漢字で書かなければ意味が通じないか?
ユズリハ サツキ
【漢字廃止論への批判】
「ち密」の「ち」とは何か? ひらがなの「ち」に意味はない。「緻密」と漢字で書いてこそ、このコトバは意味を持ち、通じるのではないか。
【反論】
「交ぜ書き」に反対する立場からのご質問であると思います。
「緻」という漢字は、常用漢字ではないので交ぜ書きをして「ち密」と表記することがしばしばありますが、「緻」という字を使わないと本当に意味が通じないでしょうか。〔もしそうだとすれば、このコトバは話しコトバでは使えないはずです。〕質問者自身そうは感じていらっしゃらないでしょう。「ち密な細工」で意味が通じませんか? 通じるのは、元の「緻密」という漢字表記を知っているからだ、と反論されるかもしれませんが、質問者はそうであったとしても、すべての人がそうであるとはいえないでしょう。
むしろ、逆に、最初にオトからコトバを覚え、あとから表記を覚えるのが普通ではないでしょうか。たとえば「しょうゆ」というコトバは、幼い頃から知っていて、やがて「しょう油」という表記を覚えます。「醤」は、常用漢字ではなく、難しい字ですからカナ書きすることが多いのです。そして、大概の人はさらに「醤油」という表記も覚えます。「しょうゆ」というコトバよりも「醤油」という漢字表記を先に覚えるなどということはまずありえません。「ちみつ」についても同じことがいえるでしょう。
とはいえ、ひらがなの「ち」に意味はない、という主張には漢語に限っては反論はしません。「ちな細工」では確かに意味はわかりません。「ち」と発音する漢字があまりにも多いからです。「ち」からどういう漢字を思い浮かべるかで意味がまるで違ってきます。「緻な」ととるか「値な」ととるか、あるいは「知な」か「痴な」か「恥な」か。漢語の「ち」に意味がないのは当たり前です。漢字の音は多くの場合、それ自体では意味を示すことができず、文字で書き表わしたときに初めて意味が明らかになるのです。また、文字で書き表わしたときでもそれは造語成分でしかありません。
漢字の音「ち」がコトバではありえなくても、「ち密」はコトバとして通用しています。同音異義語がなく、耳で聞いてもわかるからです。しかし、中には、わからない人もいるかもしれません。それは、「ち」に意味がないからではなく、「ちみつ」が日本語としてはあまり生活に密着していないコトバだからです。通じやすいコトバとは、「ち密」のような固いコトバではなく、「細かい」「詳しい」「手の込んだ」など、やさしく、わかりやすいコトバなのです。
ただし、「ち」というコトバがないわけではありません。「ちの巡り」の「ち」、「ち離れ」の「ち」。どちらも漢字で書かなく文脈から意味がたやすくわかる立派なコトバです。漢字で書けば、「血」「乳」ですが、両方とも和語(ヤマトコトバ)です。
同音語が問題になるのは、主に漢語なのです。上に音だけの「緻」や「値」などはコトバではない、と書きましたが、正確にいえば、日本語のコトバとはいえないということで、漢字の本家中国語では、それらは紛れもないコトバなのです。それがなぜ日本語ではコトバになりえないか、というと、日本語と中国語ではコトバのオトの性質が違うからです。
日本語では「ち」の音を持つ漢字としてあげた「緻」「値」「知」「痴」「恥」は、中国語では、それぞれ区別して発音されるのです。それを日本式に発音すると、みんな「ち」になって区別ができなくなり、コトバとしての働きを失ってしまうのです。(日本語で区別できなくなる理由はここでは省略します。)中国語にも同音語はありますが、日本語ほど多くはありません。
【まとめ】「ちみつ」というコトバを知っていれば、「ち密」でも意味は通じます。「緻密」と書かなければわからないとすれば、それは、日本語としてあまり身近ではないためであって、もっとわかりやすいコトバを使うべきなのです。
(『カナノヒカリ』 946ゴウ 2010ネン フユ)(一部書き改めた。)
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