「カナノヒカリ」 914ゴウ (2002ネン フユ)

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「漢字と日本人」を よんで ―エールと チューモン―

                                             ワタナベ サトシ 


   
 「漢字と日本人」 (文春新書) とゆう 本、いろいろな意味で おもしろく よみました。著者は 高島俊男さん。著書もおおく、また 週刊誌に かきつずけられている コトバに まつわる エッセイを ごぞんじの かたも おおいでしょう。この本も なかなかのヒョーバンのようで、新聞の書評にも ずいぶん とりあげられています。
 日本人と漢字との かかわりを ほぼ歴史に そって 解説しながら、未来にむけての 著者の意見を つよく うちだしている本ですが、カナモジカイの会員にわ しりあいから この本で 「あなたが ひごろ主張されている ことが わかった」 と いわれた ヒトも あるそうです。これわ 著者にわ 苦笑もの、いや、そこだけを うけとられてわ こまる、と いいたい ところでしょうか。
 なにしろ 高島氏としてわ 「戦後の当用漢字略字体」「はとりかえしのつかない愚挙であった」 (8ページ)、また 「漢字と日本語とはあまりにも性質がちがうためにどうしてもしっくりしないのであるが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやってゆくよりほかない」 (あとがき)、と ゆうのが うったえる ところなのですから。そうわ いっても、まず読者に しめされることわ この 「しっくりしない」 ありさま・ワケであり、われわれが ずっと うったえつずけてきた ことと よく にています。具体的に紹介しましょう。ぜひ、「カナ ノ ヒカリ」 表紙うらの カナモジカイ案内と くらべてみてください。
 第一章で 「日本が中国から漢字をもらったこと」 「は、日本語にとって不幸なことであった。」 と いいきります。理由として 「日本語の発達がとまってしまった」 し、「漢字が理想的な文字であると言っても」 漢族の言語とわ 性質の ことなる 日本語を 「書きあらわすには当然不都合である」 ことを あげます。
 訓の発生と かなの誕生から はじまる 第二章でわ、訓が発生したことで、「相当複雑な事態をまねいた。…漢語と日本語とのそれぞれの単語がうまく一対一で対応しているわけがない。」 そして、たとえば 「「とる」という語には、「取る」 「採る」 「捕る」 「執る」 「摂る」 「撮る」 などがあるが、どうつかいわければいいか」 といった質問をするヒトに対して 嫌悪感を かくさず、「「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話しをする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。」 と のべ、また 「漢字の多い文章を書く」 ヒトを 「無知な、無教養な人である。」 といってはばかりません。まことに ケッコウな ことです。
 けれども、このように 漢字のつかいすぎに 自己規制を もとめつつも、かえすカタナを 戦後の国語改革に むけて ふりおろします。ドンデンがえし、と ゆうか、かたすかしを くらった気分に なるヒトも いるのでわ ないでしょうか。その主張わ、ひとつにわ、日本語用の モジを 音標文字にする (漢字廃止を する、漢字制限を する) とゆう かんがえわ、かつての漢字崇拝と おなじ 外国崇拝によって 西洋の ものを むやみに すすんだものと かんがえた あやまり、と みる ところから でています。同時に 著者は、「日本人にとって」、字音語の 「実体は文字なのである。音声は、それがおとすかげにすぎない」、「日本語においては」、「耳がとらえた音声をいずれかの文字に結びつけないと意味が確定しない」 (第三章 3 顛倒した言語―日本語) と 日本語 (字音語) を とらえています。しかし、そうでしょうか。よく かんがえて いただきたい。これが わたしのチューモンです。ホントわ 「確定しない」 のでわ なく、「安心しない」 に すぎないのでわ ないでしょうか。字音語の実体わ モジだ、とゆう おもいこみの せいで。「耳がとらえた音声をいずれかの文字に結びつけ」 たとして、これを アイテに たしかめる ことなど しないのがフツウでしょう。モジが 実体であると するならば、同音語のバアイ 自分だけで 「結びつけ」 たモジが 正しい保証わ ありません。―かかれたモジが そのバになかったなら。しかし、ふだん かかれた文章のバアイでさえ わたしたちわ、あやまったモジを みたら、まちがって うけとるよりも モジのあやまりに 気づく、あるいわ モジにカンケイなく、意味を ただしくよみとるほうが おおいでしょう。いや、意味ばかりか イメージやら気もちやら さまざまのことがらを もっとひろく うけとっている、それが コトバとゆうものでしょう。
 つまり、日本語も (モチロン 字音語も ふくめて) やはり 「言語の実体は音声」 なのであって、わたしたちわ 音声から、コトバのながれによって その音声に ふさわしい 意味 (や文字) を えらびとっていて、あやまりや混乱も あまり おきないのです。だからこそ 「書いて見ろといわれたら、かならず正しく書けるとはかぎらない」 (153ページ)。いっぽう、いくつかのモジが くみあわされて もとのモジとわ カンケイのない意味になっても、語源どおりで なく なっても、ヘーキで そのモジを つかっているのです。サカダチした やりかたで あたらしいコトバがつくられても、あるいわ 「字音語の実体」 わ 「文字だ」、とゆう サカダチした おもいこみから のがれられないヒトが おおくても、コトバわ このサカダチを ひっくりかえしながら はたらいている (モチロンひっくりかえしきれない―実際にモジを みせてもらわないと わからない―ブブンを のこしながら) ことに気づいて ほしいものです。
 いま のべたところから、さきの西洋崇拝ウンヌンとゆうことわ 実際そういう面があったとしても、いま とりあげるヒツヨウわ ないでしょう。
 著者わ、うえに みたような点などから、国語改革にわ反対のタチバをとります。(現代かなづかいについてわ、この本のテーマでわないと、「省略し」ているため、いやいや したがっているのか どうか わかりません。) 「過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけない」 (あとがき) といいながら 「古典文学作品や歴史資料などを新字体に変えて本にするというのがそもそもまちがい」 (225ページ) と 「過去の日本」 と いまの日本人 (専門家・研究者でない) を つなぐ努力を非難します。この態度わ 著者が 「愚」 として しりぞける 「支那思想を (…) 漢籍を (…) 漢字を崇拝した」 「過去の日本人」 と どれほどの ちがいがあるのでしょう? 第四章で、新村出博士の講和を紹介し、博士が 「今後の日本語はかなを主とし、漢字を従とすべきことを説いている」 のに 「深く共鳴する」 とか、「和語にはなるべく漢字をもちいぬようにする」 べきだ、などと くりかえしていて、エールをおくりたい ところですが、これにわ 「(字音語と) 和漢混淆語は漢字で書かなければならぬ」 (第二章 112ページ) とか 「「山」 「水」 「人」 「家」 のごとく、字もやさしく、またその意によってあてているものは、ながく習慣にもなっていること」 で (漢字も) 「やむを得ない。」 といった オマケが ついているのが まことに ザンネンです。ところで、「家」 わ 「いえ」? 「うち」?
 また、常用 (当用) 漢字の、特に略字体について非難し、印刷 (標準) 字体わ 「正字」 であるべき ことを強調しますが、「正字」 についてわ 「(戦後字体と) それまでおこなわれていた正字体」 とあるのみで、「定義」 わ ありません。「欠ケツ・ケン」 「芸ゲイ・ウン」 などに ついてのマズサわ 理解できますが、漢字の なが〜い歴史 (ほとんど印刷とわ無縁だった) も 考慮して いただきたいものです。もともと略字にすぎない 「集・島・雷・法」 や 「モジの組織がみだされ」 ている 「新・親」 (辛がふくまれていた) などわ 略字? 正字? また、「毒」 のしたわ 「母」 というのが 「正字」 だ。というのも 「?」 です。
 「文化の継承」 とか 「伝統」 がいわれるとき、とかく ただただ過去のひきうつしが さけばれますが、ホントーわ、しょいつずけるものと すてるものを よくよく えりわけることこそ ダイジでわ ないでしょうか。


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