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「漢字が日本語の話しコトバとしての力を弱めている」とは、どういうことか
ミカノハラ イツオ 
 わたしたちは、漢字がもたらしている災いのひとつとして「日本語の話しコトバとしての力を弱めている」ことを指摘しています。これは、どういうことなのか、ご説明しましょう。
 わたしたちは話をしていて、コトバの意味が取れないことがあります。多いのは、漢語(音読み漢字を組み合わせた熟語=その正体は、中国語系外来語または和製中国語)の場合です。特に漢語の専門用語は耳で聞いたのでは分からないのが普通と言ってもいいほどです。
 次のコトバは、農業で使われるコトバですが、意味が分かるでしょうか。
「かしょく、かんすい、きひ、けいはん、しきそう、じょそう、そさい、てきさい、はしゅ、ほじょう、むかく、ようさい」
農業関係者でもないかぎり、分からないコトバが多いのではないでしょうか。漢字で書けば見当がつくかもしれません。
「仮植、灌水、基肥、畦畔、色相、除霜、蔬菜、摘採、播種、圃場、無核、葉菜」
しかし、字を見なければ分からない、すなわち耳で聞いて分からない、というのは、コトバとして好ましいことなのでしょうか。漢語は字を見れば意味が分かるから便利だ、ということにはなりません。コトバは読み書きするだけではなく、話し聞くものでもあります。耳で聞いて分からないということでは、コトバとして十分な役目を果たしているとは言えません。
 次のように言い替えたらどうでしょうか。
「かりうえ、みずやり、もとごえ、あぜ、いろあい、しもよけ、あおもの、つみとり、たねまき、たはた、たねなし、なっぱ」
これらは、漢語ではありません。耳で聞いて分かる、つまり、書きコトバとしても話しコトバとしても使える本当のコトバです。
 ところが多くの日本(語)人は、漢語こそ立派なコトバだと信じているので、漢語を使いたくなります。「しもよけ/霜よけ」では立派なコトバではないように感じてしまって、「除霜」としたくなるのです。おなじ読み方の「除草」というコトバがあるにもかかわらずです。漢字をふたつ以上組み合わせると、一見、立派なコトバのようなものが簡単にできてしまうので、そういうものが安易に作られてきました。が、その多くは、どういう字で書くのか分からなければ意味を取ることができない、話しことばでは通じない、「コトバもどき」とでもいうべきものです。そして、同音異義語になることも少なくないので、意味の取り違えもおこります。(やまとコトバやカタカナ語=ヨーロッパ語系外来語)にも同音異義語はありますが、おおかた文脈から推しはかることができます。)
 漢字を思い浮かべないと意味が分からない、違う漢字を思い浮かべてしまうとコトバを取り違えてしまう。これは、専門分野においてだけでなく、日常生活でも普通にあることです。
「今、求職しているところです。」
「休職? 体の具合が良くないんですか?」
「いえ、良くなったので求職を始めました。」
「ああ、給食関係のお仕事なんですね。」
「?」
「求職」「休職」などと言わずに「仕事を探している。」「仕事を休んでいる。」と言えばよいわけですが……。このほか、
こうがくを学んでいます。」 工学? 光学?
「これはしあんです。」 試案? 私案?
しりつの中学校に通っています。」 私立? 市立?
ぜんぶんを書いた。」 全文? 前文?
やくさつされたらしい。」 薬殺? 扼殺?
などなど。さらに、音は同じであるのに意味が反対になってしまうものさえあります。「原状、現状」「受賞、授賞」「売価、買価」「排外、拝外」「遍在、偏在」など。
 なぜこうなってしまうか、といいますと、漢字の音がきわめて限られたものであるからです。たとえば「コ」で始まる2拍の漢字の音は「コウ(コー)」「コク」「コツ」「コン」の4つしかありません。ですから、たとえば「コウ(コー)」という音をもつ漢字は、「口工公功巧広甲交仰光向江好考行坑孝抗攻更効幸拘肯侯厚後恒洪狡皇紅虹荒郊香候校格耕耗航貢煌逅降高寇崗康控黄慌港硬絞腔項溝鉱酵稿膠綱興衡鋼糠講購」などなど、あふれかえっています。
 中国語の漢字の音はこのような窮屈なものではありません。日本語では同じ音になってしまっていても、多くの場合、中国語では「工」は「gong」、「光」は「guang」、「好」は「hao」といったように音が異なるので、ちゃんと聞き分けることができます(くわしくは別の項目でご説明します。)。日本語での漢字音が貧しく、耳で聞いて分かるまともなコトバを作れないのは、本来中国語を書き表すために生まれた漢字をまったく音韻体系の異なる日本語に使おうとするからです。日本語で漢字を使うというのが根本的な間違いなのです。
 こんなことでいいのでしょうか。漢字・漢語という日本語に災いをもたらす文字・コトバをありがたがるのをやめ、カナで書いても分かる、耳で聞いても分かる、本当の意味での立派なコトバを使っていくべきではないでしょうか。わたしたちの日本語を書きコトバとしても、話しコトバとしても、表現しやすく分かりやすいコトバに磨きあげていくために。

 (『カナノヒカリ』 961ゴウ 2017)

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