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漢字(かんじ)なくして文学(ぶんがく)はありえないか?
ユズリハ サツキ 
 【漢字廃止論への批判】
 ただ単に物事を伝えればいい新聞・雑誌の記事や事務文書ならば、あるいはカナだけで書き表わせるかもしれないが、芸術である文学には漢字の表現力や味わいは欠かせないものではないか。

 【反論】
 なるほど、美術家にあらゆる素材、形、色などを使う権利があるように、文学者にもあらゆる文字を使う権利がある、と主張されれば、それは否定しがたいように思われます。

 しかし、コトバや文字は文学のためにだけ存在しているのではありません。文学以前に、すべての人々が生活していくための共通の基盤となっているものです。文学が多少なりとも大衆的に受け入れられるためには、おのずと制約があるはずです。

 とはいえ、少数の人たちにしか理解できない美術品があってはいけない、という理由がないように、無制限の漢字を用いて、少数の読者にしか読めないような文学作品があってはいけないという理由もありません。

 だからといって、漢字をたくさん使えば、それだけ芸術性も向上する、などと考える人がいるならば、それはもっと良く考えていただきたい、といわざるを得ません。

 たとえば、「かなしい」というコトバは感情のニュアンスによって、いくつかの漢字で使い分けをすることができます。しかし、感情の微妙な色合いを出来合いの漢字の使い分けで済ませてしまう、ということは、安易なやり方ではないでしょうか。むしろ、情景を磨かれた描写によって表現してこそより細かい色合いを表わすことができるのではないでしょうか。

 「かなしい」という感情のニュアンスは、その場合場合によってすべて異なると言っても良いでしょう。親しい人と死に別れて、恋人にふられて、親にしかられて、病気になって、友に裏切られて……。「かなしい」というコトバを「悲」、「哀」、「愛」などの漢字で書き分けようとしても、無限に異なる「かなしい」の違いを表わすにはとても足りません。無限の情景を有限の漢字で表わすことなどできないのです。〔そもそも「かなしい」などというコトバに頼らずに悲しさを表現しなければ文学にならないでしょう。〕

 また、文学作品はただ目で読まれるだけでなく、朗読を聞いたり、演劇として演じる俳優の声を聞いたりして観賞することもありますから、漢字を見なければ分からない表現などは、言語芸術として不完全なものと言わざるを得ないのです。それに視覚の障害などのために漢字が読めず、点字や録音図書などを利用している人々も健常者と同じように理解できるものであることが望ましいことです。

 文学の発展が漢字によらずともなされる、ということは、歴史的に証明されています。紀貫之の『土佐日記』や紫式部の『源氏物語』などのかな文学は、それ自体が大傑作であるばかりでなく、日本文学のみならず日本語そのものにも大きな影響を与え、その進歩に貢献したではありませんか。

 また、漢字圏以外でもあまたの偉大な文学作品が生み出されているのですから、漢字なくして文学がありえない、などというのは、文学論以前の妄言だとしかいえません。「日本語に限っては」などという人には問いたい。それでは、日本語は世界で唯一、表音文字を持ちながら漢字なしでは自立しえない、呪われた言語なのでしょうか。

 表現力の問題を抜きにしても、漢字には独特の味わいがあるではないか、という人がいるかもしれません。たとえそうだとしても、漢字の味わいが文学の必須の条件であるなどといえないことは、今まで述べてきたことで明らかであると思います。

 文学者を始め、漢字に強い愛着を持つ人々が少なくないことは、承知していますが、その人々には、コトバや文字の役割は、上に述べたように人々が生活していくための共通の基盤であることが第一義的なものであることを理解していただきたいと思います。

 (『カナノヒカリ』 949ゴウ 2010ネン アキ)(一部書き改めた。)

(このページおわり)