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コトバや文字(もじ)は、人間(にんげん)()(くわ)えてはいけないものか?
ユズリハ サツキ 
【国語改革への批判】
 コトバや文字は、自然に変化していくものであるから、人間が手を加えて改革するということは、してはならないことである。

【反論】
 たしかにコトバも文字もこれまで「自然に」変わってきました。しかし、「自然に」ということを、コトバや文字それ自体が持つ、「人間の意志を超えた力」によるものであるかのようにとらえ、だから人間が手をふれてはならないのだ、と考えるならば、それは間違いと言わなければなりません。
 「自然に」変わった、と言っても、それは実は人間が変えてきたのです。しかし、それは意識的に変えようとしてそうなったのではないので「自然に」と表現しているにすぎません。参考までに例をあげますと、発音の変化は、特定の社会階層が新しく現われたオトに対して権威を感じたときに、それを身につけようとして起こる現象だ、と考えられています。
 コトバや文字の変化は、「自然に」起こることであっても、あくまでも人間によってなされるのですから、当然「意識的・人為的に」行うこともできるはずですし、実際行われてきたのです。共通語あるいは標準語とよばれる、東京弁を元とした「アナウンサーが話す日本語」も実はかなり人の手が加えられた人工語なのです。また、ひらがなの字体の統一も明治時代になってから文部省によってなされたのです。(正式なひらがなにならなかったものが「変体がな」と呼ばれるものです。)そして、戦後の国語改革です。
 このように、コトバや文字は「意識的・人為的に」変えることができる。これは、疑う余地がありません。問題は、それをどう評価するか、ということです。
 人間は、環境に働きかけていくことによって、文化を築きあげてきました。川は自然に流れています。しかし、そのままにしておいては、洪水などがおきて大きな被害を受けることになります。そこで人間は、川の流れを変えたり、増やしたり、土手を築いたりして自分たちを守り、また、川をより便利に利用しようとしてきました。これが文化というものです。
 コトバや文字もまた、人間が生まれてから獲得する環境であり、したがって、これに働きかけ、よりよいものにしていくことは文化なのです。これを否定することは、自然のままの川に手を加えてはいけない、と主張するのと同じことであって、文化に反するものと言わざるをえません。成り行きまかせは文化を否定するものです。もちろん、治水が自然の物理法則にのっとったものでなくては成功しないように、コトバや文字の改革も、難しい漢字をやさしい漢字に書きかえる、あるいはカナ書きにする、というような自然の流れにそったものでなくてはなりません。
 ところが、コトバや文字が「自然に」変わっていくのは当然だとしながら、「意識的・人為的」に変えていくことにはガンとして反対する人々がいます。この人たちは戦後の国語改革を口をきわめて非難します。
 たしかに、コトバや文字が変化するということは、それが合理的な方向へ進むものであっても規範をくずすことになります。規範をくずすことが望ましくないということには、一理はあるといえます。(戦前の「規範」が規範たりえたか、ということが問題なのですが、ここではふれません。)にもかかわらず、この人たちの多くは、たとえば、「ら抜きコトバ」は「自然な」変化だから、という理由で、規範を大きく破るものであるにもかかわらず反対しないのです。しかもそのムジュンには口をつぐんでいます。
 つまり、この人たちのコトバや文字に対する見方は、自分が習い覚えたことだけにとらわれた観念なのです。彼らは、コトバや文字の歴史性、そう遠くない明治時代に行われた話しコトバの全国共通化やひらがなの統一などの「意識的・人為的」な変化がもたらした恩恵などから学ぼうとせず、また、日本語表記の不合理さについて問題意識を持とうともしない人々、文化を守っているつもりでも、実際は文化の否定を行っている人々なのです。
 なお、現在の日本語が、それが自然であるから今の状態を保っている、と考えるのは、もちろん正しくありません。国家による教育という強い力によって「意識的・人為的」に、強制的に、維持されているのです。

 (『カナノヒカリ』 961ゴウ 2017)

(このページおわり)