「カナノヒカリ」 701〜712ゴウ (1981ネン 1〜12ガツ)

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国語国字問題講座 


  第1講 漢字成立の 事情と その性格
  第2講 日本での 漢字の 足どり
  第3講 カナの 出現 以前
  第4講 カナモジ論の 出現まで
  第5講 明治の 新時代を むかえて
  第6講 漢字制限の 足どり
  第7講 当用漢字時代
  第8講 教育問題としての 漢字
  第9講 国語問題としての 同音語問題
  第10講 漢語と 外来語の 比較
  第11講 かなづかい問題と 音韻の 役割
  第12講 新国字論・ローマ字論・カナモジ論


 (注) 原文は、漢字カタカナ交じり文であリ、かなづかいも表音式である。    


第1講  漢字成立の 事情と その性格

漢字の 起源は 甲骨文に

  漢字は、ソウケツ と いう 人が、鳥の 足あとを 見て 作った のだ と 言いつたえられて います。 しかし、それは、よりどころの ない 伝説に すぎません。
  もっとも、原始時代の 人が 鳥や ケモノの 足あとを 見つけて、エモノを とらえる のに やくだてた と いう ことは あった でしょう。 そして そのような ことが のち には モジと いう ものに 発展して いく 手ががりの ひとつ として やくに たった かも しれません。
  今日までに 発見されて いる ものの なかで、漢字の 起源に なった いちばん ふるい 時代の ものは、紀元前 約 1,300年から、およそ 300年間、イン(殷)の ミヤコの あった 土地から 大量に 出土した 「甲骨文」 で あります。
  甲骨文 と いう のは、当時、ウラナイの ために つかった 亀の コウラや 水牛の 三角ボネ などに、ウラナイ関係の 記録を きざんだ もの なのです。 その ウラナイの 方法と いうのは、ヤキ−ヒバシを 甲骨に あてて ヒビワレを つくり、その ヒビの デキカタに よって うらなう と いう 方法 なのです。
  甲骨文が もちいられた のは いま から すでに 3,000年 ほども まえの こと ですが、これが 発見された のは、19世紀の 最後の 年、1899年 でした。 そして、これを 読みとる 研究には、日本の 学者たち、とくに 京都帝国大学の 功績も おおく、単に 漢字の 歴史 ばかりで なく、中国 そのものの 歴史を 知る 貴重な 資料にも なった のでした。

文字の 条件に てらして

  甲骨文には、「文」 と いう 名、すなわち、「モジ」 と いう 意味の ナマエが あたえられて いる のですが、はたして これを モジと いえる でしょうか。 モジ と よぶ ため には、いくつかの 条件が 必要です。
  第1に、いうまでも ない こと です けれど、なんと いう コトバを あらわした もので あるかが、モジを みたら わかる ように なって いなければ なりません。 モジの 定義は コトバを あらわす 記号 だ から です。
  ここに かかげた〔図は省略〕のは、甲骨文の 「鹿」 です。 どれも 鹿を 完全に あらわして いる とは いえないし、それに カタチも テンデン バラバラ です。 けれども、とにかく 鹿で ある ことを しめして いると いえましょう。 だが、あらゆる コトバが このように 絵で あらわせる もの では ありません。
  コトバの なかには 「うれしい」 や 「かなしい」 の ように、カタチ では あらわせない ものも たくさん あります。 しかし、クチに かたる コトバの ほうは、絵には かけなくても 発音の うえで 区別する くふう、すなわち コトバ と いう ものを 考案する ことが できます。 そして さらに その 発音を うつす 記号は つくれば 絵に 書けない コトバをも 書きとる ことが できます。
  甲骨文は、この 問題をも ある 程度は 処理して います。それは、意味は ちがっても 発音の おなじ 字を 代用させる と いう 便宜的な 方法です。
  この ことを わかりやすく 説明する ために、日本語の 例を だしましょう。 ある 文章の なかで 「責任転化」 と いう コトバを 見かけた ことが あります。 もちろん 「責任転嫁」 の 書きあやまり ですが、しかし 発音だけは くみとる ことが できます。 発音 さえ わかれば よい と いう なら、「転可」 でも 「天下」 でも よい わけ です。 これと おなじ ような 書きかたが、甲骨文には いくつも みられます。
  この 図〔省略〕は、天気を うらなった 甲骨文の 例 です。 この 甲骨文に きざまれて いる モジ(?)を 現在の 漢字に あらためると、「辛酉卜貞・今日不雨・其雨・妹雨」 と なります。
  第1行は ウラナイを した 月日 です。
  「其」 と いう 字は、もともとは コクモツを よりわける 「キ」 と いう 農具を しめす モジ ですが、それを 借りて 同音の 助詞を しめした もの。 「妹」 は 今日の 「昧」 に 相当する 「未明」 を あらわした もの です。

中国語は 単音節語

  この ように、おなじ 音の 字を 借用する ことを 「仮借」(かしゃ) と いいますが、この 方式は、「表意文字」 として うまれた 漢字に 表音モジ化 の 現象が あらわれて きた のだ と いう こと なのです。
  今日、世界中には、ローマ字を はじめとして いろいろの 表音モジが もちいられて います。 けれども、それらは 表意文字から 進化した もの でした。 それなのに、このように すでに 甲骨モジの 時代に 表音化を はじめて いた 漢字が、なぜ 本質的には いまもって 表音モジの たちばを 持ちつづけて いる のでしょう。 国語国字問題の たちば から、すなわち 日本語を 書きあらわす モジとして 漢字を 考えるのに、これが いちばん 重要な 点 なのです。
  漢字が、もともと 中国語を あらわす ために つくられた もので ある ことは、あらためて いう までも ありません。 ひとくちに 「中国語」 と いっても、時代に より、また 地域に よって いろいろの ちがいが あります。 けれども、いずれの 時代、どこの 地域の コトバも 「単音節語」 で ある ことは 共通して います。
  単音節語 と いう のは、すべての 単語が 1音節に なって いる コトバの こと なのです。 日本固有の コトバで いえば 「根」 や 「葉」 は、「ネ」、「ハ」 と いう 1音節だけの コトバ です。 すなわち 単音節 です。 もし、日本語が すべて 単音節で あったら、どう いう ことに なる でしょうか。 日本語の 単位たる 音節の かず よりも おおくの コトバを つくろうと すると、耳では 区別を つける ことの できない、おなじ 発音の コトバが たくさん できて しまいます。

「仮借」 の なやみ

  同音の 単音節語を、区別が つく ように 改善する 方法は、複音節の コトバに する こと です。 日本語の 例で いえば 「やま・かわ」 は 2音節、「さくら・もみじ」 は 3音節です。 このような 複音節の コトバを つくれば、音節の 種類は それほど たくさん なくても、それぞれに 区別の つく コトバを たくさん つくる ことが できます。
  こうした 日本語の ことは、あとの 機会に あらためて のべます。 さしあたりの 研究課題は 中国語です。 中国語は できるだけ 単音節の 方式を 守りつづけようと しました。 それで、まず、音節の かずを ふやす ことに つとめました。 日本語の 現在の 音節は 100種類 前後に すぎませんが、中国語の 音節数は 411種 と かぞえられて います。 この へんが、人間の 口に 言いわけ、人間の 耳に 聞きわけられる 限界でしょう。 その 結果、おなじ 音節の コトバが たくさん できる のは やむを えない こと です。
  モジの ことは さて おくと しても、口と 耳の あいだで 意味を つたえあう 「ハナシ−コトバ」 を 実用上 こまらない ように する ために、なんらか くふう しなければ なりません。 そこで 中国語では ただ 単に 音節の ちがい だけで 聞きわけさせる のでは なく、アクセントや 声の 出しかた など にも 複雑な 使いわけの きまりを 設けました。 その ために 表音モジ化 する ことが いよいよ むずかしく なって しまいました。
  しかし、すでに のべた ように、あらゆる 単語を 象形、すなわち 絵で 表現する と いう ことは 不可能な こと です。 でも、なんとか して あらゆる 単語に 対して それぞれに モジで 表現する 方法を かんがえなければ なりません。
  そこで、その 具体策も とりいれられました。 まず、すでに 例に あげた 「仮借」 の 方法です。 しかし、この 方法には おおきな 欠点が つきまといます。 さきに かかげた 甲骨文の なかに 「未明」 を 意味する コトバに 「妹」 と いう 字を あてて いる 例が ありました。 それが、はたして 未明の 意味か、それとも 「いもうと」 の こと なのか、場合に よっては まよう ことも あるし、とりちがえる ことも あります。 やはり おなじ 甲骨文の なかの 「其」 も、本来の 農具を 示した のか、「それ」 と いう 指示語を 示した のか、さらに 1行目の 「貞」 も 本来は 「かなえ」 です から、とき には とりちがえる ことも ある かも しれません。

「形声」 への 活路

  「白」 と いう 漢字は 本来は 「ドングリ」 で、この 字形は ドングリの 象形です。(異説も あるが、この 説が 有力です。) むかしの 中国語では、ドングリの ことも 「しろい」 と いう 意味の コトバも、「ものを もうす」 と いう コトバも すべて ドングリを 示す コトバと おなじ 発音で あった ので、「白」 は しろい いろを 示す のにも、あるいは 「敬白・自白・白状」 などの 用字にも つかわれる ように なりました。
  しかし、こうした 「仮借」には 効果の 限度が ある ので、おなじ 発音の コトバに 「柏・粕・迫・拍・伯・舶・狛・帛」 などの 字を あてる ように なりました。 「柏」 は 木に 関する 「白」 と おなじ 発音と いう こと、「粕」 は 米に 関係ある 「白」 の 発音と いう しくみ です。この ような 漢字の ことを 「形声」 と いいますが、今日 漢字として みとめられて いる ものの 大部分は この 「形声」 で あります。
  これは たくみな くふうで あった とも いえるが、その ために、漢字の かずが とほうも なく ふえて しまいました。 いったい 漢字は 何千字 あるのか 何万字 あるのか、だれも はっきり こたえる ことが できません。 だれかが 作った 漢字だが、あまり 用いられない ものや、さっぱり 用いられない ものも あります。 が、いちおう モジとして みとめられて いる ものを あつめると、およそ 5万字に なると いわれて います。(康煕字典は 48,641字)
  しかし、人間が おぼえる 能力には かぎりが あります。 5万字の 10% さえ、ふつうの 能力の もの には 一生 かかっても おぼえきれない でしょう。 ここに 国字問題の 最大の 論点が ある のです。

第2講  日本での 漢字の 足どり

最初に 輸入された 漢字

  国語国字が どのようで あるべきか、そして どのようで ありうるか と いう ことは、いわゆる 人文科学上の 課題で あります。 主張が 空論に おちいらない ため には、なによりも 歴史上の 足どりに するどく 視線を そそいで みる 必要が あリます。 その ため、この 講座では、これから あと しばらく 歴史の ながれを たどる ことに します。 単なる 記録を ならべる ため では ない、と いう ことは、読みとおして くだされば かならず なっとく して いただける と おもいます。
  カタカナも ヒラガナも 日本人の すばらしい 発明品ですが、その もとに なった のは 中国から 輸入した 漢字です。 漢字の 渡来する までは、日本には モジと いう ものは なかった のです。
  漢字の 渡来する まえに、すでに 日本にも 独自の モジが 用いられて いた と いう説も ありますが、提示されて いる 現物は、すべて 学界からは 否定されて います。
  では、いつ、どのように して 漢字は 日本に つたわって きた のでしょう。
  ヤヨイ時代の 出土品の なかに、中国の 貨幣が みつかって います。 それ には 「貨泉」の 2字が ついて います。 この 貨幣の もちぬしで あった 日本人が、これを モジとして 理解して いたか どうか わかりませんが、この 貨幣は 西暦 1世紀の はじめに 中国で 作られた もの でした。
  日本人が あきらかに モジとして 理解した と おもわれる もの、そして その モジを かけがえ なく 貴重な もの として たいせつに した と 想像される のは、西暦 57年 に、中国の 漢の 光武帝 から、日本の 「奴」(ナ)の 国王に たまわった 黄金印です。
  この 黄金印は 1784年(天明4年)に、いまの 福岡県の 志賀島で 土中から 発見された のでした。 「奴」 と いう 国は どこに あったか、どんな 国で あったか、いろいろな 推論は ありますが、定説には 達して いません。 しかし、とにかく この 6字を モジとして うけとめた こと には まちがいが なかった でしょう。

朝鮮半島から 学者を むかえて

  日本人が 本格的に 漢字を まなびはじめた のは、3世紀の すえに クダラから 王仁(ワニ) などの 学者を むかえて からの こと でした。
  日本の がわが モジを 受けいれた 第1の 目的は、大陸の 文化を 受けいれる ため でした。 王仁は 「論語」 を たずさえて きた のでした。
  漢字学習は 「論語」 の 勉強から はじまりました。 ただし それは 中国語や 朝鮮語を まなぶ ため では なくて、意味、内容を くみとる ため なのでした から、中国語の 原語で 読まずに いきなり 日本語で 読む 方式が とられました。 ただし、日本語で 読む ことの 困難な コトバ だけは 外来語として 読みました。 これは いまも そのままに 「漢文」 の 読みかた として もちいられて いる 方式です。
  たとえば 論語の 「内省不疚夫何憂何懼」 を 「うちに かえりみて やましからずんば、それ なにをか おそれん」 は すべて 和語に 訳して います。 しかし、「匹夫不可奪志也」 を 「ひっぷも こころざしを うばうべからざる なり」 と 読んで いる のは、「匹夫」 が 和語では 訳しにくい ので 漢語の まま、すなわち 「外来語」 として 処理して いる のです。
  その 目的が、中国語を おぼえる ため では なくて 意味、内容を 知る ため なら、たしかに このような 読みかたは 手っとりばやい 方法 だと いえましょう。 しかし、この ことに よって 日本の 国語、国字は ほとんど 土台から ゆさぶられる ことに なりました。 つぎに その 足どりを たどって みましょう。

漢字の 訓読から おきた 問題

  たとえば 「十八史略」 の 「陥之死地而生」 の 「生」 は 「いきる」 と 読みます。 「中庸」 の 「生呼今之世」 の 「生」 は 「うまれる」 と 読みます。 「生」 の 字は そのほか、場所に よって 「うむ・はえる・なま・き」 などと、いろいろに 読みわけなければ なりません。 なぜか と いえば、「生」 の モジで しめされて いる 中国語は ひとつの コトバ なのですが、その ひとつの コトバに いろいろな 意味が 約束されて いる から なのです。 しかし、日本語では 「いきる」 と 「うまれる」 と 「はえる」 と 「なま」 は べつべつの コトバ です。
  漢字を 本来の 日本語で(和語)で 読む ことを 「訓読」 と いいます。 訓読は 漢文を 日本語で 読む 必要から うまれた もの なのですが、それは 当然、日本に おける 漢字の 読みかた としての 地位を あたえられる ことに なる わけ でも あります。 つまり、その ことは、結局、日本語を 書く のに 中国語に 訳して 書く ことで あり、また それを 読む ときは それぞれの 場合を かんがえて 読みわけなければ ならない と いう ことに なる のです。
  こう した ことは、ひとり 「生」 の 字 だけ では ありません。 「上」 の 「あげる・うえ・かみ・のぼる」 や 「下」 の 「した・しも・さげる・もと・くだる・おろす」 など、ほかにも たくさん あります。 国語の 主体性 と いう ものを かんがえる なら、これは 単に 読みにくい とか 書きにくい とかの 問題に とどまる もの では ない。 また 単に 主体性を まもる ため と いう ような メンボクの 問題だけに とどまる もの でも ない のです。

熟字訓は さらに 深刻な 問題

  「とんぼ」 と いう コトバを 漢字では 「蜻蛉」 と 書きます。 では 「蜻」 と いう 漢字は どう いう 意味かと いうに 「とんぼ」 の こと なのです。 「蛉」 も やはり 「とんぼ」 の こと です。 では なぜ、おなじ 意味の 字を ふたつ ならべる のでしょうか。 「蜻」 と いう 発音の 中国語は ほかに まだ たくさん ある ので 「蜻」 だけの 発音では 意味が 通じません。 「蛉」 に ついても おなじ 事情が あります。 そこで、「蜻」 と 「蛉」 を つづける ことに よって 「とんぼ」 で ある ことを つたえる のです。 中国語は、単音節語で ある こと から 生じる 短所を こうして うめあわせて いる のです。
  これは なにも 「蜻蛉」 だけに かぎる こと では あリません。 おなじく 虫の 名 だけを ひろっても 「とかげ・なめくじ・けら・こおろぎ・きりぎりす・ばった」 そのほか まだ いくらも あります。 また これは 虫の 名 だけの こと では ありません。 あらゆる 方面の コトバに みられる こと です。(いちいち 漢字を かかげる ことは 印刷工程の うえ から 略しますが)
  それでは 漢文の 原文を 日本語に 訳しながら 読む ばあい、たとえば 「蜻蛉」 を なんと 読むべき でしょうか。 まさか 「とんぼ とんぼ」 とは 読めない でしょう。 漢字 2字を まとめて 「とんぼ」 と 読む より ほか ない でしょう。
  では、漢字を つかって 文章を 書く ばあい 「とんぼ」 を どのように 書くべきか。 その 場合でも やはり 「蜻蛉」 を 「とんぼ」 と して 読みなれて いる 関係上 「蜻蛉」 と 書く のが しぜんの なりゆき でしょう。
  「とんぼ」 を 「蜻蛉」 と 書く ように、2字以上の 漢字を かためて 特殊の 読みかたを する 表記法を 「熟字訓」 と いいますが、熟字訓 と いう 不合理な 表記法は 漢字の 本国には ない もの だ と いう ことを あらためて 反省する 必要が ありましょう。
  熟字訓は 「蜻蛉」 の ように おなじ 訓読の 漢字だけを くみあわせた もの とは かぎりません。 「いなか」 を 「田舎」 と 書いたり、「雪崩」 を 「なだれ」 と 読んだり する ような のも、やはり 熟字訓 です。 このごろは 熟字訓は よほど すくなく なって きて いますが、まだ かなり のこって いる ことも 事実です。

漢音と 呉音の 勢力あらそい

  いままで のべて きた ことは、漢文 すなわち 中国語の 原文を 和語に 訳す ことに よって おこる 問題 でした。 漢文を 読みこなす しごと には、そのほかに 原文の コトバを そのままに 「外来語」 と して 受けいれる ばあいに おこる 問題が あります。 「字音」 の 問題 です。
  日本で おこなわれて いる 字音には、たとえば 「人」 を 「ジン」 とも 「ニン」 とも 読む ように、「漢音」 と 「呉音」 とが もちいられて いる 例が たくさん あります。 「ジン」 は ホアン川(黄河)文化圏の 音で、「漢音」 と いいます。 「ニン」 は ヤンズー川(揚子江)文化圏の 音で 「呉音」 と いいます。
  ワニたちが つたえた のは 呉音で あったろう と みられて います。 それは、当時 クダラに おこなわれて いた のが 呉音で あった と みられて いる から です。
  しかし、のちに なって 日本から 留学生が いく ように なり、そして 中国の 文化の 中心地は 北方の チャンアン(長安)に うつった ため、日本でも 字音は 呉音から 漢音に かわって いきました。 日本の いわゆる 文教当局が さきに たって、その ことを 重要な 政策として とりあげました。 そして その 効果も おおいに あがりました。 けれども 完全に 改める までに いたらず、ことに 仏教関係の コトバは、今日も 「経文」(キョウモン) とか 「精進」(ショウジン)の ように、ほとんど すべて 呉音で 読んで います。 そして、その 結果、現在でも たとえば 「有無」 が 「ウム」 なのか 「ユウム」 なのか と いう ような わずらわしい 問題が いろいろ のこされて います。
  さらに いえば、中国では そののちも いろいろ コトバの うつりかわりが あり、また それらも 日本の 漢字の よみかたに ひびいて きて います。 ひとくちに 「唐音」 と 言って いる ものの なか にも、たとえば 「行灯」(アンドン) と 「提灯」 では おなじ 「灯」 を べつべつに 読まなければ なりません。 さらに、「現代音」 と 言って いる 「焼売」(シューマイ)、「雲呑」(ワンタン)の ような ものも いろいろ あります。 漢字の 本国の 中国では みられない なやみが 日本に ある 事実は、あと にも いろいろ でて きますが、字音の ことも その ひとつ です。
  さらに 言いそえると、中国では 漢字 そのものを どんどん 「簡体字」 に あらためて います。
  ここに かかげた〔省略〕 のが その 一例です。
  左側は もとの 字体、右側が 簡体字です。 「日支同文」 などと いう コトバを よく きく ことが ありますが、事実は もっと こみいって いる ことを 知らなければ なりません。

第3講  カナの 出現 以前

仮借に よる 固有名詞の 表記

  東京の 国立博物館を おとずれると たやすく 見る ことが できますが、「隅田八幡銅鏡」 と いう のが あります。 この 「隅田」 は 「すだ」 と 読みます。 この 銅鏡は 日本で 作られて いま のこって いる 品の うち、年を しるして いる もの としては、いちばん 古い 品 と みられて います。 年は 「癸未年」 と いう のです。 「癸未」 は 「きび」 と 読みますが、「十干、十二支」 は 60年ごとに くりかえされる ので、この 「癸未」 は、西暦の 443年 か、あるいは 503年で あろうと みとめられて います。
  この 銅鏡の うら には、これを つくった いわれが 漢文で しるされて います。 当時は 文を 書く と いう ことは、漢字 ばかりで 漢文を 書く ことに きまって いた もの でした。 この 銅鏡の 文も その 例外では ありません。
  ところが、この 文の なか には、日本の 固有名詞と みとめられる コトバが まじって いる のです。 それらの なかで、読みかたの はっきり わかって いる のは 「意志沙加宮」 と いう モジ です。 これは 「おしさかの みや」 と 読まれて います。 おしさか と いう 発音を、それと おなじ 発音の 漢字を 借りて あらわした もの です。
  このような 表記法は 日本人の 考案した もの では ありません。 中国に ふるく から おこなわれて いた ことは、すでに 第1講で 「仮借」(カシャ)として、いくつか 例を あげて 説明しました。 しかし、これを 土台に して カタカナ だの ヒラガナ だのを つくった のは 日本人の ちえ でした。 これに よって、日本古来の コトバを はっきり 表現する ことが できる ように なり、ヒラガナは 優美な 字形として、カタカナは 能率の タカイ 字形として、日本文化に 大きく やくだって いきました。

古事記の 表記法

  古事記は、奈良時代の 712年(和銅5年)に、持統天皇の 命に より、太安万侶(オオノ ヤスマロ)が 稗田阿礼(ヒエダノ アレ)の ものがたる 神話や 歴史を そのまま 書きうつした もの です。
  ヤスマロ は、ヒエダノ アレ が ものがたる そのままを 書きうつす のに たいへんな くろうを した ことを、その 序文に のべて います。 その 一節の 意味は 「漢字の 字義に よって 訓で 書くと 意味が ちがって くるし、ものがたった そのままを 書くと 長く なる。 それで、訓で 書いた ところも あり、音と 訓とを とりまぜて 書いた ところも ある。」 と ことわって います。
  ここに かかげた〔省略〕 のは、現存する 古事記 最古の 真福寺本の 一部です。
  はじめの 割注に ある 「流字以上十字以音」 は 「久羅下那州多陀用弊流」 の 10字を 表音用に 書いた もの だ と いう こと、つぎの 神の 名は 「ウマシアシカビヒコチ」 で、その つぎの 割注は 「常」 は 「トコ」 で 「立」 は 「タチ」 で ある ことを しめした もの です。

万葉集の 用字法

  万葉集は 古事記が できて から 47年後(759年)に、大伴家持(オオトモノ ヤカモチ) たちが、すぐれた 短歌や 長歌を あつめて まとめた もの と みとめられて います。 しかし、まだ カナが できて いなかった ので、モジは すべて 漢字を つかって います。 この 用字法は 古事記の 用字法に ならった もの かも しれません。 訓読の ところも あるし 音読用の ところも ありますが、しかし、古事記の ような 割注は ありません。 訓読用の 部分は、なんと 読むのか 判断の つかない ところも めずらしく ありません。 たとえば 天智天皇が 皇子の とき つくった 歌は 「わたつみの とよはたぐもに いりひさし こよひの つきよ」 までは わかるが、最後の 「清明己曽」 は なんと 読む のか いまだに 定説が ありません。
  しかし、たとえば 大伴家持の 立山の うたの 「多知夜麻_ 布理於家流由伎能 等許奈都_ 気受弖和多流波 可無奈我良等曽」 は 「たちやまに ふりおけるゆきの とこなつに けずて わたるは かむながらとぞ」 と、はっきり 読めます。 このような 表記も たくさん 用いられて います。
  このように、1音節ごとに 漢字を あてはめて 書く 書きかたを 「万葉ガナ」 と いいますが、その いわれも こうした 事実を ふまえて いる わけ です。 ただし、この 方式には、どの 音節には どの 漢字を あてるか と いう きまりは ありません。 たとえば 「カ」 の 音に 対して 「可加架香甲蚊閑」 そのほか 全部で 17種 もの 漢字が かぞえられて います。 「シ」 などは 30字以上も 使われて います。
  また、当時は まだ 濁音記号が つくられて いなかった ので 「カ」 と 「ガ」 だの、「シ」 と 「ジ」 だのも べつべつの 漢字で あらわされて いました。 また、「キ」 や 「ケ」 そのほかの 発音は コトバに よって 用いる 漢字が 区別されて いました。 この ことに ついては、あらためて 音韻の 講座を もうける おりに 説明します。

宣命書きの 出現

  神官が 神前で 読む 「祝詞」(のりと)には 今日も 独得の 表記法が 用いられて います。
  ここに かかげた〔省略〕 のは 「祈年祭」 の 祝詞の 一部分です。 読みかたは、「みとしの すめがみたちの まえに まおさく すめがみたちの よさしまつらむ おくつ」 です。
  この 表記法の うちの 特に 小さな モジで 書かれて いる のは 「の・に・く・の・さし・む」 です。 すべて 助詞や 活用部です。 これらの 用法の 原則さえ おぼえて おれば、古事記や 万葉集の 用字法 よりは はるかに 読みやすい わけ です。
  この ような 書きかたは 「宣命」(センミョウ) すなわち、天皇の 命令を つたえる 文章に 用いられた もの でした。 公式の 詔勅には 漢文が 用いられましたが、口頭で つたえる 命令は 「宣命」 と いいました。 古事記が できた とき よりも まえの 宣命に この 表記法の ものも ありますが、それは のちに 記録として 書きあらためた ものと みられて います。
  この 表記法は 「宣命書き」 と いいますが、宣命書きの 出現も カナの 出現の みちを ひらく のに やくだった と おもわれます。 ただし、ここで とくに 言いそえたい ことは、祝詞には いま 例を あげた ように、いまもって 宣命書きが おこなわれて いる。 それは なぜか と いう こと です。 祝詞 と いう ものの 権威、そして 漢字は 権威の ある モジ、カナには 権威が ない と おもって いる、古来の ぬきがたい 観念を まのあたりに みる おもいが する では ありませんか。

ヲコト点の 秘密性

  古事記に 用いられた、小さな 漢字での 割注の 表記法も、さらには 宣命書きに よる 助詞の 類の 表示法も、それぞれに 特色は あった のですが、しかし、どちらも 漢字を 小さく 書く と いう 書きにくさ、そして こみいった 字画の 漢字を 書く わずらわしさ に、人々は 不満を 感じた と おもいます。 そして、小さな 場所に すばやく 書きいれる 方法が 要求された と おもいます。 この 要求に こたえて カナが 出現した ことは いうまでも ありませんが、それは あとの はなし です。 この 要求を ある 程度 みたす ために 「ヲコト点」 と いう ものが 考えられ、奈良時代から ひさしく 使われました。
  それは、いろいろな 形の しるしを 漢字に 書きそえて、その 形や 位置に よって 活用や 助詞などを 示し、あわせて 漢字の 読みかたを 判断させる 方法です。
  これ〔省略〕が その 一例ですが、右上の 点を 「ヲ」、その 下のを 「コト」 と 読むので 「ヲコト点」 と いいました。
  ヲコト点の 使いかたは、それぞれの 塾ごとに さだめ、よそに 教える ことを 禁じて いました。 いわゆる 秘伝 だった のです。

対立する ふたつの 問題

  以上の ことは まとめると、最初は 文章と いう ものは 漢文で 書く もので あったが、日本の 地名や 人名などを 示す 漢字は ないので、漢字を 表音用に つかいました。 しかし、それだと 字義と まぎれる ために 割注を ほどこす ことを くふう しました。 けれども 割注は 書く のにも 読む のにも わずらわしい ため、表意用 なのか 表音用 なのかは 読者に 判断させる ように なりました。 だが、その ために、読みかたが わからない と いう 不合理が でて きました。
  ヲコト点 や 宣命書きは その ひとつの 解決法でしたが、完全な もの では なかった ばかりで なく、知識を 特権として ひとりじめに する 時代の ありかたに はばまれて、ひろく おこなわれる よう には なりませんでした。 
  モジや 文章は、だれもが たやすく おぼえる ことの できる もので ありたい と いう 念願と、知識を 特権として まもるべき だ と いう 防衛の 陣営 とは、もともと 折れあう ことの むずかしい 問題でした。
  だが、それ以外に、考えように よっては もっと 本質的な 問題が あります。 それは、和語、すなわち 固有の 国語に 漢字を あてる ことは 元来 不合理な こと だ と いう 問題です。 たとえば 百人一首の 中の よく 知られて いる 一首 「奥山にもみぢふみわけなく鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき」 の 「もみぢ」 は、漢字では 「紅葉」 と 書く ならわしに なって いるが、この 字は モジどおり 紅色を さす もの です。 和語の 「もみぢ」 には 黄色のも ふくまれて いる から 「紅葉」 と いう 用字は あてはまらない のです。 また 「秋はかなしき」 には、漢字の 「悲・哀・愛」 の どの 字義も ふくまれて います。 一つの 漢字で 示す ことは できない のです。
  和語と 漢字とを 同じ 意味に 用いる ことが 不合理な 理由は、この 逆の 場合も あります。 一つの 漢字が 和語の いくつもの 意味に つかわれる 場合も ある のです。 その ことは さきに 「生」 の 字を 例に あげて 述べました。
  これは 漢字を どのように 使うべきか よりも、漢字を つかうか どうかの 問題に なる のです。

第4講  カナモジ論の 出現まで

カタカナの なりたち

  日本人は、ものごころが ついた 当時から 日本固有の 「日本語」を 聞きなれ 言いなれて きました。 漢字を 知り 漢文を つづる ことも おぼえました。 しかし、漢字漢文では 日本人 と しての 血の かよいかう 心情を ありのままに 伝えあう ことは できません。 日本の 固有の コトバで 日本人の 心情を、しかも たやすく 書く 方法を 手に したい と ねがう のは しぜんの 要求で あった でしょう。
  この ねがいを はたす のに、古事記の 割注の 方法や、宣命書きや、万葉集の 用字法や、ヲコト点 など いろいろ くふう しましたが、いずれも 満足の いく もの では ありませんでした。
  平安時代の 初期に、僧たちが 仏典に 読みかたを 書きそえる ために、今日の コトバで いう 「ふりがな」 を くふう しました。 それは、漢字を 表音用に つかった 「万葉ガナ」 を、できるだけ 略体化した もの でした。 それに よって、せまい 場所に すばやく 書く ことが できる ように なりました。 また 略体化 する ことに よって 漢字との まぎれを ふせぐ ことも でき、表音モジ としての 独自の 存在に なる ことが できました。 こうして 出現した のが 「カタカナ」 でした。
  もっとも、はじめの ころは、どの 発音に どの 漢字の 略体を あてるか と いう きまりも なかったし、また、利用する 漢字を どのように 略すか と いう きまりも ありませんでした。
  その ため、おなじ 形が 人に よって ちがう 発音を 示す と いう ことも ありました。 ここに その 一端を かかげる〔省略〕 ように、「ナ」 の 形で 「ウ」 の 発音を 示したり、「ソ」 は 「タ」 の 発音を 示した のか、「メ」 の 発音を 示した のか わからない と いう ような、共通性の とぼしい もの でした。
  しかし そののち ながい 年月の あいだに、そして かず おおくの 人々の あいだで、字体が しだいに 統一 されました。 鴨長明が 「方丈記」を 書きあげた のは 建暦2年(1212)、すなわち 鎌倉時代の はじめ ですが、この 本は ほとんど カタカナ ばかりで 書かれて おり、そして その 字体は 今日の カタカナと まったく おなじ と いって よい ほどに なって います。 
  モジを あらためる と いう ことは 不可能の ことの ように 考えられがち です。 しかし 欠点の ある モジを よりよい ものに あらためる ことは、人々の ちえと 努力と 年月を そそぐ ことに よって なし えられる ことを、この 事実は おしえて います。

ヒラガナの なりたち

  カタカナは かずおおくの 人々の 努力に よって つくられた と いいましたが、その 「人々」 は すべて 男性でした。 カタカナを 用いる ことや 漢籍を 読む ことは 男性の 特権で あった のです。 中国から 輸入された、男尊女卑の 観念に よる もの です。 「紫式部日記」 には、彼女が こっそり 漢籍を 読んで いたら 同僚の 女房に 「なづふ女が真字書(まんなぶみ)は読む。むかしは経よむをだに人は制しき」 と いさめられた ことが 書かれて います。
  ひらがなは、こうした 時代に、女性たちが 「モジでは ない 記号」 として ひねりだした もの だった のです。 素材に した のは 万葉ガナ でした。 すなわち 万葉集に 見かける、表音用に つかった 漢字です。 それを できるだけ くずして 漢字と 縁を 切った のです。 当時、漢字を 「真名」 と 呼んだ のは、漢字だけを モジと みとめた ため でした。
  漢字と 縁を 切った ついでに、できるだけ 優美な 字体を くふう しました。 そのような くふうを する こと には 男性たちも 興味を もつ ように なりました。 その 結果、紀貫之や、小野道風や、連綿体の 開拓者の 藤原公任(キントウ) など ひらがなの 書道を ひらく のに つくした 男性も あらわれました。
  カタカナは 実用性を めざした ので、ひとつの 発音には ひとつの 字体 と いう 理想を はやく から 実現した のでしたが、ヒラガナは ひとつの 発音に さまざまの 漢字に 由来する 字体を 自由に 使いちらす と いう 流儀を、今日も つづけて います。 そして それは、美的効果を あげる ための たいせつな 要件に なって います。 明治以後は 活字印刷が 広く おこなわれる ように なった ため、やむを えず 印刷物は 1発音に 1字体を 用いる ように なりましたが、活字に 関係の ない 文書には いわゆる 変体ガナが 根強く 愛用されて います。
  紫式部は 源氏物語の なかで 光源氏の セリフの 形で 述べて います。
  よろづの事むかしには劣りざまに浅くなりゆく世の末なれど仮名のみなん今の世はいと際なくかしこくなりにたる と。 現代語訳すると、「なにごとも 昔よりは おとる 世の中に なったが、カナ ばかりは グングン よく なって きた。」 と いう のです。 ヒラガナの 美が 追いもとめられた 様子が 想像されます。
  ヒラガナが みがきあげられて いった 平安時代は カナ文学時代 でも ありました。 竹取物語・宇津保物語・土佐日記・かげろうの日記 そのほかの 作品が 現れましたが、最高の 名作は 源氏物語でした。 池田亀鑑博士は 「日本文学辞典」 に 述べて います。 「源氏物語の叙述において注意される点は、とくに美を構成する情緒表現の深さ、心理・人生の背景描写の精密さ、深い陰翳と優雅な品格にうらづけられた文体の美しさなどである。」 と。
  当時の カナ文学が このように 成功した のは すぐれた 作家たちが あらわれた ため でも ある けれども、固有の 日本の コトバが、カナ だから こそ 思いの ままに つかう ことが できた から でした。

権力の バリケード として

  平安時代は 貴族文化時代でした。 ヒラガナの 完成は すぐれた 女流作家を たくさん そだてた けれども、その 女性たちは すべて 貴族の 女性たち でした。
  ところが、鎌倉時代以後は、政治権力が 貴族の 手から はなれました。 新しい 権力者は いずれも 武家の 一門でした。 そして 少数の 「おさめる もの」 と 大多数の 「おさめられる もの」 とを 区別する ための バリケードが めぐらされました。 その バリケードの ひとつ として 大いに 役だてられた のが、漢字、漢語で あり、漢文でした。
  平安朝文学では、女性の 人間性が 生き生きと 描かれましたが 新しい 権力者階級からは そんな ものは けしからぬ と とがめられました。 カナモジの 読みものは ようやく 「草双紙」(くさぞうし) と よばれる 低俗な 双紙るいに その 余命を つなぎました。 多少とも 権力者の 実情を うかがわせる 出版物を 出すと きびしい 刑に 処せられました。
  武士階級は もっぱら 漢籍に よって 主君の 馬前に 死ぬ ことを 教えられて いました。 おなじ 古典でも 日本の 古典を 中心に する 「国学」 は 危険思想と みなされました。 天皇中心で、幕府中心では ない から です。 漢学にも 学派が ありますが、武家の 漢学は おもに 朱子学派 でした。 この 学派は 封建社会を 支配する 立場に もっとも 適して いました。 徳川家康が 林羅山を 用いた のも その ため でした。
  漢字の わざわいを 思い、カナ専用が 理想だと 思いついた 最初の 人は、文献で 知る かぎり では、新井白石の よう です。 白石が その ことを 考える ように なった のは、キリスト教を ひろめる ために 密入国して きた イタリアの 宣教師 ヨワン シローテ を 取り調べて いる あいだに 西洋の 文化の ことを くわしく 聞いた ためで あった かも しれません。 シローテ から 聞き知った ことがらを こまかに 書きしるし 「西洋紀聞」 と 題した 白石の 文書が ありますが、その 中に、ヨーロッパの モジの ことを 紹介して います。 「其字母、僅に二十余字、一切の音を貫けリ。文省き、義広くして、其妙天下に遺音なし、其説に、漢の文字万有余、強識の人にあらずしては、暗記すべからず。しかれども、猶を声ありて、字なきあり。さらばまた多しといへども尽さざる所あり。徒に其心力を費すのみといふ。」 と あります。
  白石は しかし、この 文書を 公開しません でした。 幕府に さしさわりが あると 考えた ため かと 思います。 出版され 公開された のは 明治に なって からの こと でした。 したしい 人に あてた 手紙の 中に、自分は カナ専用が よい と 思う と 書いて いますが、しかし、「この ことに ついては 他言を はばかる。」 と わざわざ ことわって います。

賀茂真淵の 漢字批判

  賀茂真淵は 新井白石 より 40年 あとに 生まれた 人でした。 すぐれた 国学者として 数多くの 業績を たてましたが、とくに 中国至上主義の ありかたに 反省を うながし、倒幕の 思想的な 原動力と なった ことは あらためて 説明する までも ない でしょう。
  真淵は 漢字万能の 時代に、漢字の 害を 堂々と 論じました。 文化3年(1806)に 出版された その 著書 「国意考」 から、真淵の 漢字に 対する 意見を 述べた 部分を、現代文に 要約して 紹介しましょう。
  「日本よりも 中国の ほうが すぐれて いる 証拠には、日本には モジが なかったが、中国には 漢字が ある … と いう 者が ある。 だが、中国が 国が おさまらない のも モジが 悪い ためで ある。
  ある 人が 必要な 漢字だけ 挙げた と いう のを 見たら 38,000字も ある。 地名や 草木の 名など、ほかに 使いみちの ない 字も 多い。 おぼえきれない のが 当然で ある。
  インド では 50字で 5,000巻 あまりの 仏典を 伝えて いる。 世界各国とも およそ 同様で ある。 日本でも はじめは 字義には こだわらずに、語を 主とし 字を しもべに した。 それが、のち には 主従が 逆に なり、いちいち 中国での 字義を せんさく して 使う ように なった。 その 結果、漢字は 尊い もの と 思いこむ ように なった。 中国は 風雅な 国だから 漢字も 風雅だ と いう 者も あるが、道理が 通らず 国が 乱れて なんの 風雅か。」


第5講  明治の 新時代を むかえて

最初の 運動家、前島 密

  記録で 知る かぎり、漢字の わざわいに 気が つき、カナ専用が 理想だ と 最初に 思いついた のは 新井白石で あったし、それと おなじ ような 意見を 堂々と 著作に 述べた 最初の 人は 賀茂真淵でした。 しかし、この 人たちは、運動家と 呼ぶに ふさわしい ような 活動は して いませんでした。
  「最初の 運動化」 と 呼べる のは 前島密(マエジマ ヒソカ・1835〜1919)です。
  密は エチゴの 出身者。 13歳で 江戸に 出て きて 機関学を まなび 日本周海 測量の しごとに たずさわり、のち、長崎で 英語塾を 開いた あと サツマ藩の 英語教授、さらに 幕府の 開成所の 教授に むかえられて 江戸に 出て きました。 後日、日本の 郵政の 創始者と しての 功に より 男爵を 授けられましたが、慶応2年、32歳の とき、将軍 徳川慶喜に 「漢字御廃止之議」 と 題する 建白書を 出した のを 手はじめに、終生 国語問題の ために 情熱を かたむけました。
  建白書は 非常に 長文の もの なので、原文を 紹介する ことは できませんが、まえがき だけを つぎに 原文の まま おめに かけましょう。
  国家の大本は国民の教育にして、其教育は士民を論ぜず国民に普からしめ、之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用いざる可からず、其深邃高尚なる百科の学に於けるも、文字を知り得て後に其事を知如き艱渋迂遠なる教授法を取らず、渾て学とは其事理を解知するに在りとせざる可らずと奉存候、果して然らば御国に於ても西洋諸国の如く音符字(仮名字)を用ひて教育を布かれ、漢字は用ひられず、終には日常公私の文に漢字の用を御廃止相成候様にと奉存候、(中略)目下御国事御多端にして人々競って救急策を講ずるの際、此の如き議を言上仕候は甚迂遠に似て、御傾聴被下置候程も如何有御座_と憚入奉候得共、御国をして他の列強と併立せしめられ候は、是より重且大なるは無之やに奉存候に付不顧恐懼敢て奉言上候
  つぎに かかげる のは、その あとの 文の 要約です。
  「日本の 教育は 漢字を おぼえる ことに 追われて いる ため、一般国民は 知識から 遠ざけられて いる ばかりで なく、漢字を 学ぶ 者は 中国崇拝に 走って 愛国心を わすれ、また 物理、技術関係の 知識を いやしむ ために 西洋の 文化から とりのこされて しまった。
  漢字を いま すぐ すべて やめる ことは 無理でも あり その 必要も ない。 また、漢語を やめる 必要も ないし 古語を 復活させる 必要も ない。 いま すぐ 必要な ことは、将来は 漢字を やめる と いう 目あてを さだめ、計画を たてて 実行に とりくむ ことで ある。」
  そして この 建議文は 「いやしい 身分をも わきまえずに 尊厳を 犯した 罪としては 熱湯に 入れられる 極刑をも 辞しません」 と いう 意味の 一句で 結ばれて います。
  しかし、時は まさに 幕府が たおれる 直前でした。 なんの 手ごたえも なかった のは やむをえなかった でしょう。 まもなく 明治の 新政府が できます。 すると 密は 明治2年に さっそく また 同じ 趣旨を 新政府に 建議して います。 これ には 国字問題解決の 具体策を くわしく かかげて います。 しかし、これに 対しても なんの 反応も あリませんでした。
  明治6年(1873)に、密は 独力で 「まいにち ひらがな しんぶんし」 と いう カナ ばかりの 新聞を 発行します。 その あとの 密の 活動の ことは、ほかの 項目で あらためて 紹介しますが、密は 運動家の 名に あたいする 最初の 人で あった と いえましょう。

かなの くわい の 経過

  「まいにち ひらがな しんぶんし」 は 売れゆきが 悪くて まもなく 廃刊に なりましたが、それ から 10年 すぎた 明治16年(1883)に 「かなのくわい」 が できます。
  幹部には、大槻文彦、三宅米吉、本山彦一 などの 一流人物が たくさん おりました。 その 規則 第1条には、会の 目的として 「我ガ国ノ学問ノ道ヲ容易クセンガ為メニ言葉ハ和漢古今諸外国ノ別無ク成ルベク世ノ人ノ耳ニ入リ易キモノヲ択ビ取リ専ラ仮名ノミヲ用ヒテ文章ヲ記スノ方法ヲ世ニ広メントスルニアリ」 と ありました。
  東京に 本部を、また 各地に 支部を おき、創立 5年目には 会員は 1万名を こえた そう です。 会長には 有栖川宮威仁親王殿下を いただいて いました。
  明治20年には 東京 神田に カナ専用の 教育を 実験する ために 「かな がくかう」(カナ学校)を つくりました。
  毎月 機関雑誌を 何種類も 発行しました。 執筆陣も 堂々たる もの でした。 創立の おりの 同志として さきに 紹介した 人の ほか、近藤真琴、物集高見、外山正一、森有礼、矢野文雄、末松謙澄などが それぞれ 国語国字の 問題への ふかい 関心を 示して います。
  この ような、目を みはる ばかりの 様子を 目の まえに した 当時の 人々は、いま にも 漢字全廃の 時代が くる と おもった でしょう。
  しかし 実際は、カナ時代が くる どころか、かなのくわい そのものが、会員 1万名を ほこった その あと まもなく、すがたを 消して しまいました。

言文一致運動

  国語国字の 問題の うえで 明治の 初期に おこなった ひとつの 大きな 「新時代の 波」 は 言文一致論を めぐる 論戦と 実行の ありかた でした。
  それまで 用いられて いた 文体は 口に かたる 形と ちがう 漢文読み体や、擬古文体や、候文体など でした。 すなわち 「言」 と 「文」 とが 別々で あった のです。 そこで これを 一致させる 表現を 「言文一致」 と 名づけた のは 神田孝平で あった と つたえられて いますが、その いわゆる 言文一致を 最初に 主張した のは、これも また 前島密で あった よう です。
  すなわち 密は、さきに 紹介した 「漢字御廃止之議」 の 中に 「口談筆記ノ両般ノ趣ヲ異ニセサル様ニハ仕度事ニ奉存候」 と 述べて います。 しかし、言文一致が ようやく 現実の 問題に なって きた のは、明治20年 ごろ から でした。 そして、言文一致への 賛否の 論ばかりで なく、賛成派と しても どんな 文体を 用いるかが 問題に なりました。 「ござる」 か、「あります」 か 「だ」 か。 当時 山田美妙は 「です」 を 使った 作品を 発表しました。 しかし、その 作品は 一般の 読者からは 下品だ と 非難されました。 その 理由は、「です」 と いう コトバは、江戸時代に、下町の タイコ持ち など いやしい 身分と 見られて いた 職業の 者たちが、「でげす」 とか 「でえす」 とか 言った のが つまった もの だ から です。
  二葉亭四迷の 「浮雲」 も その 当時 発表された 作品ですが、四迷は 文末を 「さりとはまたお気の毒な。」 の ような 言いさしどめ や 「何となく品格のない男。」 の ように 名詞どめに したり して、そうした 議論の たねを なるべく さける ように しました。
  しかし、どのような 言いまわし にも 反対の 人も ありました。 その 代表としては 西村茂樹を あげるべき でしょう。 西村茂樹は 有名な 国語学者で あり、文部省の 高官で あり、宮中顧問官でも ありましたが、茂樹の 言文一致反対論は 同時に ほかの 多くの 当時の 「識者」 の 意見でも ありました。 明治21年に 発表の 茂樹の 「言文一致ノ論」 には 「言文一致ハ到底行ハル可カラザルモノニシテ、ヨシヤ一歩ヲ退キ此ノ事行ハレ得ルトスルモ、ソハ僅ニ其ノ行ヒ得可キ者ノ間ニ止マリ、他ニ其利益ヲ及ボスモノニ非ザル可キヲ信ズ。」 と、口語体など 世に おこなわれる もの では ない と ありました。
  この 西村茂樹の 予言は 的中する ように 見えました。 可否両論は はなばなしく 登場しましたが、ひところ 目ざましく ひろまって きた 口語文は 火の 消えた ように すがたを 消して いきました。 当時の 文壇の 大御所で あった 尾崎紅葉 なども、はじめは 口語文に 反対して いたが、のちに なって 「二人女房」(明治25)や 「隣の女」(明治26) そのほかを 口語体で 書いたが、最大の 大作 「金色夜叉」 は また 文語文に なりました。
  教科書などは 大正時代まで 小学校の 教科書さえ 高学年の もの には 文語体が 用いられて いました。 たとえば 大正7年 発行の 尋常小学地理書には、「関東地方は東京横浜の如き我が国政治産業の大中心地あるを以って陸には東京を起点として四方に通ずる鉄道あり。」 と 書かれて いました。

歴史に まなぶ ことがら

  第2講から ここまで、もっぱら 日本の 国語国字の 歴史の ことを 述べて きました。 簡単な ぬきがきに すぎませんでしたが、しかし、国語国字が かわって いく のも、あるいは かわらないのも、どのような 力に よる ものか と いう ことを さぐりだす ため には、いちおう 素材を 提供した と おもいます。
  みじかい 時期に くぎって 見ると、どんなに 努力しても 国語国字は 動かせない ものの ように 見えます。 たとえば 言文一致の 運動も いま 述べた 限りでは 西村茂樹の 予言どおりに 失敗した ように 見えます。 しかし 事実は、今日は、なにもかも、法令さえ 口語文に なって います。 これは 決して 偶然の こと では ありません。 ひとつは 進化の 法則、さらに ひとつには 先覚者の 努力の たまもの でした。 ことに 前島密の 努力で 明治33年(1900)に 文部省に 国語調査委員会が 設けられ、その 会長に 前島密が 推された 経過は わすれては ならない と おもいます。
  これは ひとり 口語文 だけの こと では ありません。 この 機関は そののち 曲折は あった けれども、今日の 国語審議会の ながれも ここが みなもと なのです。 漢字対策 でも、タテ書き 横書きの 問題でも、用語問題でも、まだまだ 未解決の ことが 多い けれども、そして、とにかく ここまで 来た のは 密 ひとりの はたらきの ためで ない ことも もちろん ですが、ただ 単に なりゆきに まかせて いた のでは 進歩は ない。 進歩の ため には 因習の 流れを 切りかえる だけの りっぱな 理論と 啓発の 努力とが 必要で ある ことを、歴史の 事実は おしえて いる と おもいます。
  その ため にも、まだまだ たちいって 考える 必要の ある ことが いろいろ あります。 とりわけ 漢字の ありかたが 問題の 中心なのです から、現実問題としての 漢字対策に ついては いろいろ 検討しなければ ならない ことが たくさん あります。 つぎの 第6講では その ことを あつかいます。

第6講  漢字制限の 足どり

ふたつの 条件の あゆみより

  「漢字は 貴重な 文化財だ から、1字と いえども 制限しては ならない」 と いう 意見も あります。 それでは、5万字前後も ある と いわれて いる 漢字を、だれもが 全部 おぼえなければ ならない のか と いうと、そんな ことは もともと できない 相談です。 ただし、漢字は もちろん 貴重な 文化財 なのです から、辞典や 古典や 漢字の 研究論文 などは 大切に されなければ なりません。 国語国字問題 として 取りあげなければ ならない のは、一般国民の 常用の モジ としての 漢字の ありかたを どう する か と いう こと なのです。 まず、以上の 区別を はっきり わきまえて おくべき でしょう。 したがって、一般国民 常用の モジ としての 漢字は、つぎの ふたつの 条件の あゆみよりに よって 決定する 必要が あります。
  (1) 一般的な 社会生活上 要求される 表現を まかなう のに 必要な 漢字。
  (2) 一般的な 能力の 人々が おぼえる ことの できる 字数。
  この ふたつの 条件に 対しては だれもが 異存を となえる ことが できない はず です。 しかし (1) の 「必要な 漢字」 は、元来 「意味」 に 対応する コトバや モジが 社会の 慣習として なりたって いる もの なので 理想論 だけ では 通用しない 性質の もの です。
  それでは 慣習と いう ものは 決して うごかす ことの できない ものか。 この 質問に 対しても また、「時の 足どり」 が 答えて くれる はず です。

新政府の 国書と 「文字乃教」

  徳川慶喜は 慶応4年(1868)に、政権を 天皇に かえしました。 そこで 新政府は その ことを 「国書」 に よって 全世界に 告げました。 それは つぎの〔省略〕 とおり、全文が 漢文でした。
  外国人に 読めたか どうか しらないが、日本の 一般国民には 読めなかった ことは まちがい ありません。 そのような 表現が、当時は あたりまえの ように して おこなわれて いました。
  その 時代に、福沢諭吉は 「文字乃教」 と 題する 著書を 世に 出しました。(明治6年・1873) この ことは、漢字制限の 運動の 足どりを たどる うえ から 特に 注目 しなければ なりません。 それは つぎの ような 書きだしに なって いる のです。
  「日本ニ仮名ノ文字アリナガラ漢字ヲ交ヘ用イルハ甚タ不都合ナレトモ往古ヨリノ仕来リニシテ全国日用ノ書ニ皆漢字ヲ用ルノ風ト為リタレバ今俄ニコレヲ廃セントスルモ亦不都合ナリ。今日ノ処ニテハ不都合ト不都合トノ持合ニテ不都合ナガラ用ヲ便スルノ有様ナルユヘ漢字ヲ全ク廃スルノ説ハ願フ可クシテ俄ニ行ハレ難キコトナリ。此説ヲ行ハントスルニハ時節ヲ待ツヨリ外ニ手段ナカル可シ。
  時節ヲ待ツトテ唯手ヲ空フシテ待ツ可キニモ非ザレバ今ヨリ次第ニ漢字ヲ廃スルノ用意専一ナル可シ。其用意トハ文章ヲ書クニ、ムツカシキ漢字ヲバ成ル丈ケ用ヒザルヤウ心掛ルコトナリ。」
  諭吉の この 考えは 恩師の 緒方洪庵の 意見に 共鳴しての もの でした。 諭吉は 単に 意見を 述べた だけで なく、終生 この 主張を 実行しました。 諭吉の さまざまの 主張が 数多くの 共鳴者を 生んだ わけの ひとつも ここに あった ものと おもわれます。 そして また、そののちの 漢字制限の 大きな 流れにも 諭吉の この 論が つよく はたらきかけて いた のだ と 考えられます。
  しかし、それ以外に、漢字と 漢文口調の 文体は 新時代の 思想から しりぞけられる ように なった のだ と いう 大局論をも 見おとす ことが できません。 さらに いえば、諭吉の この 論も また、時代の 要求に よる もので あった のです。

文体と モジの 関係

  当時は 漢文口調の 文体が 広く 用いられて いました。 論説文は もとより、小説さえ そう でした。 たとえば 明治18年に 初版の 東海散士の 「佳人之奇遇」は 評判を とった 作品でしたが、それは つぎの ような 文体と 用字の もの でした。
  愾然トシテ窓ニ椅テ眺臨ス会々二姫アリ階ヲ繞テ登リ来ル翠羅面ヲ覆ヒ暗影疎香白羽ノ春冠ヲ戴キ軽_ノ短羅ヲ衣文華ノ長裾ヲ曳キ風稚高表実ニ人ヲ驚カス
  漢文口調の 文章には、このように 漢語が 多く なります。 漢語は 漢字で 書くのが しきたり でも あるし、事実、カナ では 意味の 通じない 漢語が たくさん あります。 漢文口調の 文体が 用いられて いる かぎり、漢字制限は 不可能なのです。 漢字制限を する には、まず 文体を 改めなければ なりません。 それは ちょうど、自動車を 走らせる のには まず 道路を、自動車が 走れる ような ものに 改めなければ ならない のと にて います。 漢字制限の 自動車を 走らせる ことの できる 道路は、口語文体、いわゆる 言文一致体 です。
  口語文と 漢字制限は、近代思想に 目ざめて きた 当時の 時の 流れに よる もので あった ことは 事実ですが、さらに いえば、口語と いう ものが、もし 音声だけで、すなわち 耳だけで 完全に 聞きわけられる ように なって いたら 漢字は 全然 つかわなくても よい はず です。
  しかし、実情は 口語体ばかりに なった 今日でも、まだ かなり たくさんの 漢字が 使われて います。 これは ひとくちに いえば、コトバも モジも 元来 保守的な 性質の もの だ から と いえますが、それなのに ともかく 今日の 国語の ありかたに まで 改めて きた 先覚者たちの 情熱の ちから には 目を みはる 思いが します。

高まる 機運と 当局の 態度

  福沢諭吉は 「文字乃教」 の 中で、小学校(当時は 4年制)の 漢字として 804字を 提案しました。(当時の 小学校では 3,000字〜4,000字 を 教えて いました。)
  一般社会人用の 漢字制限提案の 第1号は 郵便報知新聞社が 明治20年(1887)に 発行した 「制限漢字三千字」 でしょう。
  この 年は 口語体文学の 幕あけに なった 二葉亭四迷の 「浮雲」 が あらわれた 年でも あった、と いう ことが 特に 目を ひきます。 さらに、この 三千字案を 作ったのは 福沢諭吉の 門下の 矢野文雄(竜渓)で あった と いう ことが、いっそう 考えさせられます。
  政府当局に 最も 熱心に 働きかけて いた のは、前島密でした。 その 努力が みのり、政府は 明治35年(1902)に 国語調査委員会を 設けました。 密を 委員長にし、委員には 上田万年、那珂通世、大槻文彦、三宅雄二郎、徳富猪一郎 などの 「大物」 を そろえて 大上段に かまえた もの でした。 その のち 10年間 存続して、行政整理に よって 廃止されましたが、その 間に 「周代古音考」、「仮名源流考」 そのほか いろいろ すぐれた 研究業績を 作りました。 なかでも、この 委員会が 9回 審議を かさねて つぎの 4項目を 「調査方針」 として 決定し、官報にも 発表した ことは、いつまでも わすれては ならない きわめて 重要な 記録で あります。
  一. 文字ハ音韻文字(フォノグラム)ヲ採用スルコトトシ仮名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
  ニ. 文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトトシ是ニ関スル調査ヲ為スコト
  三. 国語ノ音韻組織ヲ調査スルコト
  四. 方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト
  ごらんの ように、漢字制限どころか、漢字全廃を 目ざして います。 ただし、この だいじな 機関が 行政整理と いう 名目で とりつぶされた と いう 経過には、この 重大問題に 対する 「当局の 伝統的な 態度」 が、早くも あらわれて いる ことを 感じます。
  しかし、これは いつまでも にげて おられる 問題では ありません。 大正10年(1921)に、「臨時国語調査会」 が 設けられ、2年後に 「常用漢字」 として 1,962字が 発表されました。 つづいて 「字体整理案」 や 「漢語整理案」 も 発表に なりました。 さらに、昭和9年(1934)には この 機関は 「国語審議会」 に 昇格し、調査 研究を つづけて いきました。
  ところが、昭和17年(1942)に なって 「標準漢字表」 と いう ものが 発表されました。 内容は、常用漢字 1,134字。 準常用漢字 1,320字。 特別漢字 74字。 計 2,528字 と なって います。
  この 「特別漢字」 と いう ものに ついては つぎの ように 解説文が そえられて います。
  特別漢字ハ皇室典範、帝国憲法、歴代天皇ノ御追号、国定教科書ニ奉掲ノ詔勅、陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭、米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書ノ文字デ、常用漢字、準常用漢字以外ノモノデアル。
  国語問題の 解決を 主張する 連中に 対しては 公然と 国賊よばわり する 時代に なりました。 そして、やがて 日本は 敗戦国に なって しまった のでした。

カナモジカイの 500字案

  カナモジカイの ことは もちろん あとで 改めて くわしく 述べますが、ここには 漢字制限の 足どりの ひとつ として、カナモジカイの 500字制限の こと だけを 書きそえて おきます。
  カナモジカイ では、一般国民が たしかに おぼえられる 字数を たしかめ、最も 多く 使われて いる 漢字で、しかも 多くの 人が 希望する 字種を えらぶ 方針で 研究を しました。
  そして、小学生の 学習能力と 新聞での 使用頻度と、各方面の 人たちの 要望とを つきあわせて 500字を えらびました。(昭和10〜12)
  この案は、戦後 国語審議会で 選定した 「教育漢字」 の 選定資料にも やくだったが、戦時中、あの 大動員で、軍事教練を うけて いない たくさんの 応召兵の 教育に 手を やいた 軍部が、できるだけ 軍用語を やさしく する 必要を みとめ、おもいきり 軍用語を あらためました。 その おり にも この 500字案が やくだてられました。
  民主主義に 反対する 総本山の ように いわれて いた 軍部が、民主主義に ねざした 漢字制限の 効用を みとめた のでした。


第7講  当用漢字時代

国民の国語運動連盟

  終戦直後に、作家、山本有三は 東京の ミタカ市に ある 自邸を 提供して 「ミタカ国語研究所」 を 開設しました。 元、台北帝大総長の 安藤正次を 所長に、すぐれた 学者たちを 所員に むかえて、戦後の 国語国字の ありかたに ついて 研究を おこなった のです。
  また、カナモジカイも 日本再建の ために 国語国字問題の 解決を はからなければ ならない ことを ちから いっぱい 各方面に 訴えました。
  やがて、ミタカ国語研究所と カナモジカイ とが 力を 出しあって 運動団体を つくる ことに なり、精力的に その 準備に とりかかりました。
  団体の 名は 「国民の国語運動連盟」、事務所は カナモジカイに おき、まず 知名の 人々に 発起人として くわわる ことを すすめ、つぎの 人たちの 参加を えました。 姉崎嘲風、安部磯雄、安倍能成、市川房枝、大内兵衛、小倉金之助、垣内松三、賀川豊彦、幸田露伴、志賀直哉、新村出、中野好雄、南原繁、長谷川如是閑、馬場恒吾、藤村作、武者小路実篤、柳田国男、横田喜三郎 そのほか 各界の 一流の 方々でした。
  つぎに、連盟を 構成する 団体を つくり、各新聞社や 一流出版社の 加入を えました。 そして これらの 構成団体は 連盟の 申しあわせに したがって 用字用語の 改善を 実行しました。
  連盟が とりわけ 努力した のは 新憲法を 口語文に する 運動でした。 新憲法の 草案は 終戦の あくる年(昭和21年・1946)の 1月に 公表されましたが、それは それまでの 憲法と 同様の 文語文でした。 これを 口語文に あらためよ と いう 建議は とても 採用される とは 思われませんでした。 けれども ついに 当局を 説きふせて、いま みる ような 口語文に 書きあらためられた のでした。 この 結果、あらゆる 法令 公用文が 憲法に ならって 口語文を 用いる ように なりました。

当用漢字の 出現

  この 連盟は、さらに 文部省に 対して、国語審議会を 活用して 国語国字問題の 解決に ちからを そそぐ ようにと 申しいれました。 国語審議会は すでに 昭和9年(1934)から 存在して いましたが、保守勢力の さかんな 時代で あった ため ほとんど 開店休業の まま でした。
  文部当局では、連盟の 申しいれを 聞きいれて、まず、国語審議会の 陣容を 強化しました。 カナモジカイや ローマ字団体の 幹部など をも 委員に むかえました。 そして 手はじめに 漢字制限と かなづかい問題の 主査委員会を もうけました。
  どちらの 主査委員会も 熱心に 議事を かさね、その 成案の 「当用漢字表」 と 「現代かなづかい」 は ともに 総会で 可決され、昭和21年(1946)11月に 内閣告示として 公示されました。
  当用漢字表に えらびだされた 漢字は 1,850字 でした。 そして、法令、公用文に ついては この 範囲の 漢字で すませる ことが 要求されましたが、民間の さまざなの 文書に ついては、実行する ことを 希望する と いう だけに なって います。
  しかし、実情は、まず 各新聞が 忠実に これを 実行する ように なりました。 各種の 出版物にも 日を 追って 自主的に 当用漢字の 実行が ひろまって いきました。 また 各学会は それぞれの 専門用語を 当用漢字で 表現できる ように あらためました。 こうして、戦後 まもなく 「当用漢字時代」 が 出現した のでした。
  義務教育の 年限が 9年間に のびましたが、9年間に のびても 漢字を 1,850字も 読み書き できる ように おしえる ことは できません。 それで、書きとりの 能力から 要求できる 字数だけを 当用漢字の なか から えらび、「当用漢字別表」 として 教える ことに なりました。 俗に 「教育漢字」 と よばれて いる のが それ です。 最初に 示された その 字数は 881字 でした。 しかし、そののち 「備考漢字」 と いう ものが 示されて、この 「別表」の 実質的な 字数は すこし ふやされました。

新字体と 音訓表

  漢字には 字画の 複雑な ものが いろいろ あります。 それで しばしば 使われる 漢字で 複雑な 字画の もの には しぜんに 略字が 生まれて います。 当用漢字の 中で 略字の ひろく 使われて いた ものは、略字の ほうを 正式の 字体として 格あげ されました。 つぎは その 例 です。 これらは 以前は すべて 略字として あつかわれて いた もの です。
医 圧 応 価 芸 県 号 糸 条 畳 声 団 島 独 虫 駅 変 万 札 台 当 与 旧 庁 体 乱 学 栄 図 国
  また、「予」 と 「余」 は、もとは 「われ」 の 意味の 字 でしたが、のち 「予」 は 「あらかじめ」 の 意味に、「余」は 「あまり」 の 意味に ひろく 使われる ように なった ので、その 新しい 用法を みとめて 「予防」 とか 「余分」 の ように 使う ことに なりました。
  こうした いわゆる 俗用の モジを 正式の モジとして みとめる こと には 保守主義の たちば から 反対する 人も あります。 しかし、じつは 最初からの 字形が 用いられて いる 漢字など きわめて まれで、ほとんどが ある 時代に 生まれた 略字なのです。
  また、同じ 発音で 以前から 「代替字」 として 使われて いた 用字法も、いくつか 正式の 用字法として みとめられました。 たとえば 「慾望」 を 「欲望」 に、「智能」 を 「知能」 に 「聯合」 を 「連合」 に 改めた など です。
  漢字の 読みかたも 制限されました。 以前は たとえば 「みち」 と いう コトバを 書く のに 「道・途・路」 そのほか まだ いろいろの 漢字が 用いられましたが、当用漢字には 「音訓表」 と いう、漢字の 読みかたを きめた 表が 添えられて いて、「みち」 は 「道」 だけに 限られて います。 「途」 も 「路」 も 当用漢字には はいって いますが これらは 「前途」 とか 「路上」 の ように 漢語だけに 使う ことに した のです。
  さらに、以前は 「みる」 と いう コトバに 「見・看・視・診・覧」 などが 用いられて いましたし、どの 字も 当用漢字に なって いますが、音訓表では 「みる」 には 「見」 だけを 当てる ことに なって います。
  漢字の 読みかた には 「熟字訓」 の 問題が あります。 「熟字訓」 と いう のは 「いなか」 を 「田舎」 と 書く ような 書きかた、すなわち 2字以上の 漢字を まとめて 特別の 読みかたを する こと です。 当用漢字の 音訓表を きめた とき には 熟字訓は いっさい 使わない ことに した のでした。 ところが、あとに なって 使用度数の 多い 熟字訓が みとめられました。 それは 「田舎・笑顔・神楽・明日・昨日・今日」 など 100語 ほど ですが、その 結果 「明日」 が 「あす」 か、「あした」 か、「みょうにち」 か、読みかたに まよう と いう 不合理が 復活しました。
  戦後、国語審議会の 建議で 実現した 表記法には、このほかに 「現代かなづかい」 や 「新送りガナ」 などが ありますが、それらの ことは あとに 述べる 音韻の 解説の 項目の なかで あつかう つもり です。

保守論の 巻きかえし

  国語審議会の 目的は 国語審議会令に 「国語の改善に関する事項」 と 定められて います。 それで、すでに 述べた ように 国語の 改善の ために つくして きた ことは 当然の こと でした。
  しかし、世間には 保守主義の 人も あるし、そうした 思想の 人は 国語審議会の 委員の なか にも ありました。 この 人たちは 昭和34年(1959)に、小汀利得を 代表者に して 「国語問題協議会」 を 作り、審議会の 内外で 「国語の改善」 に 反対する 運動を つづけて きました。
  昭和36年に、この 団体の 代表者たちは 当時の 文部大臣の 荒木万寿夫に 働きかけて 国語審議会委員の なかの 進歩的な 人物を ことごとく やめさせました。 また 荒木文相たちの 提案で 自民党の なかに 「国語問題に 関する 小委員会」 が 設けられ、この 機関の 提案に より、自民党の 文教制度調査会は 昭和43年に 「国語問題についての結論」 を 公表しました。 その まっさきに 「当用漢字表及び当用漢字別表(教育漢字)は思ひきつて緩和すべきである。」と あります。
  保守論者たちの 反対理由は 論者に より さまざま ですが、第1は、戦後の 国語政策は、日本国民を おろかものに する 目的で 占領軍が 命令した もの だ と いう 理由。 第2は 国語政策によって 国語が 乱れる と いう 理由。 第3は、日本語には 漢字で しめさなければ 区別の つかない 同音語が 多い と いう 理由、以上が その おもな 反対理由です。 第1の、占領軍に よる 愚民政策だ と いう のは、まったく 無根の 反対論で ある ばかりで なく、日本人を おろかものに するなら むしろ 漢字を たくさん 使わせる ほうが よい でしょう。 第2は 国語が 乱れると いう 反対論 ですが、改善の 一時期には 新旧両様の 書きかたが おこなわれる けれども、それは 改善に つきものの ことで、やがて いっそう よく 統一されます。 第3の 同音異義の 問題。 これは たいてい 漢字から 生まれた こと です。 たとえば 「原価」 と 「減価」 は、漢字を 見れば わかるが カナでも 電話でも 区別が つきません。 この ような 不都合な コトバは 漢字を 使って いる から できる のです。 むしろ 「もとね・ねびき」 と カナ書き する ほうが よい のです。

当用漢字時代が 終わる

  国語審議会は 昭和56年(1981)3月23日の 総会で、当用漢字表を 廃止し、かわりに あたらしく 作った 「常用漢字表」 を 用いる ことを 決議しました。
  総字数は、1,945字。 これは 当用漢字表の 漢字 1,850字に あたらしく 95字を くわえた もの です。
  それぞれの 字種を きめた ばかりで なく、その 用法にも 当用漢字表の 性格に なって いた さまざまの 進歩的な 条件が のぞかれて います。 それらの 検討は 次回の テーマ です。
  当用漢字表時代は 1946年 から 1981年 までの 35年間の 寿命 でした。


第8講  教育問題としての 漢字

国語問題の 中心点は 教育に

  日本の 子どもたちは、みんな 両足に 「漢字」 と いう くさりを 結びつけられて います。 それを ひきずりながら 勉強しなければ ならない しくみに なって います。 むかしから 多くの 先覚者たちが 漢字の わざわいを 指摘した その 第1の 理由も、漢字学習の 負担を、ひいては あらゆる 学習への 足かせ としての 漢字の さまたげを 問題に した ため でした。
  明治7年(1932)に 文部省が 発行した 「小学入門」 には 「鯰」 や 「葡萄」 や 「石榴」 などの 漢字が ならんで いました。 その 当時は むずかしい 漢字を たくさん 知って いる ことが 特権の 資格で あった のです。
  時代の 進むに つれて 漢字教育の ありかたは すこしずつ 改められて いきましたが、終戦までは 改革と いう ほどの ことは ありませんでした。 また、漢字に 対する 世間一般の 特権的な 観念も 根づよく はびこって いました。
  戦後に なって 当用漢字を 中心とする 国語政策が 実現して からは、社会一般の 考えかたも 漢字教育の ありかたも 目だって かわって きました。 しかし、それに つれて 子どもたちの 足の くさりは もはや とりのぞかれた と 思う 人が 多くなり、問題解決への 熱意を 失って しまう ように なりました。 では、ほんとうに もはや 注意する 必要が なくなった のでしょうか。
  また、ある 人々は、いまの 青年たちは 漢字を 知らない と 非難し、そして それは 戦後 現れた 国語政策や それに ともなう 戦後の 教育の せい だと 批判します。
  批判は 自由ですが、そのまえに わたしたちは まず 事実を ありのままに 知るべき でしょう。

漢字を おぼえる 能力の 限度

  現在、文部省が 「学習指導要領」 に よって 要求して いる 漢字習得の 量は、中学の 段階では 「1,000字程度の漢字について使い慣れる」 と いう こと です。 この 要求は、戦前に くらべると 段ちがいに 軽くなって います。
  戦前は、義務教育は 6年間 でしたが、その 6年間に 要求されて いた のは 1,350字前後 でした。 しかし 実情は、6年 卒業時に 書ける 字数は 500字が 全国平均で あり、中学への 入試競争の はげしい 都会地でも 600字と いう のが 通り相場 でした。
  いまの 中学生は、高校入試の ために きびしい 受験勉強を して いますが、では 今日の 都会地の 中学生の 実情は どう でしょう。
  昭和54年(1979)に 京都市で 市内の 中学校を 片よらない ように 36校 えらんで おこなった 調査が あります。 その 結果を 見ると、中学3年生の 書ける 漢字の 平均は 717字 と なって います。
  義務教育の 期間が 戦後は 3年 多くなった のに、おぼえる 字数は 100字 そこそこ しか ふえて いない と いう のが 実情なのです。 この 数字は、普通の 天分の 児童生徒の、漢字を おぼえる 能力の 限度を しめして いる と 見るべき でしょう。 それ にも かかわらず、文部当局が 子どもらの 能力以上の 字数を 要求して いる のは、社会生活上 これぐらいは おぼえさせる 必要が ある と みとめての 当局としての 義務感に よる もの でしょう。
  事実、戦後に 出現した、いわゆる 現代表記を 忠実に 実行して いる 文書に さえも 2,000字前後の 漢字が 用いられて います。 漢字の 教育は 子どもらの 足の くさりで ある ことは 承知して いても、世に 出る ため には ある 程度の 漢字を おぼえさせて おかなければ ならない と かんがえる 文部当局の たちばは わかります。
  けれども、学校での 教育内容は、そのまま 未来の 社会の 設計図でも ある、と いう ことも 事実です。 教育の ありかたを 社会の 現状に あわせる と いう 方針では、すべての 因習は そのままに いつまでも 受けつがれ、進歩とか 改善と いう ものは ありえない と いう ことに なって しまいます。 だが、この 難題を 解決する 方法が あります。 それは、社会と 学校とが、いっしょに 足なみを そろえて 改善して いく こと です。 終戦直後から はじめられた 国語政策は、まさに その 典型的な 前例 でした。 もちろん それも 理想には ほど遠い もの でしたし、それで さえ、保守派からの はげしい 反抗を まねいた のでしたが、これらの 経験を ふまえて、今後の 賢明な 方策を 生みだすべき です。

能力以上の 要求は むだ

  旅人が、きょうは 30キロ あるこうと 予定して 出発したが、途中で くたびれて しまって、その 日は 20キロ あるいた だけで やめた と します。 しかし、もし この 旅人が 最初から 20キロ しか あるかない つもりで 出発したので あったら、20キロ さえ あるけなかった かも しれません。 この 例は 「意気ごみの 効用」 を 説明した もの です。
  漢字の 学習にも、意気ごみの 効用を やくだてようと する やりかたが、むかし から 今日に いたる まで 熱心に くりかえされて きました。 しかし、はたして 漢字の 学習にも この 旅人と おなじ ような 効果が えられる もの でしょうか。 この ふたつは とかく おなじ 現象の ように 考えられがち ですが、じつは 漢字の 学習には 旅人の 意気ごみの ような 効用を のぞむ ことは できない のです。
  鳥の 卵が ひなに なる ため には、母どりは、抱く ことの できる 数を 限って、必要な 期間中 あたためて いなければ なりません。 限度以上の 数の 卵を 抱いたら、かえって 限度までの 卵さえも ひなに する ことが できません。
  漢字を おぼえる にも、一つ一つの 漢字に 対して 「おぼえる のに 必要な だけの 学習」 を しなければ なりません。 旅人が 30キロの 予定を 20キロ あるいた だけで やめた ばあいは、かれの 全努力が その 20キロに やくだてられて います。 しかし、能力以上の 数の 漢字を おぼえよう として、たとえば 500字を おぼえ残したら、その 500字に 学習精力が 分散して しまった のです。 むだの ない 学習を させる ためには、能力に 相応する 字数を 要求しなければ ならない のです。
  ところが、多くの 中学校の 実情は、当用漢字の 全部を 書取り させて いる よう です。 その 総字数は 1,850字 です から、指導要領で 要求されて いる 字数の 約 2倍 です。 これでは 学習精力が 分散して しまうのが 当然でしょう。

利用価値を ふまえての 字種を

  つぎに 非常に 大事な ことは、漢字には その 1字1字に 実用上の ねうちの ちがいが ある と いう こと です。 「おぼえる 能力」 を むだ なく 使う ため には、実用性の 高い 漢字を えらんで おぼえるべき です。 一生に いちど しか 用の ない 漢字を 100字 おぼえても、その ねうちは 一生に 100回 必要な 漢字 1字の ねうち しか ありません。
  カナモジカイでは、昭和10年(1935)に 発行された 5種類の 新聞に ついて 漢字の 使用度数を しらべた ことが あります。 その 当時は まだ 当用漢字の できる 以前 なので どの 漢字も 自由に 使われて いました。 この 調査に 出てきた 漢字の 字種は 3,492字 でした。
  使用度数を 調べた 結果は、1年間に 1回だけ しか 使われなかった 字種が 「俯・倣・佗」 など いくつも ある 反面、1,000回以上 使われた 字種が 83字 あり、第1位から 第500位 までの 500字が 使われた 度数の 計は 全体の 77.3%を 占めて いました。 すなわち この 500字 以外の 約 3,000字は 全体の わずか 23% しか やくだって いなかった のです。
  10円銅貨も 100円銀貨も、がまぐちの 中で 占める 容積は おなじ です。 しかし、それだからと いって 10円銅貨だけを いれた がまぐちと 100円銀貨だけを いれた がまぐちと 中身の ねうちが おなじ だ とは いえません。 漢字を おぼえる 能力には 限度が ある のだから、できるだけ 実用価値の 高い 漢字を えらんで おぼえさせるべき です。
  ただし、漢字の 実用上の ねうちは 使用度数だけで きめられる もの では ありません。 たとえば この 新聞の 使用度数の 結果を 見ると、「如」 と いう 字は 902回 使われて 第99位に なって いますが、その 用例は ほとんどが 「如き・如何に・如何なる」 でした。 これらは カナで 書いて いっこうに さしつかえ ない コトバ です。 ほかの 人の 書いた 文章の 中で 読む 必要は あると しても 自分の 文章に 使う 必要は ない 字なのです。
  この 一例からも わかる ように、「読む だけの 能力」 と 「読む ことも 書く ことも できる 能力」 とは、立場も 必要度も ちかう のです。 こうした 点に ついても 教育現場の 教師たちの 理解が とぼしい ことを 指摘しなければ なりません。

漢字は 真理を 学ぶ 教材に なるか

  以上に 述べた ことは、ひとくちに いえば 漢字の 教育上の あつかいは 実用主義の うえ から 改善すべき だ と いう こと です。
  しかし、この 意見には 反論も ありましょう。 それは 「教育は 実用 一点ばり では いけない。 実社会の 生活には 必要の ない ような 学科は、幾何とか 代数とか、ほか にも いろいろ ある。」 と いう 反論 です。
  幾何や 代数には、真理を 証明する 能力を やしなう 価値が あります。 しかし、漢字の なりたちを せんさく する こと など、真理の 証明の やく には たちません。
  たとえば 「東」 と いう 漢字は、木の かげ から 日が 出て きた 形を 示した ものだ と 教える のが 当然の ように なって いますが、本当は 袋の 形を 現した もので ある と、字源の 権威の 加藤常賢博士が 論証して います。 また 「西」 と いう 漢字は、鳥が 巣に 帰った 形だと 一般に 教えられて いますが、やはり 漢字の 権威の 藤堂明保博士は、これは このような 形の ざるの 形象で ある ことを 論証して います。 
  しかし、それでは 「東」 が 袋の 形象で ある ことや、「西」 が ざるの 形象で ある ことを おぼえさせて いかなる 「真理」 の 学習に やくだつ のでしょうか。
  むしろ、民主的な 文化国家に とって のぞましい モジや コトバは どんな ものかを しらせ、そうした モジや コトバの くにに する ために こころがけるべき ことを 教える ことの ほうが 本当の 教育 でしょう。

第9講  国語問題としての 同音語問題

同音語は 漢語に 多い

  テレタイプの カナモジ文で 「解説」 が 「開設」 と 受けとられた と いう ことを 聞きました。
  漢字まじりの 文を 書く ときも 「追求」 か 「追及」 か 「追究」 か まよう と いう ような ばあいが しばしば あります。
  漢語の 中には 耳で 区別の つかない 「同音語」 が たくさん あります。 カナで 書くと 意味が わからなく なる ことも あるし、漢字で 書くと 字を とりちがえられ、意味まで あやまられる ことも あります。
  同音語の なやみは 文章だけに かぎられて いる もの では ありません。 口に かたり、耳で 聞く ばあい にも しばしば 誤解を まねく ことが あります。 ある とき、国会で 大臣が 「そのことについては、当局でも勧奨しています。」 と 答弁したら、質問した 議員から 「干渉するとは、もってのほかだ。」 と たたかれた ことが ありました。 また 「試案」 と 「私案」 が とりちがえられて もめる ことも しばしば あります。
  同音語は、和語にも あります。 空の 「雲」 と 虫の 「クモ」 など。 しかし、大量に あるのは 漢語の ほうです。
  漢語に このように やっかいな 同音語が できやすい のは、もともと 漢字に 同音の 字音の ものが 多い ため です。 たとえば 「かんこう」 と いう 漢語には、ごく 小さな 辞典にも 「刊行・感光・敢行・観光・慣行」 などが ならんで います。 「かんしょう」 には 「観賞・鑑賞・感傷・緩衝・観照・勧奨・冠省・奸商」 などが あります。 これらは 漢字で 書いて 見せれば それを 読みわけられる 人には わかって もらえます。 それで、漢字と いう ものは 同音語の 区別の ために 絶対に 必要な もの だ と 思う 人が あります。

漢語に 同音語が 多い わけ

  しかし、コトバは 文章に 使う だけの もの では ありません。 口から 耳に つたえる のも コトバの 役目です。 漢字を 耳に 見せる ことは できません。 耳に 聞いて 意味を とりかねたり とりちがえたり する コトバには コトバの 資格が ない と いわなければ なりません。 そのような 不合理な コトバは、耳でも 区別が つく ように あらためる 必要が あります。
  そうした 改善を はかる のには、まず、なぜ まぎれやすい 同音語が 和語に すくなくて 漢語に 多いかと いう わけを、その 由来に さかのぼって つきとめる 必要が あります。
  漢語に 使われて いる 「字音」 は 中国語の 1語1語を 示した もの なのですが、中国語は 単音節語なので、単音どうしを 耳に 聞きわける ことが できる ように、声の 出しかたを さまざまに 使いわける きまりが 定められて います。
  日本の 固有の コトバの ほうは、これ とは ちがい、自由に 音節を 組みあわせる ことに よって それぞれの コトバの 区別を あらわす 方式なので、音節の 種類は すこし あれば すみます。 むしろ すこしの ほうが、音節どうしの 区別が はっきり つく。 そのため 中国語とは 反対に、日本語は 音節を 整理しながら 進んで きました。
  たとえば 「い」 と 「ゐ」 や、「え」 と 「ゑ」 は、もとは 別々の 発音でしたが、いまは 統合されて います。 さっき 例に あげた 中の 「観・慣」 なども、昔は 中国語に ならって 「くゎん」 と 発音して いましたが、いまは 「刊・感」 などと 同じく 「かん」 と 読んで います。 こうした 事情から、日本の 漢語には カナでも 耳でも 区別の つかない 同音語が いっそう 多く なって しまった のです。

同音語は どの 程度 判別 できるか

  漢語に 同音語が 多い わけは 以上で 了解できると しても、つぎには 漢語の 同音語は、実際、どの 程度に わかる ものか、わからない ものか と いう ことを たしかめる 必要が あります。
  それ には 国立国語研究所が 大学生や 高校生に 対して おこなった 調査が あります。(1961年。国立国語研究所 報告 20 「同音語の研究」) まず、「つぎの問題のカタカナ書きのことばを、漢字で書き表わしなさい。漢字が思い出せない場合は、そのことばの意味を書きなさい。」 と して いろいろな 問題を 出しました。 つぎに まず 大学生 210名に ついて おこなった 調査の 一部を おめにかけましょう。
  出題の ひとつの 「毎年、秋に行われるコウレイの文化祭が近づいた。」 では、正解者の 率は 65.0% でした。 この 不成績の 原因は、同音語が ある ため よりも 「恒例」 と いう コトバを 知らない 学生が 多かった ためで あったと おもわれます。
  さらに いえば、「恒」 と いう 漢字は 当用漢字では あるが めったに 目に ふれる ことの ない 字なので 大学生たちの 多くも 知らなかった のでしょう。 そう だと したら、漢字で 書いた 文を 見せられても 理解する ことが できなかった でしょう。 同音語は 漢字で 示し さえ すれば 正しく 理解される と 思われがち ですが、いちがいに そう きめられない と いう 見本の ひとつ にも なりましょう。
  また、ある 学生は 「恒例」 と いう 漢語は 見た ことは あるが、読みかたは 知らずに 見送って いた と いう ことも ありえます。 その 学生は カナ書きの 「コウレイ」 と いう 問題を 出されても、これ また 答えられない はず です。 この 出題の 結果は、このような ことを ものがたって いると 思います。
  つぎに 「ギイン制度は民主政治の基本だ。」 と いう 問題も ありました。 その 結果に ついて 考えて みましょう。
  この 正解率は 半数以下の 42.9% でした。 この 問題に 取りくんだ 学生たちは、もちろん 全員が 「議院」 と いう 正解の コトバも 漢字も 知っては いる。 だが、これと おなじ 発音の 「議員」 の ほうを もっと よく 目にも 耳にも する ばかりで なく、「議員制度」 と いう 表現も 熟語として みとめられる。 この 出題の 意味にも ぴったり あてはまる。 それで 最初に 頭に うかんだ 「議員制度」 を ためらう こと なく 答えた ものと おもわれます。
  この 推察に あやまりが ない と したら、これは、漢語には コトバ としての 安定性が ない ために 生じた 失敗の 例なのです。 すなわち 漢字を かってに ならべ さえ すれば 漢語らしい ものが できあがる。 「議員制度」 と いう 漢語が これまで あったか なかったか 知らないが、いま とつぜん 出現しても さしつかえない。 と いう ような 観念に 人々は ならされて いる のです。
  それでは、高校生の 調査の 結果は どうか。 高校 2年生 188名に ついて、やはり 国立国語研究所が おこなった 調査では 「政治問題にカンシンをもつ。」 の 正解 「関心」 は 90%、また 「長い間の努力にカンシンした。」 の 正解 「感心」 は 98%に 達して います。 さらに、「ユウリョウな映画を見せる。」 と 「ユウリョウで映画を見せる。」 と いう 1字ちがい だけの 問題の 正解は 100%。 すなわち 全員が 「優良」 と 「有料」 を 正しく 書きわけて 答えて います。
  「関心・感心・優良・有料」 は ふだん 使いなれて いる コトバ ばかり です。 それで 前後の 関係から、「ユウリョウ」 の 助詞 1字だけの ことなり からも たやすく 判断する ことが できる。 単に 同音語だからと いって いちがいに 区別の つかない ものと きめるべき もの では ない。 と いう ことが 大学生たちの 結果と くらべると よく わかります。

同音語の 処理の 方針

  漢語には たくさんの 同音語が ある けれども、同音語は すべて やくに たたない わけ では ない と いう ことが、以上の 例からも わかります。 ひとくちに いえば、前後の 関係から 意味の わかる 同音語は、使っても こまらない 同音語 です。 しかし、こまる 同音語の ある ことも 事実です。 では、こまる 同音語は どのように 処理すべき でしょうか。
  第1は、使わずに すむ 漢語は 使わずに、なるべく 和語を 使う こと です。 例えば さきに 引きあいに だした 「毎年、秋に行われる恒例の文化祭」 は この 「恒例」 を 削っても なにも こまる ことは ない のです。 すなわち 「毎年、秋に行われる文化祭」 で よい はず です。 漢語には この ような、まるで やくに たたない 漢語、ただしく 説明すれば 「えらそうに かざりたてる ため」 に つかわれる ものが あります。 こう した 漢語を やめる こと です。
  弟2は、同音語の それぞれの ごく わずかの ニュアンスの ちがいは せんさく しない ことに したい ものです。 たとえば 「恒例」 と 「常例」 や、「議院」 と 「議会」 には 辞書でも ニュアンスの ちがいは みとめられて いません。
  意味と いう もには 無限に ある のだ から コトバも 無限に あるべき だ と 主張する 人も ありますが、言語の 進化の 事実からも そうした 主張は あやまり なのです。 すくない コトバで 自由に 表現できる ように そだてて いく のが 言語進化の ただしい みち なのです。
  それぞれの コトバの 意味は、それが つかわれて いる 場所の ちがい から さまざまに 区別される もの なのです。 この ことは、漢語にも いくらも 例の ある こと です。 例えば 「定位」 は、数学と 医学と 哲学で それぞれ ちがう 意味に 使って います。
  和語の なか から 例を あげると 「歩きながら」 と 「二つながら」 の 「ながら」 だの、「二つばかりの坊や」 と 「女ばかりの家庭」 の 「ばかり」 だの、それぞれ ちがう 意味が 前後の 関係で はっきり 理解されて います。
  この ことを もっと 具体的に 証明して いる のは、すでに 紹介した 高校 2年生に ついて おこなった 調査の 結果です。 「関心」 と 「感心」 が、ひとつは 90%、ひとつは 98%の 正答率を 示して おり、「優良」 と 「有料」 は どちらも 100%の 正答率を 示して います。
  漢字制限論に 対して、まして 漢字廃止論に 対して いちばん 反対される 意見は、まさに この 同音語の 書きわけに 漢字が 必要だ と いう 意見です。 そして 同音語を すべて やめる など できる こと では ない と いう 主張です。 たしかに 同音語を すべて やめる ことは できない 相談でしょうが、しかし、同音語を すべて やめる 必要は ない。 げんに、漢字を 使って いない 英語など にも 同音語は たくさん あるが、べつに さしつかえ なく 使われて います。 では それは なぜか と いうと、コトバは すべて 文の なかで つかわれる もの だ から なのです。


第10講  漢語と 外来語の 比較

自動車と 自転車

  あたらしい 品物 だの、あたらしい ことがら だのが 出現した ばあいは、それを あらわす コトバが 必要に なります。
  コトバの つくりかた には いろいろの 方法が ありますが、漢語で 名づけると それぞれの 品物 なり ことがら なりの 意味を あらわすのに 便利 だ と、一般に おもわれて いる よう です。
  この 漢語の 特色が もっとも 大量に 利用された のは、西洋から いろいろな 品物や 制度を いちどきに たくさん とりいれた 明治の 時期でした。 たとえば 乗物の コトバを ひろって みても、「自動車・自転車・汽車・電車」 などの コトバが、それぞれの 品物の 輸入と ともに つくりだされ、ひろめられました。 そして、人々は 漢字の すばらしい 性能を あらためて 合点した こと だった と おもいます。
  だが、この 理解の しかた には 根本的に 考えなおさねば ならない 問題が かくされて います。
  「自動車」 と 「自転車」 は、これらの 漢字から わりだせば、どちらも 「自然に 動く 車」 と いう ことに なります。 「自動」 も 「自転」 も そう いう 意味の コトバ です。
  ただし、「自転車」 の 「自」 は 「自分の 力で まわす」 の 「自」 だ と おもって いる 人も ある かも しれません。 そう おもう 人が あると したら、漢字が 示す 性能の たよりなさを ばくろ して いる ことに なります。

くろがねの みち ゆく くるま

  「自転車」 の 「自」 の 意味の うけとりかたが 人 それぞれに ちがう と しても、だれもが 「自転車」 と いう コトバに よって 一定の 品物を 理解して いる こと には まちがいが ありません。 この 事実に コトバと いう ものの 機能が よく あらわれて います。
  コトバの 本態は 符号 なのです。 「牛」 を 「ウマ」 と 名づけ、「馬」 を 「ウシ」 と よぶ ことに しても、みんなが 了解すれば なにも こまる ことは ない のです。 「自転車」 と いう コトバが 自転車を 示す こと だけに 使われて いる かぎり、この 「自」 が なにを 意味するか せんさく する 必要は ない のです。 コトバ として 必要な ことは、それぞれの コトバが モジの うえ でも 音声の うえ でも ほかの コトバと まぎれない かたちを して いる こと です。 さらに、ほかの コトバと まぎれない かぎり、みじかい ほど すぐれた コトバ です。 以上の ことがらが なぜ 必要かは あらためて 説明する までも ない でしょう。
  漢字で 書いた コトバは、漢語にも せよ 和語にも せよ 非常に 書きあやまりやすく、読みあやまりやすい と いう ことは、前回にも いろいろ 例を あげた こと です。
  これに 対して、漢字主義者たちが 反論する ことは、もうひとつの 条件の、「みじかい 表現が できる」 と いう こと です。 その 点では 漢語に かなう ものが あるまい と いう こと です。 この ことで よく もちだされる 例は、「汽車」 と いう 漢語の 簡潔さ です。 もし 漢語を つくらなかったら 「くろがねの みち ゆく くるま」 と でも いわなければ なるまい と いう のです。

「乗合自動車」 から 「バス」 に

  自動車には 乗用車も ありますが、荷物を はこぶ 自動車も あります。 その ため、荷物を はこぶ ほうの 自動車を、はじめの ころは 「貨物自動車」 と いって いました。 しかし、今日は だれも そう いいません。 「トラック」 と いいます。 「貨物自動車」 では 長すぎる から です。
  「トラック」 は 英語の 「トロッコ」 から 分かれて うまれた アメリカ英語 です。
  また、人を 乗せる 自動車 として、乗りあいの 自動車も 出現しました。 そこで その 自動車は 「乗合自動車」 と 名づけられました。 しかし、今では だれも その ようには よびません。 「バス」 と よんで います。 この もとの コトバは 「オムニバス カー」 です。 「オムニバス」 は 「共用」 と いう 意味で あり、「バス」 は その 語尾 だけを とりあげた もの です。
  外来語を つかう ことは 国語愛護の 立場から ふつごう だ と いう 意見が しばしば とりあげられます。 高級品 らしく 見せかける ために 商店の 側が はやらせた と しか 考えられない 外来語が はびこって いる ことも 事実で あるし、また それは 西洋すうはいの 心理を ねらった もの でしょう。 しかし、外来語 はんらんの 原因を その 点だけに かぎって 考える のは 片ておち でしょう。 「貨物自動車」 と いわずに 「トラック」 と よび、「乗合自動車」 と いわずに 「バス」 と よぶ 人たちを 国語愛護の 精神に かけて いる と 非難する のは 単純に すぎます。
  西洋すうはいの 気持ち から 外来語を 使う ことは 心得ちがい ですが、しかし、戦時中に 当局が 野球の 用語に まで 外来語を 禁止した ような ありかたも しりぞけられなければ なりません。 漢語で あろうが 外来語で あろうが、とるべき ものは とりいれる ことに よって、国語を よりよい ものに そだてあげる こと です。 それには、耳コトバ としての 機能を 比較して みる 必要が あります。

耳コトバ としての 比較

  常用漢字表を 見てみると、たとえば 「カ」 の 発音に はじまる 漢字は 91字 あります。 ところが、その うちわけは、「カイ」が 22字(会・回など)、「カク」が 17字(各・覚など)、「カツ」 が 8字(括・渇など)、「カン」 は 44字(看・関など) と なって いて、これ 以外の 字は ひとつも ありません。 それだから 「快感」 と 「快漢」 の ような 同音語が さいげんも なく うまれる のは 当然の こと なの です。 これに くらべて 和語の ほうは おなじく 「カ」 で はじまる コトバでも 「かお・かね・かぜ・かに・かも・かゆ・かば・かぶ・かべ」 そのほか それぞれに 耳コトバ として はっきり 区別の つく コトバが かぞえきれぬ ほど あります。 その 理由は 和語では 音節の くみあわせが 自由 だ から なのです。
  ここ では、和語の こと には ふかく ふれません。 論題は 漢語と 外来語の 比較です。 外来語も 和語と 同様に 音節の くみあわせが 自由です。 「カ」 に はじまる 例では 「カクテル・カシミア・カステラ・カセット・カット・カナリア・カナキン・カッパ」 これも また きりも ありません。

日本語化した 外来語

  いま あげた 例の おしまいの 「カッパ」 は 雨具の カッパ です。 「合羽」 とも かかれるので 外来語 だ とは おもわない 人が おおい かも しれません。 しかし これは ポルトガル語が 語源です。
  このように、今日では 外来語で ある ことが 意識されなく なった 外来語も すくなく ありません。 おなじく ポルトガル語に 由来する 例を あげると 「カナキン・カボチャ・カルメラ・カステラ・サラサ・タバコ・トタン・ブランコ・ボタン・ラシャ」 など すべて そう です。
  また、オランダ語に 由来する コトバでは 「インキ・ガラス・カンテラ・コップ・ゴム・セル・ネル・ラッパ」 など その 一例です。
  このような 例を ここに ならべた のは、外来語も 日本で しばらく つかわれて おれば 日本語 らしい ものに なる と いう ことを 申したい ため でした。
  おなじ ことは、じつは 漢語に ついても いえる のです。 まえ にも 述べた こと ですが、たとえば 「観」 や 「慣」 を 今日では 「刊・感」 と おなじ ように 「カン」 と 発音して いるが これは 漢字音を 日本語化した ためで、中国の 本来の 発音は 「観・慣」 は 「クヮン」 です。
  この 経過に よって 字音は ますます 同音の ものが ふえる ことが わかる はず です。 そして それは 中国語の 性格に 由来する ことも できない のです。
  これに 反して、西洋から はいって くる 外来語の ほうは、漢字と いう 「発音の くさり」 に しばられて いないで、必要に 応じて どの よう にも すがたを 変化させる ことが できます。
  野球用語に 「ストライク」 と いう 外来語が あります。 また 労働運動の コトバに 「ストライキ」 が あります。 この ふたつは おなじ 英語から 来て いますが、「ク」 と 「キ」 とを 言いわけて 耳コトバ として 改造した のでした。 そのうちに 「同盟罷業」 と いう 漢語が できました。 しかし、今日では 「ストライキ」 も 「同盟罷業」 も ひっこめて もっと 簡単な 「スト」 と なって います。 外来語の 「進化」 の すばやさの 一例です。
  外来語の 改善が このように 成功する のは すべての 音節が 自由に くみあわされる から です。 しかし、漢字の 字音には そのような 自由は あたえられて いません。 漢語に 同音語が さいげんも なく うまれる のは、漢語の 宿命 なのです。

日本語を よく する すすみかた

  日本語が いま さしせまって もとめられて いる ことの ひとつは、耳に はっきり 区別の つく コトバに する こと です。 それ には なによりも 漢語を できるだけ つかわない ように する こと です。 その わけは、すでに くわしく 述べた とおり です。
  しかし、すべての 漢語を つかわない ように する と いう ことは、できない 相談でも あるし、また そこ まで やる 必要も ない こと です。 第1に 心がけたい ことは、これも すでに 述べた こと ですが、漢語を たくさん ならべた のが りっぱな 文章 だ と おもう ことを やめる こと です。 第2に 耳に 聞いた だけ では 意味の まぎれそうな 漢語は つかわない こと です。 第3には、外来語でも、簡潔で よく つかいならされて いる ものは どしどし つかう こと です。 「ナイター」 の ような 和製英語でも いっこう さしつかえ ありません。 日本語 として つかう のです から。 ただしく いえば それは あたらしく つくられた 日本語 だ と かんがえたら よい のです。
  これは 外来語 だけに ついての こと では ありません。 漢語も 必要に 応じて どんどん 作ったら よい のです。 ただし、それは 耳コトバ として 合格する 漢語、すなわち カナで かいても 意味の よく わかる 漢語で なければ なりません。

第11講  かなづかい問題と 音韻の 役割

かなづかいが 乱れた わけ

  終戦前は、法令、公用文も、新聞など 一般の 出版物も、旧かなづかいを 用いて いました。 おさない こどもらの 本にも 「かえるの なきごえ」 は 「かへるの なきごゑ」 と 書かれて いました。
  このような かなづかいは、ナラ朝、平安朝時代の カナの 使いかたに ならった もの なので、「歴史的かなづかい」 とか 「旧かなづかい」 と いって います。 ナラ・平安朝時代には なぜ そのような かなづかいが 用いられたか と いうに、その 当時の 発音は 現代の 発音と ちがって いた ので あり、旧かなづかいは その 当時の 発音の ままを 書いた までの こと だった のです。 もっとも、いま 「発音の まま」 と 書きましたが、これは 正確な 用語では ありません。 その ことは あとで 音韻と 音声の 関係の 説明の おりに あらためて 説明します。
  ナラ・平安朝時代は カナが 出現した 時代で あって、発音の ままを 書いて いた ので、かなづかい問題と いう ものは おこりませんでした。 ところが、そののち 発音の うえに いろいろな 変化が おこって きました。 たとえば 平安朝の 中ごろ までは “ye”と いう 音節が あり、これを あらわす カナも ありましたが、この 音節は “e”に 同化して しまいました。 また あたらしく 「ン」 と いう 発音が うまれた ので、これを あらわす カナが うまれました。
  こう なって くると、自分たちの 時代の 発音に したがって 書こうと する 人も あるし、以前からの かなづかいを 用いようと する 人も あり、結局、ほとんどの 人は その 時代の 発音に よる かなづかいと 以前からの かなづかい とを 入りまじりに 使う ように なって しまいます。 その 実例は、古典の 代表 とも いうべき 「方丈記」 や 「奥の細道」 など にも かずおおく 見られます。
  江戸時代に なって から 古典の 研究が さかんに なり、とくに 契沖(1640〜1701)は 「和字正濫抄」 などを あらわして かなづかいを 復古主義の 立場から 統一する ことを 主張しました。 しかし、人々は かれの 説には 耳を かたむけませんでした。

現代かなづかいの 出現

  明治維新は 西洋文化を とりいれる 努力と ともに、王政復古 と いう 旗じるしの もとでの 復古主義の 時期でも ありました。 全国に 小学校が つくられ、日本中の こどもらが 学校教育を うける ように なりました。 その 基本に なる 国語表記法には 契沖 以来の 研究と 主張に よる 旧かなづかいが 採用されました。 すなわち 「かへるの なきごゑ」 式の 用字法を 全国民が 教えられた のでした。
  もちろん、かなづかい改正論や そのための 活動も くりかえされました。 が、そう した 主張は 伝統を 否定する 危険思想と 見なされた もの でした。 かなづかい改正論が まともに 人々の 耳に はいる ように なる ため には、神がかりの 復古主義が 正面から 評価される 時代に ならなければ ならなかった のでした。
  国語審議会は、戦後 陣容を ととのえて 活動を おこしました。 漢字部会と ならんで かなづかい部会を もうけました。 そして この 部会の 原案は 総会の 議決を へて、昭和21年 11月 16日に、当用漢字表と いっしょに 内閣訓令・内閣告示 として 公示されました。 それが 「現代かなづかい」 です。
  現代かなづかいは、今日 ひろく 用いられて いる ので、使いかたを あらためて 説明する 必要も ない でしょう。 しかし、その 論拠は 国字問題の 基本に ふれる ことなので すこし 堀りさげて みたいと おもいます。
  内閣告示の 「まえがき」 には、
  このかなづかいは、大体、現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす場合の準則を示したものである。
と 述べられて います。 「語音」 と いう のは かなづかい 主査委員長を つとめられた 安藤正次氏が よく 用いられた コトバで、辞典にも 「音韻」 と 同義語として 出て います。 ただし、国語審議会の 総会で 安藤委員長が おこなった 主査委員長報告の 中では、
  この制定に当たりまして、準則のよりどころを今にもとめ、現代語の音韻意識によって書きわけることを本体といたしましたことは申すまでもございません。
と 報告して います。 この ように 「音韻」 を 用いて います。
  それなのに、告示の 「まえがき」 で 「音韻」 と いう コトバを さけた のは、たぶん 一般人に とっては 字も むずかしいし、意味の くみとりかたも むずかしい との 考慮からで あった と おもいます。 これも 理由の ある こと です。

音韻とは なにか

  「音韻」 とは なにか。 「日本国語大辞典」 では、この コトバの 使われかたを、それぞれ 意味の ことなる 四つの 方面に ついて 説明して います。 その ひとつと して 「言語学で具体的な音声から音韻論的な考察を経て抽象された言語音をいう。」 と 書かれて います。
  しかし、これ では、かんじんの 「音韻論的」 の 意味が わかりません。 つぎに、「国語学辞典」 の 「音韻」 の 項を 紹介します。 これ なら よく わかります。
  「いちいちの言語体系を形作る記号としての音。甲が叫ぶ「犬がいる!」ということばの音(=具体音声)と、乙が叫ぶ「犬がいる!」ということばの音とは、正確には同一ではない。われわれはその違いを容易に指摘できる。が、違いはあるが、われわれは日常その二つを、同一の《犬がいる》ということばだとして受け取っているというだけでなく、具体的に耳に聞こえる「犬がいる!」という音の中核として、《犬がいる》という共通の音が抽象されるからと考えられる。つまり、甲と乙とは共通の記号を使っているわけであって、それがたまたま甲・乙両人の生理的、物理的あるいは心理的な事情の違いに応じて、記号以外の音的要素が加わり、異なる二つの「犬がいる!」という音として実現するのだと考えることができる。このように解釈する場合、一回一回の具体的な「イヌガイル」という音を音声と呼ぶのに対して、その中核にあると解釈される《イヌガイル》という抽象的な音を音韻と呼ぶ。(下略)

音韻こそ コトバの 正体

  現代かなづかい には 旧かなづかい との つながりを とりいれる 「政治的考慮」 から、音韻と ことなる 表記法をも わずかながら のこして います。 助詞の 「は・へ」 が それ です。 (「を」 には ほかの 理由が ある ことを あとに 述べます。)
  それから、連濁と 連呼に かぎって 「ヂ・ヅ」 を 用いる ことに して います。 「いれぢえ・みそづけ」 が 連濁の 例、「ちぢみ・つづく」 が 連呼の 例 です。
  この 連濁・連呼の 処置は、旧かなづかいに 降参した ものの よう にも 見えますが、そう では ありません。 「いれぢえ」 には 「ちえ」 と いう コトバが、「みそづけ」 には 「つけ」 と いう コトバの 意識が 生きて います。 それで、この 「ぢ・づ」 には 「臨時に 濁音化した だけの こと」 と いう 意識が ともなって います。 その ことは、表記の うえ でも みとめなければ なりません。 それが、音韻を 生かす こと なのです。
  おなじ ような ことは 連呼に ついても いえます。 現代かなづかい では 「ちぢみ・つづく」 の ように、連呼にも 「ぢ・づ」 を 用います。 「さざなみ」 や 「とどろく」 の 「ざ」 や 「ど」 は その まえの 音節を くりかえした のだ と いう 意識を ともないます。 ですから、「ちぢみ・つづく」 も、音韻の うえ から 「ぢ・づ」 を 用いる ことに 論拠が あたえられます。

耳にも 区別の つく 表現を

  音声は コトバを 表現する 役目に 使われます。 声は、人 それぞれに ことなる のに 一定の コトバを つたえる ことが できます。 それは 音韻を くみとる ことが できる からで あります。 だから、音韻だけ では コトバを つたえる ことが できない ばあいは、ほかの 方法を 用いなければ なりません。 「市立」 と 「私立」 の 区別を 漢字で 書いて 示したり、「いちりつ」 だの 「わたくしりつ」 だのと 言いなおしたり する のは、その 一時しのぎの 一例です。
  現代かなづかいは 音韻本位に つくられましたが、その 立場から いえば 「ヲ・を」 は 「オ・お」 に 併合されるべき でした。 しかし 併合させると、たとえば 「病気お見舞」 が 「病気お見舞」 なのか 「病気を見舞」 なのか わからなく なります。 現代かなづかいが 助詞に かぎって 「ヲ・を」 を 生かした のは 賢明な 処置でした。
  「オ・お」 と 「ヲ・を」 は、おなじ 音韻を 示して います。 しかし、それだから ふつごう だ と 単純に 言える もの では ありません。 ひとつの 音韻には ひとつの 表記法しか 用いては ならない と きめる ことも 理由の ない こと です。 コトバは 音韻だけで できて いる もの では ありません。 「頭が痛い?」 と 「頭が痛い!」 とは おなじ 音韻で 組みたてられて いますが、意味は ちがいます。 意味の ちがいは 「?」 と 「!」 の 記号で 表現されて います。
  それでは、たとえば 「みる」 と いう コトバを 意味の ことなりに しがたって 「見る・視る・観る」 などと 漢字に よって 書きわける のが 用字法の 理想 なのでしょうか。 それは、音声言語を おきざりに して 文字言語が ひとりあるき する こと なので いけない のです。 「見・視・観」 の 意味の ちがいを 示す ことが 必要なら、「みる・みつめる・みわたす」 の ように、耳にも 区別の つく 表現を 用いるべき です。
  ワカチガキの 普及を はかる ことも、この 立場から 有益です。 「ヲ・オ」 が 合併しても 「びょうき おみまい」 と 「びょうきお みまい」 とに 書きわける ことが できましょう。

第12講  新国字論・ローマ字論・カナモジ論

新国字論

  国語国字問題として あつかわれて いる 「問題」 の 内容は さまざまの 方面に わたって いますが、中心の 課題は 漢字を どう するか と いう こと です。
  一般国民には 読めない ような むずかしい 漢字を 物知り顔に 使いちらす ことは、今日は 非常識な ありかたで ある と みられる ように なりました。 しかし、現状は 国語国字の 理想からは ほどとおい もので ある ことも 事実 です。
  漢字を できるだけ 制限して 最小限の ものを 残す のが 問題解決の 終着点 だ と 見る 人も ありましょうが、日常生活からは 漢字は すっかり 引退させて、それに かわる モジを 採用すべき だ と 主張する のも ひとつの 立場です。
  それでは、漢字に かわる もの として どの ような モジを 採用すべきか。 これに ついては、明治以来 さまざまの 提案が あり、運動も おこなわれて きましたが、それを 大きく 分けると、(1)新国字論 (2)ローマ字論 (3)カナモジ論 の 三つに なります。
  新国字論と いう のは あたらしく 考案した モジを ひろめる と いう のです。 新国字を 考案し、その 普及に つとめた 人は、じつに 無数に ある と いっても よい ほど です。 それは 日本が 世界の 上位に 列する ように なった 明治後半からの こと でした。 時代の 背景が うみだした もので ある とも いえましょうが、その 大きな きっかけを つくった のは 井上哲次郎博士 でした。 博士は 明治31年に 雑誌 「太陽」 に 「国字改良論」 と 題する 一文を 発表しました。
  井上博士は 速記モジを 改良したら よい と いう 意見でした。 これに こたえる ように 木村鷹太郎氏は カタカナを 改良して 横書き する 案を 発表し、岡田正美氏は ヒラガナを 改良した 案を、また 菅沼岩蔵氏は カタカナと ヒラガナを とりまぜた 案を、小島一騰氏は 漢字の 表意性を とりいれた 案を、さらに 小森徳之氏は カタカナに ローマ字の ような 書体を とりいれた 案を 提唱しました。
  新国字案の 出現は、その 当時だけに とどまらず、昭和に なって からも つづきました。 とくに、東大教授で 眼科の 権威で あった 石原忍氏の 提唱した 案は 眼科の 立場からの 案として 知られました。 しかし、新国字の 花ざかりは 明治末から 大正に かけての 一時期の 現象 でした。 その 理由として みとめなければ ならない ことは、「モジは 世の中に 通用しなければ 使われない」 そして 「通用しない モジは ひろまらない」 と いう こと です。

ローマ字論

  ローマ字で 日本語を 書くと いう ことは、すでに 古く、海外から 来た 宣教師たちに おこなわれて いました。 ただし、その つづり方は 一定して いませんでした。 明治初年に ヘボンが 作った 辞書に 使われた 日本語表記用の つづりを、当時の 「ローマ字会」 が わずかに 修正を くわえ、これを 日本語の 表記法として ひろめました。 これが、今日 氏名の サインなどに ひろく 使われて いる つづり法 です。(ヘボンは 「キャ・キュ・キョ」 などを kiya・kiyu・kiyo と 書いたが、ローマ字会は kya・kyu・kyo と あらためた。)
  ヘボンの 辞典の つづりを 基本に した ので、この つづりを 「ヘボン式」 と いう 人も ありますが、これを 普及する 運動に つくして いる 人たちは この 名を きらって 「標準式」 と 呼んで います。
  標準式では 「カキクケコ」 や 「マミムメモ」 は 「ka・ki・ku・ke・ko、ma・mi・mu・me・mo」と、それぞれの 行(ぎょう)に 一定の モジ 「k・m」 が 先行し、つぎに 「a・i・u・e・o」 が 来ます けれども、「サ行」 や 「タ行」 では、「sa・shi・su・se・so、ta・chi・tsu・te・to」 と 書きます。 そのほか にも 五十音図の たて・よこの 組みあわせが 機械的に そろわない ところが いろいろ あります。
  この 標準式ローマ字に 対して、田中館愛橘博士や 田丸卓郎博士 たちが、五十音図の たて・よこが 整然と ならぶ 書きかたを 主張しました。 すなわち、「サ行」 なら 「sa・si・su・se・so」 と 書き、「タ行」 なら 「ta・ti・tu・te・to」 と 書く 方式です。 そして、これを 「日本式ローマ字」 と 名づけて その 普及に つとめました。
  日本式ローマ字の 論拠は、日本語の 特色が はっきり あらわれる と いう こと です。 標準式では 「立たない・立ち・立つ」 は 「tatanai・tachi・tatsu」 の ように 不統一に なるが、日本式だと 「tatanai・tati・tatu」 の ように 「tat」 と いう 一定の 字形が 示される と いう のです。
  これに 対する 標準式からの 反論は、ローマ字は 発音を 示す もので ある。 「立ち・立つ」 を 「tati・tatu」 と 書く のは 発音を 無視する もの だ と いう のです。 これに 対する 日本式の がわの 反論は、国字と しての モジは 音韻を つたえる もので あって 音声を うつす もの では ない と いう のです。
  文部省は 明治末に この 両派の 妥協を はかり、さらに 昭和5年に 「臨時ローマ字調査会」 を 設けて 審議しましたが 妥協を みるに いたらず、昭和12年に 内閣訓令として 日本式ローマ字を 正式に みとめ、学校教育には 「当分の 内は 教科書及辞書等の 関係にて 従来の 綴方を 併せ 課する ことは 適当と 認むるも 書写の 場合は 内閣訓令の 綴方に 依らしむる こと。」 と 指示しました。
  戦後、ローマ字が 小学校の 正課として とりあげられる ように なり、国語審議会では ローマ字調査部会を 設けて あらためて 問題の 処理に あたったが、結局、訓令式(日本式)を 第1表とし、標準式を 第2表として 両式を おしえる ことに なって 今日に いたって います。
  しかし、現状は、小学5年生用の 国語の 教科書の 巻末に ローマ字の 文字表を かかげて いる だけ と いう のが、たいていの 教科書の 実態です。

ひらがな論

  カナ専用論には ひらがな論 と カタカナ論 とが あります。 カナの うまれた 事情は すでに 第3講で 述べ、ついで 第4講で カナ専用論の 出現の 経過を あつかいました。
  明治6年に 前島密が 「まいにち ひらがな しんぶんし」 を 発行した ことも、すでに 書きましたが、その おり には ふれなかった 清水卯三郎の こと にも ふれるべき でしょう。
  清水は 明治7年に 「明六雑誌」 に 「平仮名ノ説」 を 発表し、おなじ 年に 全文 ひらがなの 化学書 「ものわりの はしご」 を 出版しました。 そして 明治16年に できた かなのくわい には 世話係に なりました。 しかし、まもなく 清水は カナモジ運動から とおのきます。 それは、じつは その 当時の カナモジ運動 全体の 足どり でも ありました。
  当時の カナモジ運動は ほとんどが ひらがな運動 でした。 これは 江戸時代の 民衆の 読みものに 根ざす しぜんの 経過でした。 当時の カナモジ運動の ゆきづまり には まだ いろいろの 原因が かぞえられますが、いちばん 決定的な 原因は さき にも ふれた ように、実用に ならない ものは ひろまらない と いう 一点です。 ひらがな では 語形が まとまらない のです。 いつまでも ひろい−読みを しなければ ならない のです。前島密や 清水卯三郎 だけで なく、一時は 会員 1万人を かぞえた かなのくわい そのものが 創立から 10年 そこそこで すがたを 消しましたが、それも、第一の 理由は ひらがなの 実用性の とぼしさに あった と おもわれます。
  大正時代に なってから、成蹊学園の 創立者 中村春二氏が、ひらがなで 1語ごとに ひとつの かたまりを 作る ように くふうした 字体を ひろめる 運動を おこしました。 根本問題の 所在を とらえた ことは よかったが、やはり ひらがな には 語形を 作る 要素が とぼしかった よう でした。 あまり ひろまる こと なしに すがたを けしました。
  日本人は だれもが 子どもの ころは ひらがな ばかりの 本を 読んで いる のに、それが 成人の 世界には 持ちこまれない 事実も、そのへんの 事情を 示して いる と おもわれます。 ひらがなは 漢字の 草書に 由来する ので、1字1字の 独立性が つよすぎる のです。

カタカナ論

  カナモジカイが 普及に つとめて いる よこがき カタカナが、現在は かぎられた 方面に しか 実行されて いませんが、しかし、着実に その 領土を ひろげつつ ある ことは 事実です。
  そして、この もとを 作った のは、カナモジカイの 創立者 ヤマシタ ヨシタロウ氏 で あった ことも、この 一文の 読者の かたがた には あらためて 述べる までも ない でしょう。
  ヤマシタ氏が まとめあげた カタカナの 案は、明治の 偉大な 先覚者、文学博士・法学博士 末松謙澄の 意見を 具体化した もの でした。
  末松博士は すでに 明治19年に 「日本文章論」 を 著作して、当時の 非論理的な カナ論者たちに 警告を 出しました。 すなわち、カナ専用を ひろめる ため には、第1に ワカチガキを 採用する こと、第2に 左からの よこがきを する こと。 第3に 1語が ひとめに 読みとれる ように 字体を 改善する こと、第4に 発音かなづかいを 採用すること。 これらの 趣旨を、条理を つくして 述べて いる のです。
  たとえば 字体に ついても 「ホ・ト・オ」 などは 上に、「チ・リ・ウ」 などは 下に のばし、「ロ・ハ・ニ・ヘ」 などは 「矩字として真中に置くべし」 と いう ような 点に まで ふれて います。
  さらに、用語に ついては かなのくわい が いたずらに 古語の 復活を はかって いる ことを いましめ、外来語と いえども 採用して よい ものは 採用すべき だ と いって います。
  もちろん カナモジカイ だけの ちからに よった もの では ありませんが、すでに、口語体・よこがき・字体・現代かなづかい、そして ある 程度の 漢字制限も 実現されました。 カナモジカイ 創立から 60年、この ながい 年月の あいだに わずかに それだけの こと しか できませんでした。 しかし、漢字渡来 以来の 年月、そして その 間の 国語国字の 足あとを ふりかえる なら、わたしたちは なにも 落胆するに およばないのでは ないか と いう、あたらしい ちからの わく のを おぼえます。

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