「カナノヒカリ」 879ゴウ (1996ネン 6ガツ)

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カナモジ運動は国語愛護運動である

                                             キクチ カズヤ 


   
  「カナノヒカリ」1995年10月号で ヤマサキ セイコーさんは カナモジ運動は 能率運動では なく 国語愛護の ための もので ある と おっしゃって いる。また、オバタ タダオさんは カナガキ運動の 根本は 日本語の 独立運動で ある と たびたび うったえて おられる。ワタシは まったく オフタリの おっしゃる とおりだと おもう。(オフタリの オカンガエは 表現の チガイは あっても、通ずる ところが おおい ものと ワタシは 理解して いる。)

  ワープロの 出現を もって しても 能率の 問題が すべて 解決した ワケでは ない。カナ または ローマ字から 漢字への 変換と いう 作業は 能率化を さまたげる ものに ホカならないし、漢字 ソノモノの ヤッカイサ(たとえば、「追及」・「追求」・「追究」、「量る」・「計る」・「測る」などの ツカイワケや、オクリガナの ツケカタなど)は かわらないので ある。異体字の トリアツカイの 問題も ある。カナガキに よって 能率を たかめる ことを 主張する こと 自体は けっして まちがっては いない。

  しかし 能率論を いくら 主張しても それだけでは 世間を 納得させる ことは できない と 断言しても よい と おもう。

  なぜならば 普通の 能力を もった ヒトならば 現在の 漢字カナマジリの 国語表記に それほど 不自由を 感じて いないからだ。漢字の 能率の ワルサを 指摘 されれば なるほど そうだ とは おもっても 切実な 問題とは 感じられないので ある。(この 雑誌の 2ページメの 「カナモジカイは どんな 団体か・・・・・ 」には「(漢字は)字数が 多すぎて すべての 国民が 共通に 使う ことが できません。」と あるが、そのように ミに しみて 感じて いる ヒトが 一体 どれだけ いるだろうか。)これは わが カナモジカイを ハジメと する 国字改革運動の 成果で ある 戦後の 国語改革の タマモノなので あるが その ことを しる ヒトは すくない。

  能率論が 説得力を もちえない もう ヒトツの 理由は、いかに 事務の 能率が わるくとも、また 教育の 効率が わるくとも、漢字には それだけの 犠牲を はらう 価値が ある と かたく 信じられて いる ことで ある。本当に 漢字が 表音文字より すぐれて おり、日本語に とって かかす ことの できない もので あるならば、タシカに 能率の 点で 犠牲を はらっても 漢字を つかうべきで あるし おしえるべき なので ある。

  事実は、漢字とは 日本語に とって なくては ならない どころか、反対に 日本語を ゆがめ ほろぼす ものなので ある。この ことを ひろく 世間に しらしめ、日本語を 漢字の 害から すくい、日本語 本来の 生命力に よって 発展させるべき コトを うったえる ことこそ カナモジカイの もっとも 重要な 使命で ある と ワタシは おもう。

  国語国字問題を めぐる 情勢は ユックリとでは あるが 確実に このましく ない 方向へ ながれて いる。当用漢字表に かわる 常用漢字表の 告示、漢字検定の 認定など ウシロムキの ウゴキに くわえ、情報処理や 印刷の 技術の 向上が 漢字 ノバナシへの ミチを ひらいて いる。

  マゼガキの 解消などの ためとの 理由で 表外字を オオッピラに つかって いる 新聞が ある キョウ(5月 ムイカ)の 読売新聞の 1面から 3面までを みても「(危)惧」「蜜(月)」「誰」「凋(落)」「(破)綻」と いった 字が つかわれて いる。また、「証」には「あかし」と フリガナが つけられて いるが、これも 表には ない ヨミで ある。雑誌に おいては さらに ひどい 状況に ある ことは いうを またない。

  このごろ 雑誌で よく みかけるのは「嗤う」と いう 字で ある。常用漢字表には ない。意味を ハッキリさせる ために「笑う」との ツカイワケが 必要で あるとの カンガエなの だろうが ……。

  タシカに オロカモノを「わらう」のと 漫才を きいて「わらう」の とは 意味アイが ちがうだろう。しかし コイビトの カオを みて「わらう」のも、オアイソで「わらう」のも、また 失敗を ごまかす ために「わらう」のも 意味アイは ソレゾレ ことなる はずで ある。日本語の「わらう」と いう コトバは これら スベテを ふくんで いるので あるから「笑う」と「嗤う」のように 字を つかいわける ことは コトバを ひきさく ことで ある。また ヒトツの コトバでも つかわれる ソレゾレの バアイにより 意味アイは すべて ことなる とも いえるから、それを イチイチ かきわける 必要は ないし、そんな ことは 不可能で ある。文脈から 判断 できるし、ハナシコトバでも ミミで きいて ちゃんと わかるでは ないか。

  もし 意味アイの チガイによって、字を つかいわけなければ ならない と するならば、「わらう(笑う)」と「えむ(笑む)」の 両方に「笑」と いう 字を つかうのは どういう ワケか。この フタツは 日本語としては 別の コトバで あり、当然 意味も おなじでは ない。にも かかわらず おなじ 字を つかう と いう ことは イミの チガイを アイマイに する ことには ならないか。こう いう バアイこそ ちがう 字を つかわなければ ならない はずの ものでは ないか。

  こう いう ムジュンが おきるのは、漢字と いう ものは 単なる 文字では なく 中国語の コトバなので あり、したがって 日本語の コトバと 1対1で 対応する ものでは ないからだ。

  それは ちょうど 日本語の「わらう」が 英語の「laugh」「smile」「chuckle」「giggle」「grin」「simper」「jeer」など いくつもの コトバに 翻訳する ことが でき、また それらが いつも「わらう」と 訳される ワケでは ないのと おなじ ことで ある。それを 英語では おおくの コトバを つかいわける ことが できるから、より 明セキな 表現が できる と かんがえ、「コエを たてないで わらう」バアイには「smileう」、「ハを みせて わらう」バアイには「grinう」、「クチを あけずに わらう」バアイには「chuckleう」と かきわけて、いずれをも「わらう」と よむ ことに しよう などと いう ヒトが いたら、それこそ ワライモノに なるだろう。だが、日本語を かきあらわすのに 漢字を つかう と いう ことは まさに これと おなじ ことなので ある。

  「微笑む」と かいて「ほほえむ」と よませる ことも おこなわれて いるが これも ゆるすまじき ことで ある。「ほほえむ」とは 本来「ホホが えむ」と いう 意味で あるが、「微笑む」と かいたのでは その ことが みえなく なり、「微(かす)かに わらう」と いう 意味に すりかわって しまう。コレは 日本語の 伝統の 破壊で ある。

  漢字が いかに 日本語を いためつけて いるか、イチイチ ここに しめす スペースは ないが、 漢字とは 中国語を かきあらわす ために つくられた 文字で あるから、系統の ことなる 日本語を かきあらわすのは 無理で ある こと、そして その 無理を おして つかって いるのが 日本語の 表記で あるから、漢字に よって 日本語が ほろぼされるのは 当然で ある ことを 指摘して おきたい。

  ワレワレの 主張に 反対する ヒトビトも 主観的には 国語愛護の タチバに たって いるので あるが、その 愛護の アリカタが 漢字信仰に よって ひっくりかえった ものに なって しまって いるので ある。コトバよりも 文字を 大切に し、日本語に ふさわしい 表記を するのでは なく 中国語の 表記を おもんじる。ヒトは いきる ために 文字を つかうのでは なく、文字の ために いきるのだ などと いって いる ヒトも いる。こう いった ヒトビトに 能率論で せまっても、議論は 平行線を たどるだけである。まちがった 国語愛護論には ただしい 国語愛護論で のぞまなければ ならない。

  進歩的な カンガエカタを して いる ヒトビトでさえ ワレワレの 主張を ただしく 理解して いるとは かぎらない。「伝統に しがみついて いるのが 漢字擁護論者で、合理性を おいもとめて いるのが カナモジ論者や ローマ字論者で ある。」と おもって いる ヒトも いる。日本語の 伝統を まもり かつ 合理的な 国語生活を めざして いるのが カナモジ運動なので ある と いう ことを、より つよく うったえて いく 必要が ある。

  カナガキを 実行して、カナの 便利サを 世間に しめして いく ことも 無論 大切な ことで ある。しかし 実際には 抵抗が おおきく 実行 できる 範囲は きわめて かぎられている のが 現実で ある。また イマの 漢字カナまじりの 表記に なれしたしんで いる ヒトビトに いきなり カタカナだけの 文章を みせても よみにくい との 印象しか あたえないから、ヘタを すれば 逆宣伝にも なりかねない。

  この ように 展望が ひらけて いるとは いいがたい 状況の ナカでも ワレワレが なしうる ことは、「国語の 愛護、独立」と いう 理念を たかく かかげ 同志を つのって いく ことで ある。当面 実益に むすびつきそうも ない 運動に ヒトを いざなう ものは ―― イマと なっては ふるくさく なって しまった コトバだが ――“イデオロギー”で あるかも しれないから。

〔原文は、「カタカナひらがな交じり文」〕


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