「カナノヒカリ」 905ゴウ (1999ネン アキ)

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「表外漢字字体表」はいらない

                                             キクチ カズヤ 


   
 国語審議会が「表外漢字字体表」の作成を進めています。これは「表外漢字」(「常用漢字表」にない漢字。以前は「表外字」と呼ばれていた)の字体の問題に関する基本的な考え方を提示するとともに、あわせて印刷標準字体を示そう、というもので、前期(第21期)国語審議会はすでに昨年6月、「表外漢字字体表試案」を発表しています。今期の国語審議会は、この「試案」の考え方を基本的に受け継いで最終的な字体表をまとめていくものと思われます。以下、「試案」の内容を検討し、「表外漢字字体表」がいかなる意義を持つか(または持たないか)を考えてみたいと思います。

 表外漢字の字体は、人名漢字を除いては、今まで基準が定められていませんでした。ここにきてこの問題が国語審議会で議論されることになったキッカケは、ワープロ等で一部の表外漢字が略字体でしか処理することができない、という問題が生じたことだといいます。1983年にJISの漢字コードが改定された際、「鴎」「祷」など29字の略字体が採用されたために、「區鳥」「示壽」などの伝統的な字体がワープロ等で打ち出すことができなくなってしまったのです。さらに、どちらの字体を標準とすべきかの基準がないことも問題とされています。この問題を解決するために「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送等、一般の社会生活において、表外漢字を使用する場合の字体のよりどころ」を示そう、というのが今回の「表外漢字字体表」です。
 しかし、このJISの問題というのは、実は、略体字を採用する際に伝統的な字体を排除しないで、それぞれに別のコード番号をふっておきさえすれば起こらなかったことで、国語の問題というよりは技術的な、それもササイな問題であると言えるでしょう。それに、「鴎」か「區鳥」か、などということは、大多数の国民(と日本語使用者)にとっては、どうでもいいようなことではないでしょうか。(そもそも、「區鳥/鴎」などは表外漢字の中では見なれたものの部類に入るでしょうが、それでも一般の人にとって、一生の間に何度使う機会があるでしょうか)文部省からの要請があったこととはいえ、はたして国語審議会で取り上げなければならないようなことだろうか、との疑問を覚えるのですが、これは差しあたり横に置いておきましょう。
 伝統的な字体と略字体のいずれを採るべきかは意見の分かれるところですが、「試案」では、「いわゆる康煕字典体」すなわち伝統的な字体を印刷標準字体と位置づけ、略字体等については、例外的に38字のみを「簡易慣用字体」として許容することとしています。「いわゆる康煕字典体」とは、「明治以来の伝統的な印刷文字字体(康煕字典に掲げる字体そのものではないが、康煕字典を典拠として作られてきた明治以来の活字字体)」と定義されています。
 常用漢字には、略字体のものが少なくありませんが、それは、1949年に実施された「当用漢字字体表」で多くの略字体が採用され、それらが1981年に実施された「常用漢字表」でも基本的に踏襲されているからです。略体字の採用は、漢字の読み書きを平易なものにし、国民の国語力をおおいに高めました。これはマギレもない事実であり、歴史的な意義を持つものでした。しかし、これは無条件の善ではなく、必要悪というべきものでした。たとえ略字体が採用されても、それ以前に書かれたものを読むには旧字体すなわち伝統的な字体の知識が必要ですし、日常生活でさえ−−人名などで−−旧字体は使い続けられることになりましたから、字体の基準が二重になり、混乱をもたらすことになりました。結局、国民は新旧両方の字体を覚えなければならない、という負担を負うこととなりましたし、それはまた困難なことでもありますから、当然覚えきれない(たとえば、「畫」と「画」が同じ字だということがわからない)こととなり、文化の継承という点でも問題が生じました。(もっとも、混乱をもたらす根本的な原因は、異体字がいくらでもできてしまう、という漢字そのものの性質にあるのですが)
 表外漢字の略字体についてはどう考えるべきでしょうか。「試案」では伝統的な字体を基本とする考え方を採った理由について、その前文で「漢字字体の使用実態を踏まえ、この実態を混乱させないことを最優先に考えた。」と説明しています。例によって現状追認の姿勢です。
 国語審議会の認識・方針はともかく、伝統的な字体を基本とする考え方そのものは妥当なものだ、と私は思っています。そもそも表外漢字は広く使われることを前提とされてはいないのですから、字体を簡略化することによって平易化する必要性は極めて低いものです。表外漢字に略体化を及ぼすことは、当用漢字や常用漢字におけるような必要悪としての意義はなく、「不必要悪」にしかならないでしょう。
 しかし、なぜわざわざ字体表を作る必要があるのでしょうか。これが私には理解できません。「伝統的な字体を標準とする。略字体はこれこれだけを認める」とだけ言えばすむことではないでしょうか。
 必要のないものを作って招くものは混乱だけでしょう。
 「試案」には、出現頻度から選ばれた字を中心に検討対象とした 978字のうち、字体・字形上問題があると判断された 215字が示されています。これだけならまだしも、「参考」として検討対象漢字 978字すべての一覧が示されています。これでは、これらの字は使用頻度の高い字ですから常用漢字に準じてお使いください、とのオスミツキを国語審議会が与えたように受け取られかねません。
 このことについては、国語審議会も配慮していないワケではなく、前文の中で「漢字の多用化傾向が強まる中では……常用漢字表の意義は高まっていると考えるべきである。漢字の過度の使用は、相互の伝達や理解を困難にする場合があることを十分に認識すべきであろう。」、「表外漢字の過度な使用は避けることが望ましい。」と注意を促してはいます。「常用漢字の範囲がもう少し広がっていかないと不都合が多い」などと、不見識な主張をする審議会委員もいる(『国語審議会報告書21』 173ページ)なかでこれらの文言が入れられたことは評価すべきことではあるでしょう。しかし、これで「表外漢字の過度な使用」の歯止めになるなどと考えられるでしょうか。国語審議会が表外漢字の表を作ったことのインパクトは計り知れないほど大きいのです。
 漢字野放しの地ナラシともなりかねない、こんな字体表はいりません。国語審議会には、ほかに要請されるべき仕事があるように思います。

 「漢字の過度の使用は、相互の伝達や理解を困難にする場合がある」というのは、そういう場合が現実にあることを認めた上での言及でしょうが、このことの方が、表外漢字の字体のことなどよりよほど重要なことではないでしょうか。
 1981年に「制限」としての当用漢字から「目安」としての常用漢字にかえられたワケですが、そのことが表外漢字を使うことに対する抵抗感を弱めることになったことは否定できないでしょう。それに加え、ワープロ等の普及により、難しい漢字でも簡単に打ち出せるようになったことが「漢字の過度の使用」をさらに促すことになりました。
 しかし、現在比較的多く使われている表外漢字でさえ、真に使う必要があるものかはおおいに疑問です。たとえば「挨拶」の「挨」「拶」はどちらも表外漢字ですが、それぞれの字の意味を知っている人はほとんどいないでしょうし、知っていたとしても「あいさつ」というコトバの意味とは結びつけられないでしょう。漢字の特質である表意性が働いていないということです。それに「あいさつ」の同音語はないのですから漢字で書く必要はまったくないといえます。まして、どちらの字も「挨拶」以外には使い道がありません。「あいさつ」というたったひとつのコトバのために字を用意しなければならない、などというのは、途方もないことではないでしょうか。たとえこのような例には当たらなくとも、どうしても表外漢字を使わなくてはならないコトバなどほとんどないでしょう。(「區鳥/鴎」と書かずに「かもめ」と書いたのでは意味が通じないでしょうか?)
 『国語審議会報告書21』によれば、この字体表のために行った漢字出現頻度数調査で、「常用漢字の1945字だけで、対象漢字延べ数2236万 642字……の96%を占めている」、「表外漢字は、人名漢字をいれても4%にすぎない。その4%から更に人名漢字の分を除くと、2%台にすぎない。……ところが、一方で字種の数では5000字近くある。」ということがわかったそうです。( 328ページ)
 この「2%台」を多いと考えるか、少ないと考えるかはともかく、カナで書くか、やさしいコトバに言いかえるようにすれば、固有名詞や専門用語を除き常用漢字だけでほぼ 100%をまかなえる、したがって5000字もの表外漢字を使う必要はない、ということが言えると思います。
 文字というものは書き手と読み手があって初めて意味をもつものです。ですから、どんな字を使おうと書き手の勝手、というワケにはいきません。「漢字の過度の使用」が「相互の伝達や理解を困難にする」のはアタリマエのことです。ならば、「漢字の過度の使用」を防ぐ手立て−−それは「漢字制限の強化」以外にはありえないでしょう−−が講じられるべきです。ワープロ等で表外漢字が簡単に打ち出せるようになった今だからこそ、このことが必要だと言えます。(ここで「漢字制限の強化」という表現をしたのは、現在の「目安」としての「常用漢字表」も一定の制限的な役割を果たしているからです。)
 「制限」というコトバに抵抗を感じる人は少なくないかもしれません。「制限」ではなく「目安」ならば、あたかも「表現の自由」が保証されるかのようで、耳ザワリはいいかも知れません。しかし無制限の自由などいかなる社会でもありえないことはコドモでも知っています。自由・権利は、濫用はゆるされず、公共の福祉のために利用されるべきものです。また、良識に訴えることで解決できるかのように考えるのは、タワイもない幻想でしょう。漢字制限は公共の福祉ということからいっても、絶対に必要なものです。
 国語審議会の所掌事務のひとつとして、「国語の改善」に関する事項を調査審議することがうたわれていますが、「国語の改善」のためには「表外漢字字体表」など何の役にも立ちません。本当に望まれるのは、漢字制限を強化するための施策である、と断言してよいでしょう。

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