「カナノヒカリ」 884ゴウ (1996ネン 12ガツ)

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「交ぜ書き」をどうすべきか

                                             キクチ カズヤ 


   
1 国語審議会の中間報告
 第20期国語審議会は、昨年11月8日付けで、審議経過報告「新しい時代に応じた国語施策について」を発表しました。その中の「情報化への対応に関すること」では「交ぜ書きの問題」が取り上げられています。
 そのくだりの冒頭では、この問題を取り上げた理由が次のように述べられています。「漢語の一部を仮名書きにするいわゆる交ぜ書きは、文脈によっては読み取りにくかったり、語の意味を把握しにくくさせたりすることもある。」「ワープロ等の仮名漢字変換により漢字が簡単に打ち出される現在、情報機器の広範な普及という観点からも、検討されるべきであろう。」
 次に「交ぜ書きの現状」として、交ぜ書きが、戦後、当用漢字表が定められたことに伴い、表外字を含む漢語を書き表す一つの便法として行われてきたこと。その後、制限的な性格を持つ当用漢字表に代わり、「目安」としての常用漢字表が定められたことにより、公用文においても表外字を使用することが認められるようになったこと。新聞や一般の雑誌、書籍においては、交ぜ書きを避ける傾向にあることが述べられています。
 最後に、「交ぜ書きに対する考え方」が示されていますが、短いものですので、この部分をすべて引用しましょう。「交ぜ書きも一概に否定することはないが、交ぜ書きによって、読み取りが困難になったり、語の意味が把握しにくくなったりする場合には、言換えなどの工夫や必要に応じて振り仮名を用いて漢字で書くなどの配慮をする必要があろう。ただ、振り仮名を安易に使用することが、難しい漢字を多用する傾向につながっていくのは好ましくないと考えるべきであろう。」

2 交ぜ書きは否定されねばならないか
 この中間報告を読んで納得がいかないのは、難しい漢字を多用するのは好ましくないとしながら、フリガナを用いて漢字で書くことを勧めていることです。ここでいう「漢字」とは、言うまでもなく常用漢字表にない漢字、表外字のことです。確かに表外字にもそう難しくない漢字もあるでしょうが、難しいか易しいか、人によって感じ方が異なる字も少なくないのではないかと思います。それぞれの判断に任せるというのなら−−漢字を多く使った文章が、上等なものであるかのように考える傾向が全くない、とは言えませんから−−おそらく「難しい漢字を多用する傾向」を抑えることは難しいでしょう。
 一方、「交ぜ書きも一概に否定することはない」というのは、素直によめば、「読み取りが困難」「語の意味が把握しにくい」ということがなければ、交ぜ書きでよいということでしょう。これはそのとおりだと思います。この二つの問題を解決することができれば、「交ぜ書きを否定する」理由はないと言えます。

3 意味がわからないのは交ぜ書きのせいか
 では、まず「語の意味が把握しにくい」ということについて考えてみましょう。
 交ぜ書きでは意味が把握しにくい語とは、例えば、「いん可」「解らん」「感ぱい」「旧ろう」「さく風」「しゅう雨」「そ菜」「松らい」「ひょう然」のような語をいうのでしょう。これらを「允可」「解纜」「感佩」「旧臘」「朔風」「驟雨」「蔬菜」「松藾」「飄然」などと書けば、意味が把握しやすいと感じる人も中にはいるでしょうが、「允」「纜」などの難しい字を知らない人にとっては、意味の把握の助けにはならないでしょう。
 このような語は、実は「耳で聞いてわからない語」なのです。意味がわからないのは、なじみのない語だからであって、交ぜ書きをするからではないのです。これらは、易しい語に言いかえをするのが正しい解決方法です。「允可」は「許可」、「解纜」は「出帆」または「船出」と。
 「耳で聞いてわかる語」ならば交ぜ書きをしても「意味が把握しにくい」などということはありません。「あっ旋」「界わい」「喝さい」「けい古」「軽べつ」「けん銃」「石けん」「そう快」「でん粉」「破たん」「風び」など、これで意味は十分通じるでしょう。「あっ旋」の「あっ」、「石けん」の「けん」は何か、などと考える必要はありません。「斡旋」「石鹸」と漢字で書いたところで熟語として意味があるのであって、一字一字から意味をつかむのではありません。「斡」や「鹸」の字を知っている人は少なくないでしょうが、その意味まで理解している人はそう多くないのでは、ないでしょうか。

4 交ぜ書きはカタカナを使って
 次に「読み取りが困難」であるということについて。
 交ぜ書きが読み取りにくいと主張する人は少なくないようですが、私自身は当用漢字で教育を受けた世代で、交ぜ書きには慣れているので、読み取りにくいと感じたことはありません。一体どれだけの人がそう感じているのかはデータがないので確かなことはわかりませんが、漢字1字の場合は、訓読みをすることが多いため、「石けん」を「いしけん」、「けい古」を「けいふる」と一瞬読んでしまうことはありうるし、そのことをもって「読み取りにくい」と感じる人はいるだろうと思います。
 このことを解決するために、表外字を使って「石鹸」「稽古」とすれば語としてのまとまりができて読みやすい、ということは言えるかもしれません。しかし、別の方法によって語としてのまとまりが確保されれば、「鹸」「稽」というような字は不要ということになります。
 その方法はあります。カタカナを用いることです。「石ケン」「ケイ古」とすれば、前後のヒラガナとの区切りもできて読み取り易くなるはずです。これは私が考え出したことではなく、一部のマスコミでも現に行われている表記法です。

5 交ぜ書きが「みっともない」なら
 交ぜ書きを「みっともない」とし、そのことをもって交ぜ書きに反対する人がいます。これは好みの問題ですが、そういう人にとっては「石ケン」も「石けん」と同様、見るに堪えないものかもしれません。
 もし、交ぜ書きを「みっともない」と感じるなら、語全体をカナで書くのがよいでしょう。「あっせんする」のようにヒラガナで書くことは珍しくありませんが、「アッセンする」のようにカタカナで書いたほうが語としてのまとまりがつくでしょう。
 「斡旋」の「旋」は常用漢字だからといって、必ず漢字で書かなければならないワケではありません。また、漢語をカタカナで書いていけないという理由もありません。表外字だけで構成される漢語でも、例えば、「ヒンシュクを買う」「カンシャクを起こす」というような書き方が一部で行われていますが、これもこれでよいと思います。

6 情報機器と表記
 この中間報告では交ぜ書きの問題を検討すべき理由として、「情報機器の広範な普及という観点」をあげていますが、これは一体どういうことでしょうか。
 おそらく、次のような状況をふまえてのことと思います。
 まず、ワープロ等により表外字を簡単に打ち出すことができるようになったこと。さらに、書き手の意思に関わりなく表外字を使わされてしまう、ということもあるでしょう。例えば、「石鹸」なら、従来は「鹸」という字が常用漢字表にないために「石けん」と交ぜ書きをしていたものが、ワープロを使うと、「せっけん」は「石鹸」に変換されてしまうので、そのまま使ってしまう、ということはあるでしょう。
 また、フリガナを容易に印字することができるため、表外字を使うことに対する抵抗感が薄れた、ということもあるかもしれません。
 しかし、語の表記のしかたが、それを表わす道具によって左右されるというのは本末転倒ではないでしょうか。どのような表記が望ましいかは、書き手である人間が判断すべきことです。
 ワープロ等が表外字をむやみに出してしまう、ということは、見のがしてならないことです。難しい字を処理する機能も場合によっては必要でしょうが、書き手の意思により、常用漢字、あるいは教育漢字だけに限って変換するような機能も、当然なければならないハズのものです。こういうことこそが、問題とされなければ、ならないのでは、ないでしょうか。ワープロなら、うろ覚えの漢字でも使うことができるから便利だ、などというのは、全く表面的なことです。

7 交ぜ書きは擁護されねばならない
 以上見てきたように、交ぜ書きは、その難点とされる点も工夫しだいで解決することができますから、否定されなければならない理由はないのです。(あるとすれば、それは個人の好みの問題です。)が、それを擁護する理由はあります。それは、戦後の国語改革の成果を守るということです。
 上に、漢字で書いても、その字を知らなければ意味の把握の助けにならない、と言いましたが、漢字制限反対論者は、「だから、もっと多くの漢字を教えなければならないのだ。」と言うことでしょう。しかし、漢字の専門家や特別な愛好者でも、五万とも十二万ともいわれる漢字すべてに通暁している人はいないでしょう。ましてや国民一般が日常生活で使いこなせる漢字にはおのずと限度があります。現在の常用漢字表は、「目安」であるとされていますが、この範囲がせいぜいではないでしょうか。(私は、常用漢字表の中にも不要な字が多数含まれていると思いますが。)
 また、漢字に多く依存することは、それだけ目に依存することであり、話し言葉としての力を弱めます。「漢字は耳には厳しいが、目には優しい」などという人がいますが、漢字をこれ以上ふやせば「目にも厳しい」ものになります。第一、「目にも耳にも優しい」ことが国語に望まれることではないでしょうか。

8 国語審議会に望むこと
 このたび発足した第21期国語審議会に要望したいことがあります。
 国語審議会は、「平明、的確で、美しく、豊かな言葉」を言葉づかい全体の理想的なイメージとして求めることを基本姿勢としてきた、とのことですが、近ごろの難しい漢字を使う傾向は、「平明」という理想から遠ざかるものと思われてなりません。
 常用漢字1945字が多いか少ないかは、意見が対立するところであり、漢字を無制限に使うことを声高に主張する人々もいます。しかし、国語は、このような一部の人々だけのものではないのですから、あくまでも国民一般の国語生活や教育現場の現状に即した施策を講じられるよう望むものです。
 交ぜ書きに関して言えば、易しい漢字による書きかえ(蒐集→収集)や別の語への言いかえ(俄然→にわかに)の外にも、カタカナを用いて読み取りにくさを解決する方法(「石ケン」「セッケン」)があることも考慮に入れていただき、「難しい漢字を多用する傾向」を好ましくないとする見解をより徹底したものにしていただきたいのです。
 また、「情報機器の広範な普及」という問題については、それがもたらした状況を無批判に認めるのではなく、情報機器は望ましい表記をするためにはどうあるべきか、という観点からも検討を加えていただきたいと思います。

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