田丸卓郎『ローマ字国字論』(抜粋)

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◇田丸卓郎: 1872〜1932 理学者
◇『ローマ字国字論』: 1914年(大正3年)10月18日初版発行(日本のろーま字社刊)
 ここにのせるものは、1930年(昭和5年)6月15日発行の第3版(岩波書店刊)からの抜粋である。

・旧字体の漢字は新字体に改めた。
・かなづかいは「現代仮名遣い」に改めた。
・ふりがなは( )内に示した。(原文にも( )内に読み方を示してあるところがある。)
・傍点等は技術上の理由により省略した。


初版のはしがき
第三版を出すについて
第一篇 国字問題
 第一章 国字問題の起る所以――漢字の批判
 第二章 漢字制限の批評
 第三章 仮名とローマ字との比較
 第四章 ローマ字を国字とすることの利益
 第五章 ローマ字採用に関する懸念及び批難
 第六章 ローマ字の綴り方問題
 第七章 ローマ字に関係した其他の問題
第二篇 日本語の世界的書き方
第三篇 国字問題解決の順序
附録一、ローマ字反対論とそれの批評
附録二、仮名論とそれの批評

初版のはしがき

『国字問題は国語学者の問題である、それを国語学者でないものが論ずるのは心得違いだ』と云う人がある。併し現に此問題について実行方面まで熱心に努めて居る人は国語学者には却って少くて、国語学者でない人に多いと云う事実から考えて見ると、この問題は国語学者のみの論ずべきものだと云う論が当って居ない事情が事実上あるに相違ない。今それらしく思われる事情を書いて見ると、

 (一)国字は国民全体の日常使うものであるから、実地それの使用者と云う点では、国語学者と否らざる人とに差別がない。否、広く言えば凡ての国民は国語学者だと云ってもよい。それ故に使用上の差支や不便などから国字問題に考を向ける点では所謂国学者と国語学者外の人とに差別がない。
 (二)一般の国語学者は現在の書き方で書いた国語を取扱って居てそれが商売だから、変った書き方に考を及ぼす機会は却って少い。各種の学者でも又実業家でも、外国語に接する機会の比較的に多い人は却って変った書き方に考を及ぼすことの多いのは自然の理である。
 (三)特に吾々理学者は万国的性質を持って居る事を取扱うのが商売だから、そういう事に冷淡な人は別として、多少注意する人には外国語と日本語の比較が頭に湧いて来る機会は常にある。そして、凡て物事の真相を捕えるのが理学者の本領だから、国字問題が特に多く理学者に論ぜられることは寧ろ自然の勢である。
 (四)理窟上国字改良の必要を知って居る国語学者も、今の侭で別に自分の不利益にはならないから、それの必要を直接に感ずることはないが、我々理学者は絶えず外国の同業者と、書いたもので接して居るから、国語の現在の書き方の為に不利益を蒙ることを常に感ずる(そういう点に注意しない人は別として)。
 (五)直接必要を感じない人は、仮令理窟では有用なことを認めても、面倒なことは後に廻すようになるのは無理もない。必要を感ずる人はそう云う側の人のすることを待っては居られない。従って面倒なことを自分で処理してでも早くそれの必要に応ずることを試みるのも自然なことである。

ざっとこう云う事情かと思われる。
 国字問題は次に述べるように国家の大勢から見て極めて要用な而も急を要する問題である。それを、熱心にはやりそうもない国語学者に任せて置くことは、国家の上から見ても大きな損で、国語学者外の人が熱心にそれを論ずることは大きな利益である。自分は、此意味で国家の為にも要用な仕事をして居るという信念を以って、自分の専門以外の此事に当っているのである。
 勿論茲に述べたのは国語学者は此問題に関係しなくてよいという理由ではない。只、現在国語学に属すべき問題であるに拘わらず国語学者が多く之に注意しない。又は注意しても熱心にやる人が尠いという現在の状態の説明をしたのみである。併しかゝる状態は決してよいことではない、国語学者諸君は仮令差当ての必要は感じなくても先きに立って此要用な問題を研究して呉れられねばならないと思う。
 併し又同時に、国語学者ならざる一般の人々に希望したいことは、此問題を国語学者に任せると云うことにしないで、凡ての日本人がそれに考を向けて、実行方面に注意してほしい点である。本文にも論ずるように、主な問題は理窟にはなくて、読み慣れる、書き慣れると云う点にあるから、如何なる職業を持って居る人でも、普通の新聞雑誌を読むと同じ意味、同じ暇を以ってローマ字文を読みなれるように、又日常の書き物を成るべくそれで書くようにするだけで、此重要な問題に対して仕事をして居ることになるのである。

  大正三年十月                       著者しるす


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第三版を出すについて

 大正三年に本書を出してから、七年余で大正十一年の初に附録に「仮名論とそれの批評」を加えて再版を出したが、それも一年前に売尽したので、第三版の催促が切りに来る。しかし、初版以来十五年にもなるので、出すとなれば書き加えるべき事項もいろいろあって、中々其運びにならなかったが、去年の夏休とこの冬休とを利用してようやくこれだけに纏めることが出来た。
 この十五年余の間に、世間の人の国字問題に対する理解が進み、理論よりも実行に重きを置くようになったのに鑑み、本版ではローマ字書きに関する実行方面の事柄――綴り方問題、切り続け問題、其他ローマ字の応用方面の事、国字問題解決の順序など――を前版よりも多く書き加えてある。また附録には、増島六一郎氏と松岡静雄氏のローマ字反対論及び野上俊夫氏が其後に出した仮名論の批評を加えてある。
 このように、国字問題が次第に世間から真面目に取扱われるようになって来たとともに、大正九年には選挙にもローマ字投票が公に認められ、最近には海軍省並びに陸軍省で部内一般に対して本書で主張して居る日本式ローマ字と同じローマ字書き方を公に制定されるようになった。
 これは時勢の進歩と同志の人々の努力とによることで、喜ばしいことではあるが、併しまだまだ本書が世間に不必要になる程度にはなって居ない。否、吾々はこの時勢に乗って尚一段の努力をして、ローマ字国字論並びに日本式ローマ字の声を一般的にしなければならない。

  昭和五年一月                       著者しるす


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第一篇 第一章 国字問題の起る所以――漢字の批判

一、漢字の為に国民の受けて居る損

 今日主として行われて居る国語の書き方は、漢字と仮名とを使う方法で、漢字の方が殊に要用な語を書く用をして居る。然るに、其漢字の読み方には簡単な規則と云うものがなくて、一字一字別々に読み書きを習わねばならない。否一字の読み方が一つならまだしもだが、例えば行と云う字は、上に孝がつけばコーと読み、上に苦がつけばギョーと読み、ユクと読み、ヤルと読み、オコナウと読み、人名になるとツラと読んだり、行脚行燈になるとアンと読む。生という字には読み方が二十幾通りかあると云うことである。こういうことは行や生に限ったことではなくて、凡ての漢字が、多少の差こそあれ、皆いろいろ異った読み方を持って居る。又書く方でも同じことで、例えばみると云う一つの日本語を書くのに、見か覧か観か看かなどゝ考えなければいけない。これ等のことについては次の節で尚論ずるが、とに角漢字日本語の読み書きの複雑さは実に不可思議という外なく、これほど煩わしい読み方書き方は世界中日本以外どこにもないのである。
 このように複雑極まる漢字一字一字の稽古や読み分け使い分けは、現在の書き方が行われる以上、どうしても一々我々の学ばねばならないことで、我々の学校教育の大きな部分をそれの為に使って、大学を卒業する程になっても、まだ覚えきれなかったり、幾度も骨を折って覚えたことも思い出せなくて急の間に合わなかったりするのである。さて、これを知った処で何の役に立つかと云うに、只人に笑われずに読み書きが出来ると云うことの外に何の役にも立たない。字の読み分け使い分けを知って居ても、道徳上の修養にもならず、数学理学のような実用上の知識の足しにもならない。
 一体、語は人の思想を表す為の道具で、字はその道具を写すだけのものである。智識思想は無論大事であるし、又語は各国民に固有のものであり且つ国民の思想感情と極めて親密な関係のあるものだから、それは勝手にかえられないものであるが、字となると、其語を写す為に人為的に作ったものに過ぎないから、どうでなければならないと云うものではない。現に、日本語の昔の字は支那の字を其侭借りて其音によって日本の音を写した万葉仮名であった。其漢字は、云うまでもなく日本人に固有なものではなくて煩わしい借物であった。又現今使って居る漢字とても支那人からの借物である点は同じことである。

 
思想智識を中身とすれば、語はそれを入れてある重箱のようなもの、字は其重箱を包む風呂敷位なものである。我々が漢字の読み書きや使い分けに苦労して居るのは、風呂敷の詮索にばかり暇どって、肝心な中身をお留守にして居るようなもので、随分馬鹿気た話である。
 今の世の中は世界各国国民の実力の競争の世の中である。正味のある学問をすることの競争、其学問を応用して国力を増進することの競争に敗れるものは亡びるより外に仕方がない。我々が無意味な風呂敷の詮索をして居る間に、外国人は中身の学問をしてそれを応用することに日も足らない有様である。こんなことで我々が外国人に対して競争が出来るだろうか。
 手近な一例を挙げて見るに、専門家の話によると、日本の小学校六年間の読本の材料を独逸あたりの小学校の同年限の読本の材料に較べると、僅かに六分の一位しかないということである。日本の子供が一の智識を得る間に独逸の子供は六の智識を得るというのである。国民一人一人が尽く此通りの不利益を受けて居るとして国家全体のことを考えると、外国に較べて差の余りに大きいことに驚かされるではないか。こんなことで我々は外国人にまけないで行けるであろうか。
 先年日本を視察に来た米国の実業家が向うへ帰っての報告の中で「日本が漢字を使って居るうちは恐れるに足りない」と云ったそうだが、実際それに相違ない。
 漢字のある為に国語の学習に力を取られることは小学校に止まらず、尚高等の学校まで祟っている。それの為めに、学問する日本人がどれ丈損をして居るか分らない。近年日本人の学問の為に費す年限が長過ぎるということが論ぜられて居るが、学問の年限を縮めることの困難だということには、漢字が最大な原因をなして居ることは、上の小学校の事情を見ても疑う余地はない。
 一体、漢字の為めに日本人が損をして居る事は学校生活の間だけではない。吾々個人が書き物をするときに、字の形を忘れているために手間のかゝることなどは別として、実業家は各種の業務書類で、軍人は軍事通信で、外交官は国際会議などの書類整理で、凡て日本人は漢字を常用として居るために外国人と同等な働きが出来なくて、いつも労多くして効少い情態に甘んじて居なければならない。
 この他にも日本人が漢字の為に蒙って居る害はいろいろな方面に亘って居るが、それは第四章で述べるとして、こゝには教育上の効果の少いことを主として説いたのである。
 上のような心細い有様を救う方法は何にあるかといえば、日本語を書く方法を簡単にするより他にない。即ち漢字を止めて、書いてあるものは必ず読めるような字即ち音文字を使うことにするより他にない。学問の年限短縮なども、それによって容易な解決を得ることは明かである。
 音文字という点では、仮名とローマ字とが略同等な立場にあるが、第三章で十分に述べる理由に依て、吾々はローマ字を使うことが最良の方法であることを信ずるのである。


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二、日本語の性質から見た漢字

 前の項では漢字の為に吾々の蒙っている損を述べてそれを止(や)める必要を説いたが、併し若し日本語が性質上漢字で書くべき筈のものででもあるならば、それが損だからと云ってそれを止(や)めることが無理だというようなことになるかも知れない。それで、今漢字が性質上日本語に対してどんな関係に立って居るかを考えて見る。
 今の日本人には日本語は(文法上の関係を表す所に使う仮名の外は)当然漢字で書かるべき筈のものだと思って居る人が多いようである。併しそれは習慣の為に注意力が痿えて居る為にそう思うので、注意して見ると、そうでないことを発見する。先ず漢字を使って居るについて吾々の出会う不都合を列べると、

(一)書いてあることが慥には読めない。例えば日の字があっても、ニチジツか分らないと云う類いは、殆ど凡ての字に就いてある。尤も、意味のある普通の文章であると、多くは他との関係で判断がつくが、兎に角一つの字を見ても、それを語(ことば)にかえることが出来ない。地名人名に至っては、分らない方が普通で、分る方が除外と云ってよい。学文路、及位、放出、雑餉隈のような初めから読めそうもないのはまだ無難な方で、石原(イサ)栗田(クンダ)など普通の読み方をして思わない失策をする例も珍しくない。
(二)宛て字。矢鱈(やたら)、矢庭(やにわ)、真面目(まじめ)、兎角(とかく)、目出度(めでたい)、流石(さすが)、生中(なまなか)の類。矢鱈は矢にも鱈にも何の関係もない事柄であるから、漢字が意味を持って居るのが特長だと言う其特長がない。
(三)普通に使う立派な日本語が書けない。ワカルハイルキマルスケルアルクコナレルムズカシイヤサシイアヤフヤスグニシルシなどは、いずれも、高貴な方の前で云っても差支ない立派な日本語であると思うが、それを書こうとすると、書けない。ワカル分るとも判るとも書くが、何れも多少無理である。「学校へハイル」は「学校へ這入る」とは書かれまい。極るキワマルであり、定まるサダマルであるから、キマルと書こうとするときに困る。スケル(「書いてスケル」「持ってスケル」などの)を助けると書くとタスケルだからいけない。シルシは多く印の字を書くが、これはインで意味から云っても適切でない。上に出した字には皆このような困難があるが、他にも沢山同様な例がある。
(四)読み誤られる。メグリと書こうと思うとき周りと書くと、マワリ又はグルリと読まれる虞がある。コマイと読んでもらう積もりで細いと書くとホソイと読まれる。止メルトメルヤメルか分らない。弾いてヒイテともハジイテとも読める。側(ソバかガワか)、調へる(トヽノエルシラベルか)、急く(イソグセクか)、上る(ノボル、アガル、タテマツル)、下る(クダルサガル)、断って(タッテコトワッテ)、後(ノチ、ウシロ、アト)、限(ギリカギリ)など皆同様な例である。
(五)書き分けねばならない。ミルと云う日本語を書くのに、見覧観看などいろいろあり、キクに聞聴なぞいくつもある。此等の書き分けが中々むずかしい。

これ等が主なものであろう。
 此等の例は稀に出て来る除外例であるから、それで全体を論ずるのは不当だと云う人もあろうが、深く考えるとそう大雑把には云われない。
 先ず実用上から云えば、(二)の宛て字は、つまらない面倒でも兎に角それで間に合って居るからよいが、(一)(三)(四)などは実地の差支を生ずる容易ならない問題であるから、も少し立入って考えよう。
 (一)に就て注意すべきことがある。同じ漢字でも、支那語に於ける漢字は、それの読み方がきまって居る為に、書いてあるのを読むことが出来るから、字の用を達して居ると云える。然るに日本語に於ける漢字は、読み方がきまって居ない為に、書いてあるものを語(コトバ)に直すことが出来ないから字の用を達して居ないと云わねばならない。友人の旅行先の地名が漢字では分かって居りながら、読み方が分らない為に、急用があっても電報が出せなかったり、電報配達夫が「東海林」という門札を見ながら「ショージという受取人は肩書きの番地に住んで居ない」と云って差出人ヘ電報を戻したりすることは、この「字の用を達して居ない」ことの動かせない現実の証拠である。
 (三)に就いては、人によっては、漢字で書けない語は仮名で書けばよいと云うが、一体、名詞、動詞、形容詞等の要用な語には漢字を使うのが例であるから、ぞんざいな文章ならば知らぬこと、謹んで書くべき文章には、ワカルハイルコナレルなどと仮名では書けない。勢、了解するとか入るとか入学するとか消化するとか云う語にかえて書くことになる。正当なよい日本語を避けねばならない書き方が日本語の正当な書き方だということは、どうしても云えないことである。
 (四)で、メグリグルリホソイコマイトマルヤメル等は日本語では確に各二つづゝの全く異なる語であるのに、それを表わす支那の語が周、細、止各一つであるばっかりで、日本語の書き方の区別が出来ないのである。主客転倒と云おうか何と云うか奇怪なことである。(ホソイの支那語は繊であって細ではないそうであるが、こゝでは日本語に於ける使い方に従って論ずる)。
 (五)の聞く聴くなどの書き分けは、人によっては、「漢字の為に意味を区別して使うから、日本語が進歩したのだ」と云う。これは丸で見当違いなことである。日本語は(字を幾通りにかえても)キクならキク一つである、只それに対する支那の語が用途によって二つの場合を区別するだけのこと。支那の語では、それが丸で違う語であるから字も違うのが当然であるが、日本語は一つであるから一つにするのが当然である。無論支那の語のどちらに当るかを示して置くだけ意味の区別が出来て居るから、只キク一つよりは意味が精密であるが、それは日本語以外のことで示された区別で、日本語を書くという点ではいらないことである。
 つまり、吾々は漢字を使うために、正当な日本語を使うことを控えたり、異なる日本語の書き分けをなし得なかったりして居るのに、他方に於ては、一つの日本語を種々に書き分けるなどと云う無用な苦労をして居る。

 一歩進んで、此等の変なことは何から生じているか、それは何を意味するかに遡って考えたい。
 一体、漢字は支那の字であると同時に支那の語である、即ち意味のある語である。それ故に、例えばヒトと云う日本語を人と書き、又それをヒトと読むのは、ヒトに対する支那の語と字を捜し出して人と書き、又支那の人の字に対する日本語ヒトを捜してヒトと読むのである。即ち書くときに支那語に翻訳して書き(支那通りの読み方まではしないまでも)、読むときは再び日本語に翻訳して読むと云う手続きをして居るのである。かく二重の翻訳をするから、種々の場合が起って来る。
 (イ)日本語に相当する支那語が只一つあり、其支那語に相当する日本語が只一つあると云う場合には論がないが、其他の場合には差支の起るのは止むを得ない。即ち
 (ロ)丁度日本語に相当する支那語がない場合には書きようがない(上の(二)及び(三)の場合がそれ)。
 (ハ)それが二つあるときには、支那語でそれ等のうちどれを使う場合に当って居るかに従って、(日本語が一つであるに拘らず)書き分けをせねばならない(上の(五)の場合がそれ)。
 (ニ)其支那語に対する日本語が二つ以上あるときは読み方が分らない、止をトメルともヤメルとも云うように(上の(四)の場合がそれ)。
 それに漢字を昔の支那の音のまゝに読むことを許すから、(イ)の最も簡単な場合も音で読むか訓で読むかでつまり(ニ)の場合になり、又此等の場合がいろいろ組合った複雑な場合も出て来る。
 要するに、上のようないろいろな不都合な場合のあるのは、偶然な事情によるのではなくて、支那人の語を通して二重の翻訳をして書き読みして居ると云う事情から当然起るべきことである。
 こう云うわけで、日本人は自分の語を読み書きするのに、一々一旦(昔の)支那人の語に反訳して書き、次に再び自国語に反訳して読むと云う手数をして居るので、書く漢字は、最初の反訳をした時の形であるから、それは支那の語を書いたものでこそあれ、日本語を書いたものではない。従って、漢字は日本語の書き方として甚だ不自然なものであって、日本語と離るべからざるものでも何でもない。寧ろ音文字で日本語をその侭書く方が、遥に、日本語を書くという目的に協って入る。

注意。こゝに論ずるのは、日本語の中に漢語を使うのがよいとか悪いとかという問題とは全く別問題である。漢語の原(もと)は漢字であっても、耳に聞いてわかる程度の漢語は使ってかまわないし、且つそれは音文字で書いてわかるはずである、(聞いてわからないような漢語は、日本語として問題である、このことは第五章のニで詳しく論ずる)。
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三、日本人の思想徳義心と漢字との関係

 日本人の忠義孝行其他の思想が、忠とか孝とか云う漢字で養成されるから、漢字を使わないことにするのは道徳思想を危うくするものだと云う人がある。若しそういうことが事実であるならば、これは国字問題に取って重大な関係を持つものだと云わねばならない。
 しかし、こういうことを云うのは大抵昔の漢学を主にして育った人や昔風の漢学専門家であって、比較的に若い人の間では――思想の健全著実な人の間でも――其ような考は殆どなくなって居るという事実から見ても、これは一種の捕われた考であることが推測される。私の考では、此等の語が吾々に其の意味を感じさせるものは、目に映ずる漢字の形ではなくて、其の音即ちひゞきである。若しそれが漢字の形だというならば、漢字を見ることの滅多にない下層の人や、特に盲人には、此等の思想が丸でないか、あっても非常に弱い筈であるが、事実上決してそうではない。学問をした上流の人に却って種々の忌むべき犯罪者があるのに、下層の人は比較的に純粋無垢な徳義心を持って居る。盲人にも思想徳義心の立派な学者があったばかりではない、一般の盲人について見ても「盲人は平均して徳義心が薄い」ということはない(盲人が一般に教育を受ける機会が少いことや、周囲との交渉に於て不利益な事情にあることを考えると、むしろ漢字に煩わされないだけに徳義心が養われ易いのだと云えるらしく思われる)。又、講釈師の講談の赤穂義士伝などゝいうものが忠義孝行の感じを与えることは決して一通りの道徳の書物の及ぶものではないが、其講釈師は決して漢字を書いて見せはしない。此一事などは上に述べたことの最も明な十分な証拠だと思うが、も一つ他に、漢字を見てそれと吾々が感ずるのは、其形から直接に感ずるのでなくて、一度口か頭かの中でそれを読んで、その読み声から感ずるのだという実証がある。南北朝の歴史を読んで居る中学生徒などが直義とあるのを見て、これをチョクギと云う意味の有難い語だと感ずる人は恐らくあるまい、これを見ると直にタヾヨシと云う奸傑が頭に浮んで来る。秀吉という字を見て、ヒデヨシだと思えばこそ太閤らしい感じがするが、ヒデキチと思って見ると平凡な人間の気がして太閤の感じはちっとも出て来ない。これ等は誰でも経験する実際上の事実だと思う。
 これで見ると、漢字が其形によって道徳的其他の感じを直接に与えるものだと云うことは、漢字の買被りで、実は人がそれを読んで一定の音にしてから感ずるのである。
 それ故に、漢字を日用文字外に放逐しても、それが示して来た徳義上の観念等は更に変るものではない。否、却って現在は漢字を見て判読(チョクギタダヨシか、ヒデヨシヒデキチかを判読)の後に漸く其語の与える感じを生じて居るのが、ローマ字になれば判読の手数なく、誤なく其語の与える感じを生ずるだけ一段の進歩をするわけである。(尤も、それにはローマ字を読みなれることが必要であるが)

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四、漢字漢文が簡潔崇高荘重だということ

 漢文を読み慣れて居る人の中には、漢文が簡潔崇高荘重と云うような性質を持って居ると云って大変それを珍重する人がある。そして仮名やローマ字ではそのような文章が書けない点から、国語の書き方としてそれ等が不十分なものであると思うようであるから、ここにそれについて私の考えることを述べたい。
 此点については、第一に、漢文は本来外国文であって、日本文ではないことを注意せねばならない。従て又、漢文を仮名交りに直したのは外国文の直訳文であると云わねばならない。そんなものは無論正しい日本文であり得るわけはない。漢文口調の仮名交り文は、漢文の直訳文に似せたもので、鵺的なものである。このような文章が簡潔崇高荘重などゝ感ぜられるのは何によるかと云うに、私の考える処では、前項と同様漢字の効能を買被って居ることが一つ、漢文が本来外国文であるから、日本人の中でえらい人にのみ取扱われることが一つ、外国文であるから、それの感じが(話のまゝの日本文のように)直接には来ないで、読む人の想像に助けられて了解されると云うことが一つ、此等三つの事情が主な原因となって、それに尚長い間の習慣が加わって、そういう風に感ぜられて居るのであるらしい。
 漢字の効能を買被って居るというのは、例えば「殺身成仁」と云う格言で云えば、漢学者は此漢字の行列を見なければそれらしい感じを生じないと思い込んでいるらしいことを云うのである。我々普通の人間は矢張「身を殺して仁を成す」と読んで始めて其意味を感ずる。読んで格言の意味を感ずるのは、漢字よりも其語、耳に聞く日本語(直訳文)に感じの原因があることの証拠である。格言に限らず議論文でも叙事文でも、漢文は読んでそれを面白いと感ずるのが事実だと思われるから、面白いと思わせる正味は語にあって字にない。語にあるならば、それをローマ字で書いても差支はないわけである。尤も、今すぐローマ字に写しては、多くの人はローマ字に慣れない結果、読むのに骨が折れ、読み返さねばならないと云う点から、感じの起り方が鈍いという弱点があるのは止むを得ない。併しこれは慣れないことの結果で、音が主である以上は、漢字の形が肝心なものでないことは争われない。
 このように、通常漢文の長所と思われて居る性質の源(ミナモト)は漢字にあるのではないに拘らず、此性質を発揮している文句には、云って分ると云う性質に乏しいのが多い、特に簡潔な文句には言って分らないのが多い、即ちいわゆる簡潔な文句は、日本語としては簡潔過ぎるのが普通である。言って分らないものは日本語として不適当な文句であるが、これも実は、元来漢文は外国文であるのだから、寧ろ当然なことである。
 そこで、問題は、このように日本語として不適当な半外国語を、それの長所と思われる特殊な性質の為に日本語に使うことが果して正当なことであるかと云う点になる。
 一体、漢文が荘重だなどゝ云うが、それを本家本元の(今又は昔の)支那人に云わせれば日常の語である。外国人の日常語を荘重だの何のと云って有難がって居るのだと思えば、甚だ可笑な次第である。これは本来は荘重でも何でもない平凡極まるものであっても、日本へ来れば学者の間にのみ行われて居たと云う点と、それが外国語だけに、直接に其侭感得されない処から、霞のかゝったものが奇麗に見えると同様な事情とで、高尚なものになってしまったのではあるまいか。平凡な英国人又は独逸人でも、日本へ来ると、立派な英学者独逸学者よりも英語独逸語を上手に話すからえらい人になってしまう(此頃ではこういうことも大分少くなって居るようではあるが)と同じ気味合があるのではあるまいか。それの平凡さが(交通の不便であった昔は今より尚一層)感ぜられ悪いから、想像も手伝って、えらいもの面白いものになってしまうと云うことは実際の事情に当って居るらしく思われる。
 英語や独逸語でも、半可通の間には、却ってそれが余程の特殊の面白味を持って居るように思われる傾があると思うが、漢文の面白味有難味もつまりそれと同様のものではあるまいか。例えば川の流れる貌を洋々と云ったり、山の聳えて居るのを峩々と云ったりするのは、何れも日本人の話に使わない語であるから、全く支那人の語である。それを仮名交り文の中に書くのは、英語や独逸語を入れるのと差はない。それを面白い形容詞のように思うのは、つまりよく分らない英語や独逸語を入れて得意がって居るのと同じ性質のことであると云って差支はあるまい。
 要するに、漢文が一般に崇高とか荘重とか思われると云うことは、漢文の本来の性質にあるのではない、日本に渡ってからの事情によって表面に付いた性質と思われる。元来平凡なものが意味深長なものになったり、平気で云うことが荘重崇高に聞えたりする、それの主な原因は外国語だという点で、それにそれを教える日本の学者の気分が色取りを与えたのであろう。
 このように、漢文漢語の荘重とか崇高とかいうことが正味の性質でないと云うことは、心ある人には段々分って来て居ると思う。以前は話の中に漢語を多く交ぜて使うとえらそうに見えることを有難がって居る人が多かったが、今ではこれは田舎の半可通に多くなって、物の分った人には少くなって来たのは喜ぶべきである。文章の方面では、今まだ話の方ほど開けては居ないが、併しこれもいずれは話の方と同じ道筋を通って行くべきは明かであって、今多くの人が、漢語が文章を荘重にするなどと考えて居ることは、やがて半可通の使う漢語と同様、笑うべきことゝ一般に感ぜられるようになるに相違ない。仮令現在は漢文口調が荘重の感じを人に与えて居るとしても、それの原因が右のようなもので、正味のないものだとすれば、この金箔はやがて剥げるにきまって居る。そう云う金箔的のものを後生大事にして居ては、日本語の発達も何もあったものではない。
 このように考えれば、このような半外国語の便宜を図って、国字問題を加減する必要は更にない。我々は鵺的な漢文口調の金箔的の面白味などにだまされないで、どこまでも真の日本語を主として発達を図ることが肝要である。
 吾々日本人には、口で云う侭の日本語が真の言表し方で、其他のものはつまりはだめだと云うことは、少くとも私の経験では、手紙の文句でも分ると思う。一体吾々は候文体で手紙を書くにきまって居るように教えられて来たのであるが、談話体で手紙を書きつけてから、候文を書こうとすると、どうしても本当の感じが手紙に写らない、表面を飾った偽りの文句のようにしか感ぜられない。
 普通の文章に於ける漢文口調もこれと理窟がちがうわけはない。漢文口調に没頭して居る間は、それが当り前で、それでなければいけないようにも感ぜられようが、一歩それから出て真の日本語の直接に与える本当の感じを知るに至れば、必ずや漢文口調なるものが、日本語としては、うわべをこしらえた偽りのものであると云うことを感ぜずには居られない。一旦こう云うことに気がつけば、上にも述べたように、荘重崇厳と思って居たことも寧ろ滑稽に感ぜられるようになるのは蓋し自然の勢である。

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五、国字問題の意味と古典の取扱い方

 我国の古典的文学書が漢字で書いてあることに対して国字問題はどういう見方をするかということも大切な問題である。
 我々が茲に国字問題と称えて漢字を止めてローマ字を使おうと云うのは、日用文字として漢字を廃しローマ字を使うと云うだけで、漢字を日本国中から皆葬ってしまおうと云うのではない。こんなことはしようとしても出来ないことであり、又望ましい事でもない。
 ローマ字が十分に行われるに至った後の最終の状態に就いて云えば、日本の古典的文学のうちに二つの成分があると見ることが出来る。一つは昔からのものを其侭にして置かなくてはいけない部分で、これは専門家の研究すべき部分である。一つは其れの内容が肝要で形には左程関係しない部分で、一般の教育に大切なのは此部分であると思う。此後の方は、どんな時代になっても、其時の国語即ち日本人が口で云う語で伝えられ得る筈のものに相違ない(若し伝えられないと云うならば、それが出来るように国語を発達させねばならない)、口で云う語で伝えられ得る内容ならば必ずやローマ字でも差支ないわけであるから、この方はローマ字に書き換えて差支なく行く筈である。其故に、ローマ字文の発達した最終状態に於ても、漢字漢学は専門家の間に研究されて居る、只一般の人は漢字漢学を必要としなくなる。
 併し書き換えを必要とする古典的の文学を悉くローマ字に直すことは容易なことではない。現在日本語が、後に述べるように、漢字のために賊(そこな)われて居るのだから、日本語の漸次の改良と伴なってゞなければ出来ない。段々にそれに近づいて行くより他はない。
 最終の状態になる迄の状態について云えば、ローマ字が日用文字として相応に通ずるようになっても、漢字や漢学は小学校女学校等ではそれぞれ相当な程度まで教えられて居て、漢字で書いた書物が矢張り読めるように教えられるわけである。
 漢字漢学を教える位ならば、現在よりも教育上の経済にはなるまい、短い時間に一通り分るようになるには負担が却って大変だろうと云う心配もあるだろうが、それは目的及び程度が現在の状態と丸でちがうのである。
 現在では漢字が日用文字であるから、それを正しく使い分け読み分けることは日常の生活に必要であるので、それに差支ない程度までそれを習うことが甚困難なのである。日用文字がローマ字であれば、漢字は日常生活には直接関係のないものになって、只一つの学科として習うだけになる、即ち現在中学辺で大多数の学生が英語を習うようなもので、漢字の字引や参考書と首引をしでゞも、どうかこうか読める程度でよい。自分で正しく書き得る程のものにならなくて差支ないのである。それと、独りで自由自在に而も正しくこれが書けるまでになるのとは学習上の負担の程度が丸でちがう。
 此辺の関係は、現在の(返り点のつく)漢文の状態を考えても見当がつく。昔は学問の主な部分が漢文で、読む稽古も書く稽古も共に漢文であったが、今の学生は一般に読む方だけを課せられて書く方は必要と認められて居ない。そして、日常生活では返り点で読む漢文の必要は殆どなくなり、同時に昔の漢文の書が仮名交りに直って出版され、従って学生の読む方の稽古も段々必要がない様になって居る。これと同じことが、此次には漢字に就て起るに相違ない。即ち今は漢字が読め且つ正しく書けるように教えられて居るが、此次には漢字が読めるだけでよい、正しく書く必要がないことになり、それと同時に日常生活には漢字の必要は段々少くなり、昔の漢字の書が段々ローマ字に直って出版され、従って読む方の漢字の稽古も段々必要が減って来るに相違ない。そして、このように漢字を正しく書くことの学習が不必要と認められてから後の漢字の学習が今日に較べて学生の負担上丸で比較にならないことは、現在に於ける中学生の漢学の程度と、正しく漢文の書ける人(今では専門家)の漢学程度との比較にならないと同じことである。
 要するに、世の中がローマ字の世の中になっても、古典的の文学は専門家の手に於て永久に保存研究される。保存されて居るから、専門家でなくても、己の修養又は娯楽の為にそれを研究しようと云う人には差支ない。そして一般の人にも、相当に長い年月の間は中学校や小学校の上級で今迄よりも少い程度に教えられる。これで、古の文学歴史との連絡の断たれるというような心配は更にない。
 啻に心配がないのみならず、ローマ字は却って漢学の発達を助けると考えるべき理由がある。近来漢字の書き方読み方使い方が純粋な漢学から見れば大分乱れて来て居るようであるが、漢字が日用文字である上は、現在の使い方が標準だと云わねばならないから、初めは誤りであっても、其誤ったのが一般的になると、其誤ったのが却って標準になるのも致し方がない。併しこれは、漢学という側から見れば、決して喜ぶべきことではあるまい。このように、昔からの正しい書き方使い方と今の書き方と衝突するようなことの出来て来るのは、漢字が日用文字であるから起こって来るので、漢字から日用文字と云う役目を免じて、漢字は漢学専門の字にすればこんな困難はなくなる。この意味に於て、ローマ字採用は却って古典的漢学の健全な発達を助けるものだと云うことが出来る。

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六、此の章の要領

 要するに、吾々日本人は漢字を日用の文字として居るために、他の国民に比して教育上其他に驚くべき不利益を蒙って居るので、吾々はこれを改善する方法を講じなければならない。それには漢字を止めるのが第一必要であるが、それが許されるかどうかを調べて見るに、日本語の性質から研究すると、漢字は寧ろ日本語に不適当な文字であることが知れる。又漢字に関係して日本人の生活に重要なる関係を持つらしいいろいろな方面を研究すると、漢字を是非引続き国字として使わねばならないという事情は一つもない。
 それ故に、日用の文字として漢字を止(や)めて音文字を使うがよいということは、もはや疑うべき余地のないきまった問題である。

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第二章 漢字制限の批評

 漢字制限は、文部省の臨時国語調査会で評議したのを初めとして、有力な新聞社でも採用している方法で、所謂常用漢字二千字乃至三千字位を定め、それ以外の漢字を使わないと定める方法である。そして、それ以外の漢字を使いたいときには、漢字の代わりに仮名を使うことにしてある。
 この方法について先ず問題になるのは、世間の凡ての人が常用漢字以外の字を使わないですますことが出来るかの問題である。狐と猿は漢字で書くけれども、狸と猪はタヌキ、イノシシと書かねばならないと云う種類のことは、新聞社の活版部で活字を備えて置かないのでそれより外に仕方がないというような場合の外、出来そうにも思えない。特に文芸物などでは、そのような不揃いな書き方をしては書く人も読む人も満足しそうに思われない。況や、人の姓名などでは必ずしも常用漢字だけに制限しないという特例を設けるとすれば、制限外の字もつまり人が学び且つ書かなければならないことになる(若し姓名も、常用漢字以外は仮名で書けと云うのならば、人の差別待遇を云うことでむずかしい問題になりそうである)。

 
要するに、漢字制限の方法は、余りにも無理な方法で、無理を通し得る場合の外、一般向には行われる望みの甚少い方法であると云わねばならない。
 仮にそれが注文通りに行われるとしたところで、どれだけの効能があるか。新聞社などでは植字部が大に手狭で済むことになって歓迎されるに相違ないが、
 (一)小学校児童の負担――例えば外国の児童に比べて余計な骨折をして、六分の一のことしか学ばないというようなこと――に関しては少しも軽減される点がない。現在でも国定読本に使われる漢字は制限漢字と同程度のものであるから。
 (ニ)漢字が字の用をして居ないと云った点、即ち書いたものを見ても確に読めないことが多くて、読めると思う場合も、実は前後の連絡によって何を読むかを判定する(この判定の能力を養う為の無益な骨折の莫大なことも忘れてはならない)ことによって辛うじて読めるのであって、字そのものだけで確に読めるのは殆ど一つもないという点は、漢字制限によって益悪くこそなれ、救われはしないのである。何故悪くなるかと云うに、制限によって取入れられた字は、「字を習う労を成るべく有効にする」意味から、応用の広い字、即ち一つの字を習えば、使い途の多くあるものである。これは、丁度こゝに云う点で最も字の資格の欠けている字を選んで使うという方針になって居るのである。人の姓名は制限外に置くなども、姓名は前後の関係で読めない方の場合だから、漢字の工合の悪い場合が残されたことになって居る。
 もともと漢字の不都合なのは、それの字数の多いことも一つだけれども、書いてあることが確に読めないと云う方がより重いのである。漢字制限は、その軽い方を(それも或程度まで)救うだけのもので、重い方の欠点は寧ろ益ひどくする方法である。
 要するに、漢字制限という方法は、一般的には行われる見込の甚尠いものであり、仮に行われるにしても、国字問題という点から見れば、殆ど価値のない事である。
 しかし、国語問題の為には、漢字制限は二つの点から可なり大きな功績を挙げていると云わねばならない。一つは、漢字交じり文が、むずかしい漢字を列べなくても書けるものだということ、否その方が寧ろよいということ。漢字がむずかしい場合には仮名をあてゝも書けるものだということを世間の人に知らしめたことで、も一つは、漢字を制限すると、自然に成るべく制限漢字で間に合うような即ちやさしい言い方を考え出して書くようになり、又制限外の漢字のはいった語を仮名で書いてよく通じない虞がある場合に、必要上それを音だけで紛れない云い方に書き改めることを研究するようになったことである。特に有力な新聞という勢力によって、こういうことが実際的に行われて居るということは、見逃すことの出来ない大きな功績である。そしてこの国語方面における功績は、間接に吾々の国字問題にも大きな助けになることは認めなければならない。何故かなれば、このように日本語を成るべくやさしい云い方にすること、及び音だけでわかる言い方を求めるということは、下に(第七章の八、第四章のニ)述べる通り、吾々の理想とする国字改良の為にも最も必要な仕事であるからである。

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第四章 ローマ字を国字とすることの利益

一、教育の経済

 前に(第一章の一)述べたような漢字から生ずる日本国民の損は、ローマ字を国字とすることによって完全に救われることは明である。
 吾々が研究して使って居る方式によれば、ローマ字の読み方も書き方も共に極めて簡単な手数で教えられ得るので、小学校中学校等の教科書が皆ローマ字で書かれるとなれば、各科目とも全く内容の学習にだけ力を向けられることになることは諸外国に於けると同じことである。現在教えられて居る位の教材なれば小学校の課程は四ケ年位で済むだろうと云うのが故澤柳博士などの称えることで会って、日本全国みなこのようになったとしたら、金額にして一年二億円位の節約になるだろうということである。
 併し、ローマ字の与える主な利益は金の節約ではない。もっと大事なことは人間の発達盛りの時期を学校生活から解放して実業なり労働なりに従事させることにある。学問でいえば昔からの大発見大発明は多く二十台の時に芽ざして居るという事実に照らして見ると、日本の教育制度、二十五六で漸く大学を卒業するという制度は日本における大発見大発明を半ば封じて居る制度であると云うべきで、此辺に於ける二年又は三年の学校生活の短縮は日本の学問界に於て想像外の大きな発展を生ずるに相違ない。学問以外の方面でも同様であろうことは云うまでもない。
 尤も、このように改良された状態になって始めて日本が他の開けた国々と同じ状態に達するので、決して外国以上に出るのではない。これを思っても現在の状態で吾々が如何に大きなハンヂカップを持たされて居るかということを知らなければならない。

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ニ、日本語の正常な発達

 日本語には私立と市立、健康と権衡というように音が同じで意味の丸で異なる語が多い。漢字で書いてこそ区別が出来るが、ローマ字で書いては区別が付かないから、意味が分らなくなるという批評はよく聞くことである。これは現在の処事実それに相違ない。併し、このような語をローマ字で書いて分らないということは、果してローマ字fが悪いからであろうかと考えて見ると、もっと深い処に此ような差支の起こる原因があることを発見するのである。
 私立市立健康権衡の類の不判明なことは、ローマ字で書いたのを見る時に限らず、話や演説でも常に吾々の経験してこまっていることである。一体、日本語と云えば日本人の言語という意味であるから、話しや演説は日本語の本体だと云うことに誰も異議はあるまい。其話しや演説には漢字もローマ字もない。このように、漢字ローマ字の区別と全く無関係な、日本語の本体とすべき処に、既に右に云う不判明と云う性質が存在して居るのである。然らば、右の不判明なことはローマ字の罪ではなくて、日本語其物の欠点であることは疑われない。
 然らば、どうしてこのような不完全な性質を日本語が持つようになったかと云えば、漢字で書けば分るからである。即ち従であるべき字の為に主である語が制せられて、語として不完全なものが行われるようになったものである。語を重く見るならば、私立市立のように誤を起し易いが行われる筈がない。
 こう考えると、ローマ字で書いた市立私立の紛らわしさの責任は、ローマ字になくて却って漢字にあること、漢字が日本語を賊って居ることが分る。
 併し、責任論はそれにして、そういう語が実際あるのはどうすると云う懸念があるが、根本の処が右のように分りさえすれば、それに処する道は明である。
 永久な生命を持って居る日本国民は、一時の行懸りの為に不完全なものを保存して居るべきではない、吾々はこのような不完全な語を淘汰して行かねばならない。併しそれの淘汰は今の通り漢字を使って居ては到底出来ない。否漢字を使っていれば此類が益々ふえるばかりである。此淘汰をするのに最も有効な方法はローマ字を使うにある。即ちローマ字で書けば意味が不判明になる(即ち語の不完全な点が顕れて来る)から、それの差支なくなるように言い方を改めて行くことが自然の勢で、これがやがて日本語の改良を意味するのである。言い換えれば、ローマ字を使うことは日本語の健全な発達を促すものである。
 実際この問題(国語の整理)は、吾々ローマ字仲間が「ことば直し」という名前で断えず研究実行して居る問題で、今迄にも相当の成績を挙げて居るのである。


 日本語の正当な発達ということは、同音意義の語のみではない。前に(第一章のニ)述べたこと、ハイルワケルコナレルの類の語を書き度い時にも適当な漢字がない為にそれを他の語に取り換えて書くという現在のやり方は、日本語の素直な表わし方であり得ないのは云うまでもない。ローマ字で書けば、こういう語を書くにも何の差支もないから、思う通りに自由に書ける。即ちローマ字を使うことによって、素直なよい日本語が制限を受けずに使われる。これは吾々ローマ字仲間が文章を書くときに最も気持よく感ずることの一つであると同時に、日本語の正当な発達として相当重要な意味を持って居る事柄である。

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三、書き物及び印刷に関する便益

 ローマ字は、教育を経済的にすると同じ理由で、文字の実用を経済にする。漢字其者が書くのに暇のかゝるもので、ローマ字の方が遥かに手早いということは学校で講義を筆記する学生の経験談である。のみならず、我々が日常漢字を使うときに知って居る筈の漢字の書き方を思い出せなくて、これを思い出すのに、いくら時間や手数をむだにするか知れない。
 特に商売上などでは、其方の実際家の談によると、ローマ字であればタイプライターと一人の技術者を使って、同時に必要だけの写しを作りつゝ、口授すると同じ程の早さで、いくらも往復の書付けを作ることが出来るが、漢字ではこれが出来ない。漢字でこれをしようとすれば数名の書記を使って而も敏捷には行かないと云うことである。軍事上でも同じことで、今のように戦争が大仕掛になると各部局間の敏捷な通信が非常に大切なことであるのに、現在の漢字を書く仕組になって居ては到底勝味がないと云わねばならない。
 印刷の方では、漢字であれば、字の種類が多いから活字を非常に多く用意しなければ小さい印刷物でも組むことが出来ない。相当に大きな設備をして置いても、同じ漢字が多く出て来る印刷物を組もうとすると其字が足りなくなって、新たに活字を鋳造するまで印刷が進行できない。ローマ字であれば、字の種類が少いから、小さい室に備えるだけの活字で相当な印刷物を組むことが出来る上に、同じ語が沢山出て来ても、或活字が使い尽されるということは滅多にない。これは活字だけの比較であるが、それを組む手数に於ても漢字は広い場所から集めて来ることが必要なのに、ローマ字なれば、一ケ所に立ったまゝで仕事が出来る。
 又、ローマ字であれば、ライノタイプなどゝいう便利な器械があって、漢字なれば数名の職工が長くかゝって活字を集めてくる仕事所謂「文選」と、これを列べる「植字」の手数を、一時に、只ポッチを押すだけの手数でするから、印刷が人手が少くて其上甚だ敏活に出来る。この芸当は漢字では夢にも見る事が出来ない。モノタイプという器械は、漢字にも出来て居るが、字数の関係から便利さの程度が大にちがうのは止むを得ない。
 タイプライター、ライノタイプの類でもっと便利な器械は、此後も西洋でいくらでも出来るに相違ないが、日本で漢字を使って居る間はいつも日本人は指をくわえて引込んで居ねばならない。こんな器械が一つ出来るごとに我々は他国人に比較して一段づゝ不利益な地位に押下げられるわけである。

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四、印刷物の面積に関すること

 同じ文句を印刷するのに、漢字交りとローマ字とで使われる面積の関係はどうであるかは、大変面白い問題であるが、これは一寸考えるほど簡単な問題ではない。なぜかなれば、これは、漢字交りなりローマ字なりにどういう活字を使うか、どういう組み方にするかによってどうにでもなる問題だからである。例えば漢字仮名もローマ字も同じ五号活字なり五号活字で組んで、同じ行間のこめ物を挿んで組むとすれば、

同じ文句を印刷するのに、漢字仮名交りとロー
Onazi Monku wo insatusuru no ni, Kan
上に書いてあるように、ローマ字の方が場所を多く取るにきまって居る。併し同じ号数ということが比較すべき正当な組み方だと云う理由は別にないから、何か正当な比較の方針を定めなければならない。
 同じ文句を同じく漢字交りで組むとして、大きな活字で粗く組むのと小さい活字で細かに組むのとでちがうのは、読み易さのちがいである。それ故に、漢字交りとローマ字とを比較するにしても、読み易さの等しいものを比較するのでなければ意味をなさない。それで、つまり問題は、読み易さの等しい漢字交りとローマ字との組み方はどれかということになる。
私は、読み易さの等しい印刷物の材料として次のような三四類を取った。
(一)多く読まれる日本の新聞紙と英米辺の新聞紙の組み方。
(ニ)日本と西洋に於ける普通の小説類の組み方。
(三)日本の小説の縮刷本と西洋の小説の普及版。
(四)日本の文部省で規定してある中等学校で使う教科書の組み方に従う漢字交りと英文の組み方。

 これ等の二つ一組づゝの印刷し方を取り、それによって印刷してある仮名交り文一頁なら一頁の面積と、同じ文句をローマ字文に直して、その仮名交りの組み方と比較さるべき外国語の組み方と同じ組み方にした時にそのローマ字文が取るべき面積を較べて見たのである。そうすると、
 ローマ字文が取る面積は、同じ文句を同じ読み易さの漢字交りで印刷した面積に比較すると七割乃至八割の面積で足りる
という著しい結果になるのである。
 これは書籍の価、製紙原料の経済、其他いろいろな点に関係して、ローマ字によって得られる大きな利益を意味するものであることは云うまでもない。

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五、郵便電信商売品に関すること

 普通教育でローマ字を習って居れば、それが世界の文明国に共通な字である御蔭として、これ等文明国のどこへでも郵便物の往復が自由である。勿論日本語のみを知って居て、日本語を知らない他国人と勝手に手紙の往復が出来ると云うのではないし、又或外国の地名などの正しい読み方が分ると云うのでもないが、外国に行って居る親類知人から、其宛名を書いてよこしてくれゝば、その通りの綴りを書いて、其親類知人に手紙を出すことが出来る。又電報でもローマ字であればそのまゝ(日本文のまゝ)外国へ出せる。これは今日のようには西洋へ往復する人の多い場合、随分多数の日本人に起る要用な問題で、而も今日の処、ローマ字も外国語も知らない大多数の日本人が直接不便を感じて居ることである。
 商品にしても同じことで、外国から来た品物が日本にも沢山あるのであるが、それに書いてある文句や商標などの意味や読み方を正しく習うということは簡単には出来ないにしても、書いてある字の認めがつくだけで品物を取違えないだけの効能は確に得られる。又こちらで作る商品にしても同じことで、現在では、内地向きの品物と外国向きの品物と、名前や商標を別々にして居るが、日本でローマ字が国字になって居れば、日本で売る品物が其侭外国へ出されるわけで、凡てが簡単で便利で、且つ世界発展の可能性を備えて居ることになる。

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六、日本語の世界的発展

 これは第三章の五、仮名との比較の処でも述べたことであるが、尚次のことも注意すべきである。
 どんな国民でも、世界に重要な位置を占めるようになれば、それの国語が世界に知られるようになり、又国語が世界各所に知られるようになれば、その国民の発展が益ゝ盛になるのは云うまでもない。この点から見て、日本語が外国人に学ばれ易いと否とが、吾々日本人の世界的発展のために大きな影響を生ずることは明である。
 一体、日本語そのものは外国人にも容易に学ばれるのである。併し、現在の書き方、即ち漢字交り書き方まで学ばねば新聞雑誌その他一般の書き物が読めないのだから、そこまで学ぼうとなると、その困難は一通りや二通りではない。吾々日本人でさえ、上に述べた通りこの書き方の学習には手こずって居るのであるから、他国人にはその困難は殆ど越えられないものゝようであることは察せられる。尤も、多数の外国人の中には、日本人同様、又は多数の日本人よりもよく漢字交り文を書きこなし読みこなせる人もあるけれども、そういう例が少し位あったところで、外国人一般に関する上の断定に間違はない。現に日本に居る外国人で、話では日本語の分る人は決して少くないが、新聞雑誌の読める人は極めて少いと思われる。
 若し日本語の日用文字がローマ字であったら、話の日本語と書いた日本語とが同じものになるから、――勿論問題次第で日常の会話とは大にちがう語も出て来るだろうけれども、とにかく言う語が分れば書いたものも分るには相違ない、――外国人が日本語を習って習い甲斐がある、従って今までは「話だけ分っても仕方がない」と云って日本語を学ぼうとしなかった人までも、それを習うようになることは明である。又日本に来ない外国人でも、日本語を習って日本の出版物を読むことが左程むずかしくないとなれば、それを習う人が出て来るに相違ない。勿論それには、日本国民がそれだけの価値のあるものでなければならないには相違ないが、現在の日本の世界に於ける地位から見て、そのようになることは疑を容れない。

 
一体、今迄日本人は、外国人に対する場合、いつでも自国語を出すことを恥じるような態度を取って来て居るのは滑稽なほどである。吾々が英国へ行けば誰でも英語を話し、フランスへ行けば誰でもフランス語を話す通りに、日本では外国人も皆日本語を使うのが順当であるべきのに、日本では、日本語の話せる外国人が珍しくて、話せない外国人が――日本は英語国だという気持ちで――普通になって居る。国際会議などでもその通りで、日本人は英語なり仏語で喋舌るのが普通だと思っているようである。先年海軍制限に関するワシントン会議で加藤全権が日本語で意見を述べたと云って大事件らしく騒ぎ立てたが、それさえ自分携帯の翻訳者を通じて意見を述べたのだから、その日本語は正式には認められて居ない形になっている。こういう場合には、当然会議に公な翻訳者がいて、凡ての外国語の演説を日本語訳し、凡ての日本語の演説を外国語訳して会議を進ませるという形になるべきものである。このようにして始めて、日本が会議に於て対等な取扱を受けることになるのである。
 このように、現在のところ、福永海軍少佐の所謂「翻訳は凡てこっち持ち」の状態にあるのは、吾々日本人に取って不利益でもあり不見識でもある次第であるが、これには無論それ相当の原因がある。第一には、日本が今迄世界で重要な地位を占めていなかったゝめに、外国では日本語を持出しても相手にされず、日本に来る外国人は凡て御客様扱にすることになっていたことが主な原因であろう。第二には、今までの日本は、何事も外国から教を受ける立場にいたのと、外国語の教育が一般的になって居る関係から、外国人を大事にする習慣や、日本人自身外国語の出来ないのを恥じるような気持ちのあることなども手伝っていたことであろう。
 原因はとにかくとして、こういう片手落な状態は成るべく早く改めて、正当な状態に持ち直すべきものである。併し、一方から見ると、これは今迄吾々が永い間捨てゝ置いた権利、外国人が慣例によって既得の権利として居る権利の回収を意味するのであるから、なかなか容易には希望通りになり難い問題だと思われる。この点から見て、日本人が世間並以上に、否世間並と丸で比較の出来ないほど複雑な書き方を持って居ることが、非常に大きな障害になるであろうことは、そういう問題が評議されるのを待たなくても知れ切ったことである。日本語で書いたものが外国人に容易に学ばれ、実際日本語の読み書きをする外国人が世界に珍しくないほどになっていれば、上のような権利回収を持出しても多少の見込が立つであろうと思われる。さもなければ、「翻訳は凡てこっち持ち」という不面目な状態は永久吾々の身から離れないものと思わなければばならない。

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七、他の国民との思想感情の疎通

 世界に於ける日本語という問題は、只上のような形式上の不面目や翻訳の手数引受に止まるものではない。国家国民にとって更に実質上重大な問題を含んで居る。それは現在のように、書いた日本語が極めて少数の人を除いて、外国人に了解されない状態に於ては、日本に於ける新聞雑誌著書に表われる政治経済外交等に関係する意見は、凡て少数の翻訳者の手を経て間接に外国人に知られる。そういうことでは、量に於ても質に於ても、日本人の意見が十分に外国人に通らないのは当然のことである。そして、このように、日本人の意嚮思想が正当に外国に知られないために、国家国民が無益な迷惑を蒙って居ることは、蓋し想像できない程度だろうと思われる。一寸考えて見ても自分の直接知り得る範囲内の事柄なれば、実質以上に気に掛けるということがなくてすむに拘らず、自分が直接に知り得ない範囲には、どんなことがあるかという疑念を以って見るということは自然の勢である。若し、将来日本に於ける一般の新聞雑誌著書がローマ字で書かれ、そのまゝ明っ放しに世界中に読み取られることになったら、諸外国に対する日本の立場がどんなに工合よくなるか、想像以上のものがあるであろうと思う。
 最近のように、世界の国際的関係が密になって、軍隊以外で国家の運命の定められる時勢には、国民の意嚮思想が直接に外国人に知れることが極めて重要な意味を持つものであることを忘れてはならない。
 又新聞雑誌書籍に限らず、看板のようなものでも、私生活に於ける書類でも、丸で違う字、而も数限りなく色々変った字、とてもわけの分り得ない謎のような字、そういうものを使って居る人は、簡単なローマ字に慣れて居る外国人から見れば、親しみ難い別世界の人のような感じを持つのは蓋し自然の情であろうから、米国に於ける日本人排斥問題の如きも、彼地に於ける、日本人街の漢字仮名の看板、仮名交りの新聞などがどれだけの原因をなして居るか蓋し想像以上のものがあろうと思う。ローマ字であれば、外国人は仮令其語は分らなくても、学べば学ばれ得る、手近なものゝような感じがするから、そう云う字を使って居る日本人団に対しても親しみ難い別世界の人のような感じはすまいと思う。即ち米国に居る具眼者の云うように、日米間の難問題なども、ローマ字採用によって予想外に融和されるわけのものだろうと思う。

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八、此章の要点

上に述べたことの要点を挙げれば

(一) 日用文字としてローマ字を使うことによって、始めて第一章で述べたような漢字から来る損を救い、教育をもっと有効に且つ経済的にして、吾々が世界に於ける烈しい競争に加って行くことが出来る。
(ニ) ローマ字を日用文字にすれば、日本語の正当健全な発達を期することが出来る。
(三) ローマ字を使うことは日本語の世界的発展を助け、其外一般生活に、軍事に、商業に、印刷に、外交に、直接間接に要用な利益を与える。

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