「カナノヒカリ」 913ゴウ (2001ネン アキ)
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日本語をバリアフリーのコトバに (2)
〜視覚障害者をコトバの弱者にしているものは何か〜
キクチ カズヤ
一般に、コトバや 文字に ついて 論じられる とき、視覚障害者や 知的障害者、外国人 などに ついては ほとんど かえりみられる ことが なかったように おもわれます。その ことが 意味する ものは、言語生活に おいて 弱者の 状態に おかれて いる ヒトビトが いる と いう ことに 対する おどろくべき 無関心 では ないでしょうか。その ような ことで いいのでしょうか。
視覚障害者などを 言語生活に おける 弱者に して いる もの。それは 漢字です。漢字が バリア(障壁)と なって、それを つかう ことの 困難な ヒトビトの コミュニケーションを さまたげ、さらには 社会的活動の ウエでも 制約を もたらして いるのです。今回は メの 不自由な ヒトビトが おかれて いる 状況に ついて かんがえて みたいと おもいます。
日本語の 通常の 表記は 漢字カナマジリです。しかし、いうまでも ない ことですが、盲人は 漢字を よむ ことが できません。特に、先天的な 盲人は 漢字 ソノモノを しりません。漢字は 視覚に 依存する 文字で あり、しかも カズの おおい ものですから、盲人が 漢字を ならいおぼえる ことは 不可能です。かれらが つかう ことの できる 文字は、カナに 対応する 点字です。かれらは 漢字 なしで 生活して いるのです。(漢字に 対応する「漢点字」と いう ものも かんがえだされて いますが、特に 中途失明者は 普通の 点字さえ しらない ヒトが おおい と いう ことも あり、おぼえるのに たえがたい 苦労を 必要と する 漢点字が ひろく つかわれるように なるとは かんがえられません。)
ですから、ご承知の ように 盲人への 情報の 提供は おもに 点字の 出版物や、音声に よる サービス、すなわち 録音図書や 対面朗読などに よって おこなわれて います。
ワタシの シリアイに、ボランティアで その シゴトに たずさわって いる ヒトが います。 図書館から 依頼を うけて、図書や 広報紙などを 朗読して テープに ふきこんだり、あるいは 直接 盲人に 朗読して きいて もらって いるの ですが、カノジョは 漢字の ために カキテの いわんと する ことが キキテに つたわらない ことが シバシバ ある と いいます。
カノジョから きいた 実際の 例を あげて みましょう。
字の カキワケ、たとえば、「代える」「替える」「換える」「かえる」「カエる」などに よる 効果は モチロン 音声では つたえられません。しかし、誤解を もたらすような ことは まず ないので、問題とは かんがえない そうです。
問題なのは、ミミで きいただけでは 意味の わからない、たとえば、「騙取」「減容」「机間」と いった コトバです。特に、専門用語では おおく みられます。しかも、こう いう コトバは イマも ふえつづけて います。(最近の 例では、「防汚」)。メの みえる ヒトならば 字の 意味から なんとか 見当を つけるのですが、盲人は そうは いきませんので とても こまります。
もう ヒトツの おおきな 問題は、同音異義語が カズかぎりなく ある ことです。「試案」と「私案」など 文脈に よっても 判断しにくい 同音異議語は、対面朗読では 説明を くわえるように して いるのですが、ウッカリする ことも あるそうです。ある とき、対面朗読で 「首都移転に意義はありません。」(東京都の 主張)と いう 文を よんだ アトに、アイテの 盲人から「東京都は いつから 首都の 移転に 賛成するように なったのですか。」と きかれて ハッと したそうです。その 盲人は「意義」を「異議」と とりちがえて いたのです。カノジョは 充分 注意している ツモリでも 気が つかない ことが ある と いいます。
カノジョは、このような ミミで きいて 理解 できない コトバが つかわれるのは 晴眼者が 盲人への 配慮を まったく して いないからだ と 批難します。その トオリだと おもいます。が、補足を させて もらえば、ミミで きいて わからない コトバや、同音異議語が タクサン できて しまうのは、漢字の 音の トボシサに 原因が あります。漢字 自体に 問題が あるのです。(くわしくは、「カナノヒカリ」1998年 10月号の ワタシの 文章を およみください。)
ここまで のべて きた ことは、点訳の バアイでも まったく 共通する 問題でしょう。なお、朗読や 点訳の 対象に なる ものは カキコトバですが、ハナシコトバでも 視覚に 依存する コトバ つまり 漢字コトバ(漢語)が 盲人に とって バリアに なって いる ことは アキラカでしょう。
さらに、盲人の 社会的活動の 観点から 指摘して おかなければ ならない ことが あります。それは、漢字の ために 盲人は 職業など 活動の 範囲が なおさら せばめられて いる ことです。かつて、カナ・タイプライターと いう ものが あり、これは 盲人が たやすく もちいる ことの できる ものでした。しかし、現在の 漢字を つかう コンピューターは、障害者が あつかいやすいように する クフウは こころみられて いるものの、カナだけを つかう 機器に くらべ 盲人には はるかに つかいづらい ものです。
もう ヒトツ わすれて ならない ことは、晴眼者の 漢字への 礼賛が 盲人に カタミの せまい オモイを させて いる ことです。漢字が 日本の 文化 ソノモノで あるかの ように いう ヒトが すくなく ありませんが、かれらは その ことに よって 盲人を いかに キズつけて いるか 意識して いないでしょう。イッタイ 漢字を つかう ことの できない 盲人は 日本の 文化の ニナイテの 一員では ないのでしょうか。実際、ワタシは ある 盲人から、漢字を しらない ことを とても はずかしく おもって いる と 告白された ことが あります。しかし、はじなければ ならないのは、盲人に このような オモイを させて いることに カンガエの およばない ヒトビトでは ないでしょうか。
盲人が たとえば 美術を たのしむ ことが できないのは やむをえない ことでしょう。しかし、コトバは メが みえる みえないに カカワリなく、だれもが いきて いく ために 必要と する ものです。日本語を カナや 点字の ような 表音文字で かいても 充分 わかる、ミミで きいて 誤解が 生じない、すなわち 視覚に たよらない コトバに 進化させて いく ことは できるのです。視覚に 依存する 文字で ある 漢字を 日常生活で つかう 文字としては 引退させる ことに すれば、日本語は そのような コトバに なって いかざるを えないでしょう。(これは けっして 日本語の レベルを さげる ことでは ありません。むしろ 晴眼者に とっても より よい 言語生活を もたらすでしょう。この ことは カナモジカイが うったえつづけて きた ことです。)
現在、ワタシタチの 社会では「バリアフリー」化が すすめられて います。公共的施設などでは 盲人が 利用しやすい ように 設備が ととのえられつつ あります。当然の ことです。しかし、「バリアフリー」とは、「物理的な 障壁」だけではなく、「制度的な 障壁」、「意識上の 障壁」そして「文化・情報面の 障壁」の スベテを とりのぞく ことです。盲人に とって 漢字は とりわけ「文化・情報面の障壁」で ある ことを ハッキリと 認識し、漢字に 依存しない 日本語ヅクリを めざして いく ことが、ワタシタチの 責務では ないでしょうか。
〔ツケタシ〕
カノジョの ナヤミは まだ あります。どう よんだら いいのか わからない コトバが タクサン ある ことです。「明日」は「あした」とも「あす」とも「みょうにち」とも よめます。「種種」は「しゅじゅ」とも「いろいろ」とも よめます。カノジョは「特に 文学作品では どう よんでも いい と いう ことは ない はずだし、録音は アトに のこる ものなので マチガイの ないように したいが、どう よんだら いいのか まよう。まよった アゲク 結局 わからない。」と いいます。(正解は 著者しか しらない!) 人名に ついては いわずもがなです。
フシギな ことに、晴眼者は ヨミカタが わからなくても あまり 気に とめません。字が メに はいって くるだけで わかった ような 気に なって しまうのでしょう。作家は ヒトコト ヒトコトに 心血を そそぎこんで いる はずです。字の ヨミカタ だって、イイカゲンに かんがえて ほしくは ないでしょうに。
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