カナこそ日本語の文字
―― 「わたし」「わたくし」「あたし」「あたくし」 ――
カナザワ フミカズ
カナモジカイのホームページをご覧になった方からメールをいただくことがよくある。もちろん反対意見の方もいらっしゃる。それはよいのだが、書いてあることをロクに読みもせずに、「「わたし」と「わたくし」が読み分けられないからといって漢字の廃止をとなえるのは短絡的だ。」などとおっしゃる方もいる。〔もちろん「私」1字の問題ではなく、漢字全体の問題の一例としてこの字をとりあげたのである。〕
「私」という漢字が書いてあっても、「わたし」か「わたくし」か分からない。これでは文字としての役割を果たしているとはいえない。われわれはこう問題提起しているのだから、まずこのことについて自分の判断を出したうえで反論してはいかがか、と思うのであるが、それができる人いないようである。漢字中毒になるとまともにものを考えられなくなるようだ。
さて、「わたくし」の系統と思われるコトバは「わたし」以外に「あたし」「あたくし」「わし」「あっし」「わっち」「あたい」「あちき」「あちし」「わて」「わい」などたくさんある。いずれも単に一人称の人称代名詞というだけでなく、性別や年齢、地域の違いなどを反映しているのであるから、これは何としても書き分けなければ日本語にならない。カナなら――発音どおりに書けばよいのであるから――それができる。ところが漢字となると、読み方を正確に示すことができるのは、「儂(わし)」の1字だけである。日本語は漢字――その正体は中国文字――ではまともに書けないのである。
ところで、「私」という漢字であるが、左の「禾」は作物をあらわし、右の「厶(し)」は、「自分にかかわる」という意味をあらわすといわれている。どのようにしてこの字ができたのかは色々な説があるようだが、いずれにしても間違いないのは(どの漢字についてもそういえるのであるが)、古代中国の風習や社会制度を反映したものだということである。
古代の中国人がかれらの社会と言語のために生み出した漢字を――日本語を正確には書き表せない文字を――現代の日本(語)人が使い続けなければならない、いかなる理由があろうか。
(『カナノヒカリ』 960ゴウ 2016)
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