べられている。
山下氏は、それまでの、さまざまの国字改良運動のような失敗をくりかえさないように注意しなければならないと戒めて、その根本方針として、「進化的、即、漸進的の改革にあらざれば、国字の改良は不可能である。」と述べている。そして、その説明に進化論を例にひき、木に竹をついだような革命的変化は望みえないが、しかし、長い間に魚が進化して鳥になり獣になり人間になったように、一国の言語や文字も、古文書を見ればほとんど他国のものかと思われるほど変化している。言語も文字も、漸進的変化はできるものである、という論旨を、たくさんのコトバを連ねて説いている。このことは、字体の改良についても、運動方針についても、山下氏の一貫した考え方であったし、また、山下氏のなくなったあとも、これは、カナモジカイが、あらゆる活動の根本方針として守りつづけてきたものである。
この態度は、それまでの、国字改良論者には学者が多かったのに、山下氏が外交官や実業家、さらには首相秘書官という経歴の人であったほか、山下氏のあとにカナモジカイの中心的な立場に立った人たちにも実際家が多かったことに、深く関連があるようである。仮名文字協会の創立当時の評議員は、伊藤忠兵衛、金子恭輔、野上俊夫、星野行則、松本健次郎、水島銕也、山下亀三郎の7名であった。のち、さらに、森下博、矢野慶太郎、矢野丑乙、池田敬八、平生釟三郎、片岡安、日向利兵衛の諸氏が加わった。
創立当時は、「漸進的改革」の立場から、漢字制限と、横書きの普及に、とくに力を注いだ。機関誌「カナノヒカリ」の創刊当時(1922年)の記事を見ても、軍隊用語のむずかしいことを批判したり、小学校の教科書の文中にある漢字を問題にしたり、という類の記事が多い。講演会などもしばしば開き、当局への建策を活発に行なった。
漢字制限については、良識のある人々は、字数についての意見のちがいはあっても、趣意には賛成した。前に述べたように、1921年(大正10年)に、有力新聞15社の、漢字制限についての呼びかけが行なわれ、また、文部省が臨時国語調査会を設け、その翌々年には「常用漢字」を発表した。仮名文字協会は、つねに、そうした動きの先頭に立って活動した。
しかし、横書きの普及は、きわめて困難であった。当時は、各地の電話番号簿も、各会社の決算書も、すべてタテ書きで、漢数字(一ニ三……)を使っていた。横にしか書けない屋根看板などは、右から左に読むように書いていた。左からの横書きは、国粋主義者たちから、西洋かぶれだとか、左傾思想によるものであるとして非難されたものであった。ようやく、しだいに左からの横書きのものも現われるようになったら、戦時色が強まるとともに、各新聞の広告欄さえ、左からの横書きのものは受けつけないようになった。もちろん、記事の見出しも、写真の説明も、横書きのものはすべて右から書かれた。
1927年(昭和2年)、鉄道省は、カナモジカイからの建議により、4月7日に、全国の駅名札を、左からの横書きのカタカナにすることを決定交付した。ところが、その直後、内閣が変わり、国粋主義の小川平吉氏が鉄道大臣になると、ただちに、もとの右からのひらがなに改めさせた。
公用文が左からの横書きに改められ、民間の実務文書もこれにならって左からの横書きになったのは、戦後のことである。
カナヅカイの問題は、さきにも述べたように、山下芳太郎氏は、ふれないことを方針にしていた。しかし、それはもちろん、時期の問題であった。1931年(昭和6年)カナモジカイの会員有志が中心になって、「発音式仮名遣期成同盟」というものを作り、カナモジカイ直接の事業ではない形にして、この運動を始めた。この運動は、その時代になっても、やはり予想もしなかったほどの激しい反対論を呼び起こした。そして、カナヅカイ問題の解決もまた、戦後にまたなければならなかった。
こうした運動が、それぞれに時を得たものであったかどうかは別として、カナモジカイが、カナのことだけにとらわれずに、社会全体の国語国字の、いわゆる「漸進的進化」を目ざして活動してきたことは、すなわち、創立のときの大方針を守りとおしてきたことなのである。
山下氏ら、とくに実業家の仮名文字協会の幹部たちは、カナモジのタイプライターに、カナモジ普及の大きな期待をかけていた。会の創立当時からの評議員の星野行則氏は1922年にアメリカに行ったおり、レミントン社を手はじめに、タイプライター製造会社のいくつかを訪問し、カナモジのタイプライターを作ることについて希望を述べ、意見を問うてみた。
すると、アンダーウッド会社の設計部長のスチックネー氏が、星野氏の意見に強く共鳴し、自分も、日本ではカタカナの横書きのタイプライターを採用するほうがよいと、つねづね思っていたと答えた。そして、かれの蔵書の中から、日本の文字に関係する本を出して見せた。星野氏は、まずその本の数の多いのにおどろいた。江戸時代以前の和本もたくさんあった。
スチックネー氏は、横書きカタカナの長所として、次の4点をあげた。
第1 日本人すべてが、現在ただちにカナモジを読むことができる。
第2 カタカナは、みな、簡単な字画である。
第3 ローマ字は、行の下の半分をかくしても読める。すなわち、人は、横に並べた文字を読むとき、たいてい上の半分だけを見て読んでいるのであるが、カタカナを横に並べ、その下の半分をかくして見ても読める。この点においても、カタカナは文字の資格を立派に有している。
第4 カタカナは、1字1音であるから、字の種類はローマ字の倍ほどあるが、実際これを使用するときには少ない字数でコトバが写せる。英・仏などでは、どんなに熟達しても人の話をそのままタイプすることができない。必ず一度は速記をして、それをタイプする必要がある。カナタイプで日本語を写すなら、速記なしに、たいていの談話を印字することができるという見こみがある。
この点において、日本のカタカナは、世界に類のないよい文字で、自分らがローマ字で英語を書くよりも日本人がカタカナで日本語を書くほうがまさっていると思う。カナモジのタイプライターを作ったら、必ず、将来、世界をおどろかすような働きをあらわすだろう。
このスチックネー氏の説を、山下氏は星野氏を通じて聞いて、いっそう希望を強くし、カナタイプを作るについての、キーの配列と、字体について、熱心に研究した。
〔以下略〕
山下芳太郎氏1922年(大正11年)4月に住友総本店理事の職を退いた。後半生をカナモジ運動にささげる決意であった。
その年の8月、国際労働会議に、日本の資本家代表として出席することになり、ジュネーブにおもむいた。ところが、その会期中に健康が不調となり、診断の結果、胃ガンと判明した。医師は、絶対安静の必要を説いたが、山下氏は、会議の最後まで参加したあと、アメリカに渡り、1923年(大正12年)1月4日、ニューヨークに着いた。病苦をしのんで、連日、カナモジタイプライターを作ることの打ちあわせをし、心残りのないまでに手配をすませて2月9日帰国した。すぐ福岡医科大学病院に入院し腹部切開を受けたが、すでに病勢は手術不可能であった。執刀の三宅博士がそのことを告げたら、山下氏は平然として、自分の患部を鏡に写して見せてもらった。そのあと、死を目の前にした人として兵庫県アシヤの自宅に帰り、1923年(大正12年)4月7日になくなった。
病中、見舞客の人々に、山下氏は国字改良の急務を、熱心に、快活に語った。人々が、病気のつのることを心配して止めようとすると、山下氏は、「このような運動に生命を費すことこそ意義のあることではないか。」と反論した。話は、しばしば、人生いかにあるべきかの哲学的な問題にもおよんだ。人々は、いまさらのように、山下氏の人格と情熱に打たれた。臨終のおりには、仮名文字協会の評議員たる、星野行則氏と伊藤忠兵衛氏がまくらもとにあって、あとのことを引きうけると誓った。
山下氏が最後に書き残したのは、開腹手術の直前に、国字改良の必要を人々に訴えた一文であった。
星野氏、伊藤氏をはじめ、おおぜいの人々が、山下氏の国字論に共鳴し、またその熱意に打たれ、カナモジ運動を受けついだ。山下氏の死後、会の名はカナモジカイと改められ、星野氏は理事長となってその後半生をこの運動に献身された。戦時中、カナモジカイが取りつぶしになるのを防ぐ意味をふくめて、財団法人にし、会長制を設けて組織を固め、下村宏氏を会長に推した。
山下氏が、1914年(大正3年)に、時事新報にカナモジ字体の案として、試作した活字を発表したことは、まえに述べた。しかし、この字体には山下氏自身が不満をいだいていた。語形を組みたてる力がとぼしいからである。
のち、1916年(大正5年)に、べつの活字を試作した。しかし、これも語形を組みたてる力にとぼしいものであった。
つぎに、平尾善治氏に頼んで、語形を組みたてる力のすぐれた字体を作った。その点はよくできたが、ふつうの字体とかけ離れているという批判があった。ついで、内閣印刷局の猿橋福太郎氏に頼んで、いく種類もの活字を作った。これも語形はよくまとまるが、ローマ字ふうの感じが強くて、なじめないという批判がでてきた。
山下氏は、アメリカに渡ったとき、スチックネー氏とのあいだで、字体について大いに論じあい、その共同作品として「アンダーウッド式、カナモジ」を生みだし、これを最初のカナタイプに取りつけた。これも、ローマ字ふうであるということから、気にいらないという人もあるが、しかし、非常な魅力を感じる人も少なくない。平尾式、猿橋式とたどって到達したものとしては最高の字体といえよう。
以上の、平尾式と、猿橋式と、アンダーウッド字体の三つ〔原著には、それぞれの字体が掲げられているが、ここでは省略した〕には、共通する要素がある。これは、山下氏の創案によるものと察せられるが、以来、今日においても、それは、法則として守りつづけられているものである。それは、「肩線」と名づけられた。
アンダーウッドの字体の例として掲げたものについて説明すると、「ア」の上部の水平線の高さは、「ウ・エ・オ」などの上部の水平線の高さとそろっている。大多数のカナが、上部に水平線を持っているのであるが、それらの水平線は、すべて同じ高さになっている。そのため、これがおのおのの文字を結びつける働きをする。たとえていえばオケのタガのようなものである。
それから、「ウ・オ・カ・キ」などの上部のタテの線は、肩線から突き出ている。「ア・エ」などは肩線が最も高い部分になっているので、「ウ・オ」の類と「ア・エ」の類とでは文字の高さがちがっている。こういうことは、これまでのカナの字体の観念とちがうのであるが、これによって、それぞれの語形に、それぞれの特色が与えられる。末松謙澄が唱えた、「ローマ字の特色を取り入れて語形ができるようにすべきだ。」という意見は、このようにして実現されたわけである。
謙澄は、下にも出る線を設けるべきだと唱えた。平尾式では「タ・フ・ラ・リ」などを、下に出る線のある形にした。猿橋式でも、初期の活字は「ア・ウ・サ・タ・チ・リ」などを下に出した。しかし、その後のものは、しだいに下に出る字を少なくし、猿橋氏の最後の設計によるものは、下にでる字を「リ・ヲ」だけにしている。これが、さらにアンダーウッドの字体になると、下に出るのは「リ」1字だけになっている。
下に出る線がこのように少なくなっていった理由としては、考えられることが三つある。
第1は、ローマ字のようにボトム〜ライン〜セリフをつけることができないために、下に出る字を多くすると、下線がそろわなくなる。(ボトム〜ライン〜セリフというのは、“n・m”などの下部の水平線のこと)第2は、上半分だけで読めるように設計されれば、下の方には特に変化を与える必要がない。第3は、タイプライターでアンダーラインを引くのには、下に出ている文字は、なるべく少ないほうがよい。以上のような考えから、その後の設計になる字体は、ほとんど「リ」だけを、それも、ほんのすこし出している。また、すべての文字を、下には出さない活字もできている。なお、猿橋式ではカナモジ字体にローマ字のようなボトム〜ライン〜セリフをつける試みもなされたが、これは一般に喜ばれないため、その後のものには採用されていない。
1925年(大正14年)に、カナモジカイでは、森下博氏のご厚意で、各新聞に、カナモジ字体の懸賞募集を発表した。大和幸作氏が1等当選し、ただちにそれを活字にした。
これは、平尾式や猿橋式よりも、はるかに、一般のカタカナ字体に近く、しかも、かなりよく語形を組みたてる。しかし、一般のカタカナと同様に、いかにも直線的で、やわらかみに乏しい。「チ・リ・テ・ナ」などの下部をカギ形にしたのは一つの創意であるが、それが、いっそう固くるしくも見える、などの批判があった。
なお、この当選字体では、「リ」をもボトム〜ラインにそろえ、下にでる字は全くなくしている。
カナモジのタイプライターは、はじめはアンダーウッドだけで、その字体は、山下氏とスチックネー氏の合作のものであったが、まもなく、スミス〜コロナのタイプライターに、黒沢商会が、電信用の字体を横書きにしたものをつけて売りだした。しかし、字体についての批判が多かったらしく、のち、アンダーウッドのカナ字体に改めた。
1928年(昭和3年)に、レミントン社が、カナモジカイの当選字体によるカナタイプを作った。
その同じ年に、ローヤル社が、マツサカ タダノリに字体の設計を頼んで、カナタイプを作った。
平尾式以来の経過をたどると、字体は、しだいに平凡なものになっていったといえよう。そして、ローヤルの字体は、もはや、世間一般の字体の一種であるといえる。
ただし、これも、もちろん肩線の法則を守っているが、それ以外に、さらに一つの新しい要素を加えている。そして、これもまた、以来、すべての字体に、法則として取り入れられるようになった。それは「中線」というものを設けたことである。ここに掲げた例〔ここでは省略した〕でいえば、1行目の「カナモジ」の「モ」と「ジ」の、肩線の下の水平線が同じ高さになっている。
つぎのページに掲げた図〔ここでは省略した〕で、黒くつぶした部分は肩線を示したものであり、シマ目の部分が中線を示したものである。中線には「エ・チ・テ」その他の水平線だけでなく、各文字の力点の中心になる個所を、なるべくこの高さに位置させることにしたのである。この、中線を設けたことによって、語形の結びつきは、さらに強くなった。中線が設けられてからは「肩線」は「上線」(ウエセン)と呼ばれるようになった。そして、ボトム〜ラインは「下線」(シタセン)と呼ばれている。
なお、下線は、セリフを付けないけれども一線にそろって見えるように、錯覚の理論を取り入れて、「エ・ニ・ユ」などの下の水平線は、わざと一般の字よりも高い位置にしてある。また、上線から出る線は「上エダ」、下線から出る線は「下エダ」と呼ばれるようになった。
漢字とまぜて使えるように作った活字のほかに、カナばかりで印刷するものとして、そして、カナを読みなれた人には読みやすいものとして作られた活字もある。マツサカの作った「ツル」と、イナムラ シュンジ氏の作った「スミレ」が、それである。そして、これらを使って、いくつもの、カナモジの出版物が出された。
この「ツル」や「スミレ」は、それぞれの文字に特色をあたえ、語形に変化をつけるようにくふうされている。しかし、それだけ在来の字体とのちがいが大きいので、見なれない人には読みにくい。ただ、将来は、しだいにこうした方向に進歩するものと思われる。
戦後になってから、いろいろなカナモジ活字や、タイプライターその他の、カナモジを取りいれた事務機ができたが、戦後に出現したそれらの字体は、ほとんどが、ミキ イサム氏の設計によるものである。
〔以下略〕
カナモジカイが、カナヅカイ問題についてとってきた態度はすでに述べたが、表音式にも、こまかな点ではいろいろな方式がある。その中の、どの方式を用いることも、カナモジカイとしては自由にしている。実情は、現代かなづかいのままよりも、助詞に「ワ・エ」を用いる人が多い。長音には、「−」や、小さな「ゥ」を用いる人もある。
分かち書きも自由にしている。実情は、助詞をすべて前につづける「文節式」はほとんど使われず、助詞をすべて独立させる「単語式」か、「声調式」という方式が用いられている。声調式というのは、和歌俳句などの句切り方や、発音上の調子(プロミネンス)に合わせたもので、カナ1字の助詞は前につづけるが、2字以上の「から」や「ばかり」、また、1字助詞がつづく「ので」や「にも」は独立させる。
政府が「国語政策」と言えるようなものを打ちだしたのは、戦後のことである。当用漢字・音訓表・新字体・教育漢字・現代かなづかい・新送りがな、それから公用文の口語化や横書きや、地名・人名をカナで書いてもよいことにしたなど、すべて戦後のことである。
政府が、戦後このようなことに力を注いだのは、いうまでもなく、敗戦のあとの日本を、民主的な文化国家として立て直そうという、国をあげてのもりあがりをふまえてのことであった。しかし、もし、明治開国以来の、先覚者たちによる国語運動の積み重ねがなかったら、これは、望めないことであったろう。しいてやろうとしても、それを受けいれる世論の足なみもそろわなかったろうし、具体的に、どこからどのように手をつけていくべきかという計画もたたなかったろう。だいいち、政府だけが動こうとするはずもなかった。明治開国から、約80年間にわたって、地下水のように、ほとんど日の目も見ぬままに流れを絶やさずにきた運動があったればこそ、あの時期にあれだけのことができたのであった。
この一つの実例は「日本国憲法」が口語体を採用した経過にも見られる。法制局は口語化を望んだのであったが、国民の側にそういう要望が出るまでは、その方向に動きだすことができなかった。その時期に「国民の国語運動連盟」が民間団体としてでき、憲法口語化の運動を起こした。その結果、いったん、文語体で憲法草案ができていたのを、政府は書き改めて口語体にしたのであった。
それでは、この連盟は、戦後に、出しぬけに現われたのかというに、そうではない。戦前、戦中に、一部の人々から非難されながら熱心に活動してきた同志たちが、希望を新しくして立ちあがったものであった。カナモジカイは、その連盟の事務局を引き受けた。そしてカナモジカイの会員たちは、憲法の口語化が決まったあとも、ずっと労力ホウシをして、この団体をもりたてたのであった。
国語シンギ会の動きも、その一つの現われである。国語シンギ会は戦前からあった機関であるけれども、終戦までは目にたつような実績をあげることはできなかった。それが、戦後、大きな権限を持つようになり、あれだけの仕事をすることができたのも、多分に、国民の国語運動連盟の働きによるものであった。この連盟のスイセンによる国語シンギ会委員も、いくにんもできた。
カナヅカイ問題のことは、第3章と第4章に、いちおう述べた。が、述べ残した記録がある。1936年(昭和11年)国語シンギ会は、はじめてカナヅカイ問題を取りあげることになった。旧カナヅカイに最もなやまされているのは小学校の教師たちである。しかし、時代はすでに戦時色にぬりつぶされていた。国語問題、とりわけ伝統論のやかましいカナヅカイ問題に、教師たちが立ち向かうことは、非常にむずかしかった。そこで、カナモジカイは、全国のサンプル的な形の運動として、東京とヒョウゴ県の小学校教師たちに、カナヅカイ改正建議のショメイを求める活動を起こし、ほぼ1年間の努力をつづけて、1,760名のショメイを集め、あくる1937年(昭和12年)6月に、これを文部大臣に提出した。
その時は、これは、にぎりつぶしの形にされたのであったが、敗戦後、現代かなづかいを実現させることができたのも、このような経過が大きなささえになったからのことである。民主主義の革命ともいえるような時期であったから、保守主義からの反対論はおそれる必要がなかった。しかし、すでに述べたように、それまでは、保守主義とは関係のない文化人たちが、かなづかい改正に強く反対していたのであった。
政府が、公用文に横書きを採用し、また、地名や人名をカナで書いてもよいことにしたのは、公用文改善協議会の答申によったことであった。この機関の中で、そのことをおし進めるのに中心となって働いたのは、民間側委員として参加したマツサカ タダノリであった。けれどもそれは、いわばリレーの最後のランナーになったにすぎない。その前に、多くの同志、先人の、多年の努力があった。ウエノ ヨウイチ氏は科学的管理法の指導者として、ヤマシタ オキイエ氏は行政管理庁などの要職にあって、ホシノ ユキノリ氏や、イトウ チュウベイ氏は実業界での運動をつづけた。固有名詞のことでは、ミヤケ マサタロウ氏が、カタカナで書いた固有名詞が有効か無効かダイシン院で争って勝った。
名門校、甲南学園の教職をなげうってカナモジカイの仕事に専念し、創立から、終戦後なくなられるまで運動を指導したイナガキ イノスケ氏の名も、わすれてはならない。
これからの国語の理想について考えようと言っても、ある人々は「国語や国字は、運動の力などで、どうにも動かせるものでない。」と答える。たしかに、わずかばかりの運動で動かせるものではない。しかし、歴史の歩みが必要とする方向に、同志たちが力をあわせて進めば、その人数は国民全体から見ればケシつぶほどの存在であっても、歴史を大きく動かすことを、われわれは、これまでの事実について学びとることができるはずである。
国語国字は、とにかく、ここまで改善されてきた。しかし、理想には、まだ、ほどとおい。ただし、どんなに不合理なことがらも、それが不合理であることを知らせる者がいなければ、人々は気づかない。それは、だれもが同じ不合理の中にいるからである。
国字問題の中心になっているのは、漢字をどうするかということである。当用漢字が決められ、またそれが相当に行きわたったことによって、ともかく2,000字以内にまで制限することに成功した。それでは、当用漢字は、今後さらに減らすべきか、それとも、いつまでもこのままの字数でいくべきものか。
政府としては、これでよいとも言っていないし、ゆくゆくはさらに制限するつもりとも言っていない。その名のように、ともかく「当用」、すなわち、さしあたり、このように処置したと言っているだけである。しかし、われわれは、国民日常の生活が、漢字を使わずにすまされる時代をつくることが理想だと考えている。その理由は、すでに、いろいろの角度から述べた。ただ、いますぐに漢字を全部やめるということはできない。それでは、どのようにすれば、そういう理想を実現することができるか。
当用漢字は、何万字という漢字の中から1,850字だけを選んだのであるから、ずいぶん思いきった制限だと見られないこともない。しかし、この選び方には、それまでの不合理な用字法の慣習が、かなり多く取り入れられている。この中から、小・中学校において、書きとり能力を要求されているのは、半数以下の881字である。この「当用漢字別表」、すなわち「教育漢字」と言い慣らされている漢字は、それだけでも、ひととおりの表現はできるように選ばれたものである。
この「第5章」の文章は、じつは、その「教育漢字」の表現能力を示すことを一つの目的にして書いたものである。この章に使っている漢字は、その、881字のワクの中のものだけである。
現在の1,850字の当用漢字を、いきなり、教育漢字の程度に減らすことができるか、それとも、そこへ持っていくのには、いくつかの過渡期の処置を必要とするかはともかくとして、この第5章の用字が格別実用性を欠いていないと認められるなら、1,850字におよぶ現在の当用漢字には、なお多くの、制限することのできる文字があることが理解されるわけである。
〔以下略〕
台風のあったとき、ラジオやテレビのニュース放送では、以前は、「トウカイ カオク」とか「リュウシュツ キョウリョウ」とかいうコトバを使ったものであった。いまは、おなじことを「たおれた家」とか「流れた橋」とか、表現を変えている。これは、漢字を見せられなけばわかりにくいコトバは、ラジオやテレビでは、ぐあいが悪いからである。
コトバを、音声で伝えるということは、以前は、肉声をそのまま伝えることに限られていた。それが、まず、電話の発明によって、肉声を電波に変えることが行なわれるようになった。さらに、マイクやスピーカーを利用するさまざまの新しい伝達方法が開発されて、もはや、伝達ということが、文字と音声と、どちらがおもか、わからないまでになった。のみならず、音声を文字に変えたり、文字を音声に変えたりするということも、さかんに行なわれるようになった。そして、このようなことは、将来ますますさかんになると見てまちがいない。
第2章にくわしく述べたように、同音語には、前後の関係で判断のつくものが多いから、すべての同音語を改める必要はない。しかし、ぜひ改めなければならない同音語もまた、少なくない。
カナモジを実行するばあいは、この問題を、いやおうなく解決しなければならないのであるが、しかし、この仕事が、もし、カナモジの実行にだけ期待されるものであったら、とても解決しきれないだろう。かりに、各個人がすぐれた解決案を実行しても、世間からすなおに受け入れられるかどうかは、うたがわしいからである。
しかし、さいわいに、音声言語の文化が、いま急に広まってきている。放送事業をはじめ、スピーカーによる伝達や、カセットの広まりや、さらには音声タイプや、コンピューターによる音声回答など、その広まり方は、どこまで進むのか見当もつかないほどである。そして、これらの、いずれの方面でも、同音語をどのように処理するかということは、カナモジと全く同じ仕事になっている。この問題はこういう方面と力をあわせて解決をはかるべきである。
解決の具体的な方法としては、つぎのようなことがあげられる。
第1は、漢語は、使わずにすむばあいは使わないことである。漢語という感じのなくなったもの。たとえば「大根」とか「せんべい」とかの品物の名、あるいは「たいへん・しんせつ・めいわく」のようなものは、もちろん、すこしもさしつかえない。
第2は、「市立」を「イチリツ」と言い、「私立」を「ワタクシリツ」と言うような、同音語の区別のために生まれた言い方は、どんどん、正式の言い方としてみとめていくことである。「科学」を「サイエンス」と言い「化学」を「ケミストリー」または「ケミ」と言う外来語も、そういう必要からは、進んで取り入れるほうがよい。
第3は、「社則」だの「校則」だの、幼稚園では「園則」だのという、こまかく区別するための言い方は、これからは「会社の規則・学校の規則」のように言うようにすることである。「社則」の類は、第2章にくわしく紹介した、未開社会のコトバのあり方なのだということを知る必要がある。
第4は、「スラスラ」とか「ガッカリ」とかのような音感覚からできたコトバを大いに使うことである。以前は、改まった文章にはこういうコトバは使わないのが作法とされたものであるが、これは理由のないことである。
さいわい、学術用語や法律用語のような、いちばん問題の多い社会のコトバも、戦後は熱心に改善に力を入れるようになってきている。それで、たとえば「波高」と区別するために「波向」は「波の向き」に改められたし、同音語がなくても耳に聞きにくいものは、「播種」を「種まき」に、「釉薬」は「うわぐすり」に改められた。
こうした各方面の努力が、たがいに助けあって進められてゆけば、この問題は決して解決のできないものではない。必要のまえには、どんなカベも無力である。
カナモジ運動の意義には、三つの大きな方面がある。第1は、教育の合理化、またそれと裏おもての、国民の読み書き水準を高めることである。第2は、カナタイプ、その他の事務機を広め、能率を高めることである。第3は、国語をたいせつにすることである。
これらの、どの方面に大きな意義を見いだすかということは、人それぞれにちがう。それは、各自の自由であって、しいて順位をつける必要はない。どの方面に意義をみとめている人も、すべて運動の同志である。失明者への奉仕者としての同志もある。カナの字体のくふうに情熱をかたむけている同志もある。すべて、ありがたい人々である。
ただ、わたしたちの長い経験からみて、わたしたちとしては非常にだいじな方面であると思っているのに、わたしたちと同じように関心を持つ人がきわめて少ない方面があるのが、残念である。それは、いま述べた中の、第3の、国語をたいせつにするという部面である。
国語をたいせつにするためには、なんとしても、はやく漢字をやめなければならない。そのわけは、第1章、第2章に、ある程度述べた。漢字のために、国語は重病人になっている。それなら、すぐに漢字をやめて健康になったらよいではないかと言われるかもしれない。それができるなら、こんな苦労はいらない。が、それは、重病人に、すぐ起きあがって走り回ったらよいではないかと言うのと同じ、無理な注文である。また、それだからいまのままにしておくべきだというのも考えがあさはかである。
このような事情から、この方面のことに気のついている少数の人たちも、たいていは、もう、あきらめてしまっている。また、さらに多くの人たちは、病人であることにも気づいていない。こういうものだと信じきっている。それどころか、国語をたいせつにすることは、不都合なこの現状を守りつづけることだと思っている人が、たくさんある。
それであるから、わたしたちは、いっそう、この方面のことを人々に理解してもらいたい気持ちにかられる。そしてさらに、このことに理解が深まりさえすれば、カナモジ運動に力を注がずにはいられないはずだ、とも思う。が、残念ながら、そこまで深くふみこんでくれる人はきわめて少ない。
教育と、これにつながる、国民の読み書き能力の方面のことは、わりあい理解してもらいやすい。そして、この点を理解すると、熱心な運動家になる人も、少なくない。これは当然のことといえよう。ところが、終戦までは、このことのために熱心なカナモジ運動の同志であった人々が、戦後、数多く、同志の列から去っていった。それは、当用漢字や、教育漢字や、現代かなづかい、その他の一連の新しい国語政策ができてきたために、もはや、運動の目的を達したと判断したためである。
これは、もちろん、ある程度、正しい判断である。しかし、これらの人々の多くは、まだ実情が、たとえばこの第1章で紹介した文部省の全国学力テストや、国立国語研究所が中学生に対して行なった調査の結果のような、ひどいものであるということを、ごぞんじないようである。中学どころか、高等学校を出ても、かれらの多くは、満足に手紙も書けないし、つまらない週刊ザッシなどは読めても、知的な著書は読みこなせない。こうした実態を、わたしたちは、広く知ってもらうために努力しなければならない。
カナモジ運動は、あきらかに、一種の、いわゆる造反運動である。それだから、現状をすべて是認するのが君子の道であると考える人は参加しない。この運動の同志になる人たちは、たいてい、慣習や他人の思わくなどよりも、事がらのよしあしを考えて行動する。しかし、そのことは、しばしば、運動を同士打ちの場にする原因にもなる。
いろいろの細かな点について、自分の思うことが最高であると信じ、同志たちを説得しようとする。なんら私利私欲のためでないから、えんりょがない。共鳴しない者は、うっかりすると適視される。こういうことのために、これまで、なけなしの貴重な戦力が無意味に費やされてきた例もないわけではない。
また、世間には、こんな人もある。運動の趣意はよく理解しているのだが、自分の置かれている立場では具体的に活動するような機会が得られないというので、同志に加わることを見合わせている。しかし、カナモジカイの会員として、会費を出し、名を連ねているだけでも、それは大きな意味のあることである。会の活動のあり方について意見を出すということも、どんな立場の人にもできる有益な活動である。
自分ひとりが参加しようが、しまいが、大局に関係ないと考える人もある。さらには、国民の半数以上が同じ意見にならなければ世の中は変わらないと考え、そして、それほど多くの共鳴者を求めるなどということは、主張のよしあしにかかわらず望めないことだと判断し、それだから運動はむだだと考える人もある。が、それについては第3章と第4章を読めば、歴史の語る事実が、正しい答えをしてくれるはずである。
カナモジ論者と近い考え方の人々として、ローマ字論者がある。以前は、新聞やザッシのうえで、カナ、ローマ字、両方の論者の論争がよく行なわれたものであった。理論をきわめることは、有益なことであるにちがいないが、しかし、そのために、第三者に、相手の主張を非難する点だけ印象づけやすく、共だおれになることの損失を考えると、損のほうが大きかったようである。このごろは、そういうことがなくなり、できるだけ手をにぎりあって活動するようになった。うれしいことである。
漢字制限は賛成だが、漢字をやめることは反対だという人は、世間にはたくさんある。こういう人々と論争することも、さしひき損のほうが大きいようである。やはり、だいじな同志である。
旧カナヅカイのカナ専用論者もあるし、ひらがな専用論者もある。これら、さまざまの主張の人々とも、共通の点について、共同の活動をすることである。意見をことにする点についての話しあいは、ほどほどにすることである。つねに大局を見わたし、おたがいの考えを尊重しあう心がけがほしい。
ニ三の事例をあげよう。旧カナヅカイにいちばんなやまされていたのは、小学校の教師たちであった。それだから、わたしたちは、第3章に述べたように、その問題について、この人々と手をにぎりあって運動したのであった。
実務の世界では、漢字の非能率になやまされている。それで、カナモジカイは、日本事務能率協会その他、その方面のいろいろな組織と力を合わせて、実務の方面に、これだけカナモジを広めてきた。
漢字制限を最も効果的に実行することができるのは新聞である。それで、カナモジカイは、創立以来、たえず新聞界によびかけ、新聞での漢字の出現度数を調べて示したり、新聞の用字用語を試験問題にして多くのデータ―を作って新聞人の反省を求めたりしてきた。当用漢字ができると、すぐに各新聞がこれを実行して今日の成果をあげたかげには、長い間の、そうした努力が、なにほどか役立っていたといえよう。
憲法の口語化を、法制局が自発的に考えたことを、この章のはじめに述べた。しかし、その土台には、じつは、同志の判事たちが、判決文の口語化を実行してきたという経過があった。こうした例は、すでに他の章でもあげたし、そのほかにも、まだ、いろいろある。
カナモジ論者が、直接、世の中に号令をかける権力があるわけではない。しかし、何もそんな権力を与えられなくても、また、国民の大多数がカナモジ論者にならなくても、世の中のそれぞれの方面が、現実につきあたっている問題を解決することに力を貸せば、それぞれの方面自身が持っている原動力によって動いていく。これまで、すべて、そういう方法で動いてきたのである。これが、創立者、山下氏の「進化的改革」である。このような運動においては、カナモジカイの名は、めったに外にはでない。でないほうがよいばあいが、むしろ多い。が、それでは張りあいがないというような、小さな功名心などにこだわってはならない。
カナモジカイは、生まれてすでに50年たった。長い年月のわりに、いささかの効果しかあげられなかったといわれるかもしれない。たしかに、まだまだ理想にはほどとおい。しかし、50年という年月は、この大きな問題の解決のためには、決して「長い年月」ではない。今後、さらに50年かかるか、100年かかるかしれないが、問題の大きさ、根の深さを考えるなら、何十年何百年の年月をかけたからといって、なにも、はじることはない。けれども、努力をはらわなかったら、そのことについては、後世の国民に、はじなければならない。